2005年05月21日

日本の「ミドルパワー」外交について

添谷芳秀『日本の「ミドル・パワー」外交:戦後日本の選択と構想』(ちくま新書、2005年)を読みました。私は『日本外交と中国:1945-1972』(慶應義塾大学出版会、1992年)以来、添谷先生の著作のファンで、日米安保論、多国間安全保障論、東アジア外交論など、長年にわたり多くのことを学んできました。特に、添谷先生の「国際秩序構想と対外政策」、さらには「対外政策と国内政策」のリンケージを考える思考様式はとてもクールかつ上品で、しばしば泥臭さの伴う人間同士の葛藤としての政策決定さえも、シャープに区分けされた概念の下で演技するアクターに変えてしまう。そんな知的な爽快感を味わうことができました。

さて、この「ミドル・パワー外交論」を書店で見つけたとき、「添谷先生はそろそろ勝負に出たのかな」と思いました。本書で取り上げられる「ミドル・パワー」とは、日本が「ミドル・パワー」であるかどうかには「重きをおかない」ことをことわりつつ、むしろ「外交資源をつぎこむ領域」としての外交論であるという前提にたっています。とはいっても、読者にとってみれば、果たしてそれを「ミドル・パワー外交」と規定することが正しいのか、という「入り口」から説得を始めなければならない。だって、語感からして「ミドル・パワー外交」論は、日本が経済大国だと自負している方々にとっては、なんともすわり心地の悪く、かつロングホールのティーショットをアイアンで打つような感覚を覚えるわけですね。

そして、読者の最大の関心はその「入り口」にあります。来週あたりから、さまざまな書評がでると思いますが、おそらく産経、読売、日経あたりは以下のような論調となるのでは・・・: ①日本は経済規模からいえば、80年代以降はれっきとした大国となった、②80年代以降、国際金融、通商政策、開発政策、技術開発において果たした役割は「大国」の姿そのものである、③したがって日本の(経済)外交をミドル・パワー外交とみなすことは、概念として誤っているばかりでなく、縮小均衡論として国際社会の期待をも裏切る・・・

著者はそんなことは100も承知なわけですね。それでも「敢えて」、「ミドル・パワー」と呼称した真意は、著者のいう「ミドル・パワー外交」の領域こそが、もっとも日本が国際秩序に主体的に参画できる領域であり、そこに知的資源を集中すべきことを提言したかったからだと私は解釈しています。それは、①大国外交意識、②平和国家外交意識の「二重アイデンティティ」の対立が、「日米安保を手放せない日本外交の身の丈にあった役割の模索にほとんど寄与せず、むしろ足枷になってきた」という手厳しい戦後論争の評価を基本に、そこから脱却した「主体的な国際秩序像」を模索する外交ということになります。

わたくし、この論点に深く共感しているんです。というのも、私の日本政治に関する問題意識も、大学生のころ自社連立政権ができ、村山内閣があっさり自衛隊と日米安保関係の合憲性を認めたことにショックを受けたことにありました。そのショックを当時の恩師である佐藤誠三郎先生に伝えたところ、「サルトーリの政党論にも書いてあるでしょう。政党というのは、そういう生き物なのです」といわれて、愕然としました。だって、非武装中立論とか自衛隊の合憲性を論点に、38年間も命がけの議論をしてきたんじゃないのか・・・その理想を実現するために社会党は戦っていたのではないのか・・・という思いがあったからです。

でも、実際は違った。社会党は「いかにその主張が非現実的であるかが、彼らの得票につながった」(佐藤先生)というように、ヴァーチャルな理想論に固執することを、有権者へのパフォーマンスとして票を稼いできた。だとすると、戦後の「二重アイデンティティ」とそれに代表された自社対立のアホな構造に真面目に付き合うのは、徒労以外の何ものでもないじゃないか!という思いに駆られたわけです。だから、日本のパワーを見据え、国際社会への働きかけ(秩序構築への参画)をすることこそが必要なんだ、と思い至るわけです。その意味で、添谷先生の志向には、(私の誤解・誤読がなければ)とても共感する部分が多いんです。

でも、それがイコール「ミドル・パワー外交」ということになるだろうか?たしかに政治は「限られた資源の分配」であるから、分配されたパワーの身の丈に応じた外交を志向することはリアリズムの基本です。ただ、添谷先生が「大国外交」と規定する定義は「歴史と伝統および価値に支えられたユニラテラリズムを特徴とし、軍事力を外交の最後の拠り所とし、大国間政治や安全保障の領域を中心とした国際システムの基本構造を左右する」としています。これって、定義としてやや狭すぎないでしょうか?

たとえば、ウイーン体制のころの欧州列強だってそれぞれ「大国」と定義しますよね。でも列強すべてが上記の定義を満たすとは思えない。さらに、「軍事力を最後の拠り所にし・・・」というのが大国の定義だった時代から、1970年代に相互依存が進んだ国際関係の中では、経済力や技術力が「大国」のステータスとして浮上してきたから、『アフターヘゲモニー』の議論が意味をもったわけですし。

ただ確かに、「大国が規定する国際システムを所与とし、かつ大国との全面的対立を外交上の選択肢として放棄し」てきたことは事実です。日本の1970年代の「自主外交」と呼ばれた一連の政策(例えばインドシナ外交、中東へのODA政策、東南アジア開発モデル、福田ドクトリン)にしたって、よくよく突き詰めれば米国の掌の中の外交であり、(秩序に離反する意味での)自主外交ではなかったとも評価できるでしょう。

でも、そうだとすると「ミドル・パワー外交」がむしろ「米国の掌の中」にいることを助長するという点において、むしろ外交思考を卑屈にし、その枠組みを拘束することにはならないでしょうか。「イコール・パートナー論」・「パワー・シェアリング論」・「米英同盟のような日米同盟」がたしかに空疎に聞こえても、それを目標とし・自負する同盟外交が力強い安全保障秩序を生むと私は考えています。それは「日米同盟さえあれば大丈夫」とかの類の議論ではなくて、日本が米国とともに世界秩序構想を考え、米国の安全保障政策決定に影響力を行使するようでなければ、結局同盟関係の間の「主体性」など発揮できないのではないでしょうか。そのためには、米国と同様に世界情勢にくまなく目を配らせ、そこにおける秩序のあり方に「コミット」する。それが経済的手段であったとしても。これは「大国外交」そのものではないでしょうか。これが私の見解です。

最後に、本書の主張のもう一方の核心(そして著者に本書を上梓する契機となった現象)は、日本国内における自覚的・無自覚的ナショナリズムの台頭への懸念だと思います。そして、実は保革対立が解消し、日本がかつてのような「足枷」としての神学論争から解放されようとしている現在でも、日本のナショナリズムの焦点は、まさに国内論争としての「憲法」であり「戦後」である。そこに、自縄自縛的な「逆噴射」をかけようとするばかりで、国際秩序に働きかけようとするものではない・・・ということでしょう。年配の保守層の世代の方々が、「憲法との対話」に絶え間ないエネルギーをつぎ込み、その呪縛から脱却することが正義だと信じて言説をはっているのに、呪縛からとかれたと思っていたら、実はその闘争こそが本人のアイデンティティであった・・・。こうした陥穽こそが、著者の懸念する外交論の偏狭性であるし、その偏狭性こそは55年体制の繰り返しであったのでしょう。

「ミドル・パワー外交論」はそれを打破する突破口となるのか。。。私は「ネーミングさえ変えれば・・・」と思ってしまうのですが(^-^;)。。。

投稿者 jimbo : 01:34 | コメント (0)

2005年05月07日

韓国における新世代の台頭と「ニュー・ライト」(補論)

前回の韓国政治に関する投稿記事を少しフォローアップします。今月号の『中央公論』所収の小針進「ポスト『386世代』の意外な保守回帰現象」が大変面白かったので、このブログでも紹介したいと思います。(cf. 小針進「ポスト『386世代』の意外な保守回帰現象」『中央公論』(2005年5月号))

小針さんは、昨年9月に同僚らと18歳~60歳のソウル市民を対象とした質問票調査に基づき、韓国人の年齢別の政治態度を分析しています。ここでは従来よく見えてこなかった、「386世代以降」の20代が実は意外な「保守回帰」を起こしていることを指摘しています。

例えば「次の国に対して好感が持てますか?」と言う質問に、18~29歳までの日本に対する好感度はきわめて高い(20~29歳代は63%、18~19歳に関しては他国を抑えてトップの71.2%)んです。韓国の若年層は親日的であるという姿が浮かび上がってきます。ところが、30~39歳になるとこの数字が激減し日本への好感度は44.4%、米国には40%という数字に落ち込みます。これが40~49歳台になると回復(日:51.4%、米:64.2%)、50~60歳代では米国の数字が急増する(日:50.3%、米:84.4%)という興味深い数字が示されています。(⇒標本の有効性について問う必要はあると思いますが)

ここから浮かび上がるのは、30~39歳代の386世代の「特異性」です。

対日好感度は、30代を中心に見事な「逆ベルカーブ」を描き、対北朝鮮好感度は「ベルカーブ」となっています。つまり、「386世代」というのは、韓国の世代全体のなかからみても特殊な世代だということが伺えます。そして、20代と10代後半の意識が、いわば40代以降のサンプルと似た「保守回帰」現象を起こしていることも指摘できます。つまり、「韓国の若年層が反日的」という見方は、この調査からは当てはまらないことになるわけですね。もしかすると、盧武鉉政権の「急進性」も意外に短期間で終了する一過性のものなのかもしれませんね。

ところで、「生まれ変わってもわが国で生まれたいか」「今の生活に満足しているか」という質問にたいしても、18~19歳のYESという回答率は高い数値を示しています。ここでも386世代のYESは他世代に比べて低いんですね。(ちなみに私は別のブログでJ-WAVEのオンエアにおける邦楽の占有率の増加について述べた際に、「東京回帰のナショナリズム」として、日本国内での豊かな生活にプライドを持つ層が増えたことを指摘しました) 実は韓国国内でも同様の傾向があって、経済発展と民主化を謳歌する世代が、「ソウルって楽しいしカッコいい」と感じて満足している層の増加を意味しているのだと思います。(⇒たしかに、中国の反日デモが学生中心だったのに比べ、韓国では日章旗を燃やす等の抗議行動は比較的中年層が多いですよね)

ただ、こうした「保守回帰現象」は比較的無自覚なもののように思えます。というのも小針さんも指摘するように、20代の若者は政治的無関心層が多く、投票率も低く、政治離れが進んでいるからです。そこには、20歳年上の世代への「意識的回帰」や、386世代への「意識的抵抗」があるというよりは、むしろ「豊かな生活をもたらしている相互依存関係への認識が現れている」といったほうが正確ではないか、と思います(もっとも20代の北朝鮮への好感度は高く、これを上手く説明することはできないのですが・・・)。

「386世代」への批判は、むしろ「386世代」の中からでているようです。これが、一昨日紹介した「ニュー・ライト」の台頭です。「ニュー・ライト」運動が、20代以降の新しい世代を巻き込む勢力となっていくのか、これが今後の韓国政治をみるひとつの座標軸と考えるというのは、いかがでしょうか。私はけっこう面白い視点だと思っています。

投稿者 jimbo : 02:05 | コメント (0)

2005年05月04日

日韓関係/韓国における「ニュー・ライト」の台頭?

5月1~3日に韓国・ソウルを訪問し、昨夜帰国しました。今回は、我がSFCと延世大学との連携プロジェクトの打ち合わせがメインの目的でしたが、この機会に多くの人たちに会うことができました。いろいろな幸運もあって、駆け足ながらハンナラ党・ウリ党議員や、研究者、ジャーナリストなどあわせて11人と懇談することができました。

【日韓関係について】

懸念されている日韓関係について、竹島(韓:独島)問題の喧騒は一段落した模様。盧武鉉大統領が「外交戦争」という刺激的な言葉を用いた3月23日の「国民への手紙」で対日強硬姿勢を示して以降、支持率を約15%も上げて「けっこう対日強硬路線は使える・・・」と思ったに違いないのですが、4月30日に実施された補欠選挙では、23選挙区で与党・ウリ党が全敗(うち国会議員5議席)という衝撃的な結果となりました。

この惨敗はウリ党と青瓦台の双方に相当の衝撃を与えているようで、盧武鉉型の急進的な改革路線(過去の清算や首都機能の移転など)には軌道修正を余儀なくされているようです。

こうなると、「選挙前には日本をたたけば票がとれる」という構図にも、「再考が必要」との認識も徐々に生まれているよう。今回の強硬な対日姿勢については、盧武鉉大統領自身(と青瓦台)主導の「政治化」(politicization)ということは異口同音に言っていました。中道派のハンナラ党の議員や学者・ジャーナリストは盧武鉉大統領の対日姿勢についてはやや呆れていた感がありましたが、彼らも「一度政治化されると、独島問題では引くことが許されない」政治環境だったと、回想していました。

あるジャーナリストは「領土問題について双方が原則的立場から対立するのは当然で、そうした状況の中で目指すべきは『解決』ではなくて『管理』であるべき」といいます。「管理」とは、問題が発生したときにいかに収束させるか、そして問題自体をどのように発生させずにおくか、そしてその構造をどのように保たせるか、ということを意味します。「解決できない以上管理を」という発想が一部のジャーナリストたちに共有されていたことは興味深いですね。

たとえば竹島問題について、「韓国側はどうしてあんなに極端な反発をするのだろう」「きっと国内向けにそうする必要があるのだろう」と日本側が見る向きに対して、「(韓国側だって政治化したくないのに)日本はなぜ問題の発生を未然に防げなかったのか(⇒島根県議会の決議を事前に止められなかったのか)」という思いも強いようです。それでも、一度政治化すればこれに対応せざるを得ず、韓国側としては盧武鉉大統領自身が旗を振って最大限利用するとともに、ヒートアップしたやり取りが国民の感情を刺激するスパイラルを誘発し、「日本側はもっと韓国人の深いトラウマを理解して欲しい」という議論が浮上するわけですね。

他方で、ある日本研究の学者は「日韓がお互いの関係ばかりを見つめず、地域問題やグローバルな問題について、互いの共通の認識を確認しあう場が足りない」と述べていました。1998年の小渕・金大中会談において、日本側が「日韓共同宣言」で「痛切な反省と心からのお詫び」を示したことに対して、韓国側は歴史問題の「脱政治化」という路線を提示しました。その後、日韓関係はハネムーン期ともいえる良好な関係でおおむね推移したわけですが、実は「日韓共同宣言」の下で進めるはずだった「日韓パートナーシップのための行動計画」ついては、その後十分に詰められていなかった。たとえば同行動計画には「国際社会の平和と安定のための協力」「地球規模問題に関する協力強化」が謳われていたわけですが、これらの項目に両国が十分に取り組んできたとはいいがたい。

つまり、日韓関係は互いの関係の良好化に満足して、「二国間関係を超えた共通の問題領域の定義」を怠ってきた。すると、二国間関係がコケると、「その他の問題領域での協調」が無いことに気づく、これではマズいということです。上記教授は、「日米関係が1996年に再定義されたように、日韓関係にも再定義が必要だった」と指摘します。もっとも、日米と日韓を同じ土俵で論じるわけには行きませんね。1998年は日韓関係の大きな再定義だったことは間違いありません。しかし、同教授のいうように「二国間を超えた共通の問題」に取り組む政治宣言をもう一度出したほうがよい、というのはもっともだと思います。日韓関係は、韓流ブームの下での文化交流に隠れて、互いの協力の脆弱性に気付けなかったのかもしれません。

【韓国における「ニュー・ライト」と「ニュー・レフト」】

ところで、韓国内ではいわゆる「ニュー・ライト論」が台頭しているようです。会食を共にした「ニュー・ライト論」の旗手S氏によれば、同論は「リベラル思考の保守」を表すようで、「思想の自由」を前面に掲げる保守思想ということになります。「ニュー・ライト」がどれだけの凝集力を持っているかはまだ未知数ですが、昨年11月に解説されたウェブサイト「シンクネット」や「リバティー・ユニオン」(響き悪ぅー)を中心に、言論活動を展開しているようです(ウェブサイトは残念ながら韓国語のみ)。

大きくまとめれば、「オールド・ライト」への対抗としての「柔軟な保守」あるいは「プラグマティックな保守」ということになるでしょうか。S氏の言葉を借りれば、反共思想ひとつをとっても「独裁・宣誓のための反共」と「自由のための反共」はことなり、「ニュー・ライト」は自由主義をベースに国家の基本的価値を守ることを主軸にするとのことでした。したがって、彼らの対日思想は愛国的でありつつも、安全保障・経済・文化・価値などを判断した現実主義を旨としているようです。もちろん彼らは、いわゆる「親日派」ではなく、保守リアリズムに基づくことに留意すべきでしょう。(ニューライトについては、こちらこちらも参照)

また、韓国の386世代については、ノ・ムヒョン大統領を誕生させた「リベラル社会運動世代」として脚光を浴びてきましたが、どうやらこうした若手リベラル層にも、新たな動向が散見されるようになってきました。いまや2000万回線とも呼ばれるインターネット王国の韓国では、世論の動向をネットが大きく左右するようになっています。たとえば、多くのテレビ局の映像配信や、新聞社の記事配信についても、ネットへの転送率は著しく高く、ホリエモンの登場を待たずして、報道・論説情報の相当部分がネットでやりとりされているといえます。

そんな中、「ネット社会に漬かる若手世代は、リベラル、反米、国家主義的、ウリ党・盧武鉉支持」という構図に、やや変化が現れてきているようです。①「オールド・レフト」(盧武鉉世代)層と386世代にも断裂が生まれ、②386世代も一枚岩ではなくなってきており、③さらに若者層の間では「ニュー・レフト」といった構図も生まれつつあるようです。うまく分類できないのですが、一方の極に専制政治と戦った「オールド・レフト」の闘士たちがいて、もう一方の極に政治的無関心層とスーパーリバタリアンがいる。この組み合わせが、かなり複雑化しているというのが、レフトの新しい動向のように感じました。

ちょっと、このあたり韓国政治・社会に疎い私としては深く切り込めないのですが、今後の韓国の政治動向やナショナリズムの動向についても、ここ2~3年の分析と異なる新しい展開が生まれてくる気配があります。これらの断裂をどう理解し、スーパーリバタリアンを超えた「秩序」が、どういった思想によって形成されてくるか、いままさに韓国は模索しているといった印象を受けました。

投稿者 jimbo : 12:02 | コメント (0)