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2008年12月14日

オノマトペとコンテクストアウェアネス

かつて作ったNarrative Handというメディアアート作品は”つぶす”という動作の速度によって流れる映像がさまざまに変わるというものだ。おなじつぶすにしても「そっと」と「ぎゅっと」、それぞれにやどる感情はまったく別のもののはず。そして、形容詞と形容動詞を使ってインタフェースを考えたい、といったことをデザイン言語2.0という本の中で書いた。

動きを表すには動詞が用いられるが、同じ動きを表現するにも、英語は動詞の種類が多いらしい。日本語は動詞の種類が少ない代わりに擬音語が多いそうだ。福田収一 デザイン工学 p. 78から引用した例を。
叩く:clap, strike, slap, hit, beat, pat, knock
焼く:roast, grill, toast, broil, bake

センシングした状況をコンピュータ内の状態やコマンドに変換するにあたって、オノマトペをひさしぶりに色々と探ってみようと思ったのだが、その時に穂村弘さんの絵本も購入。先のエントリーにある「万葉人の技術」を買ったのは、オノマトペ→穂村さん→万葉集という流れから。

めくってびっくり短歌絵本〈2〉サキサキ オノマトペの短歌 (めくってびっくり短歌絵本 (2)) で最初に紹介されていた短歌は北原白秋。

 君かへす朝の敷石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ

なんとも美しい情景とその表現。


追記。

英語と日本語の擬音語・擬態語の比較について、山口仲美 犬は「びよ」と鳴いていた 光文社新書 p.13より。

乾亮一さんの調査(『市川三喜博士還暦祝賀論文集』研究社)英語では擬音語・擬態語が三五〇種類しかないのに、日本語ではなんと一二〇〇種類に及ぶ。三倍以上ですね。小島義郎さんは、『広辞苑』の集録語彙をもとに同じような(『英語辞書学入門』三省堂)をしていますが、彼によると、日本語の擬音語・擬態語の分量は英語の五倍にもなります。擬音語・擬態語は、まさに日本語の特色なのです。

2008年12月12日

システム工学と万葉集

卒論の時にお世話になった三浦宏文先生の先生が、渡辺茂先生という方である。卒論はロボットをやろうと思って三浦・下山研究室に入ったのだが、三浦先生の授業の中で紹介されたシステム工学というものに興味を持ったのは、研究室に入ってからの4年生の時だった。渡辺茂先生の著書「システム工学とは何か」NHKブックスはいまでも大事にしている本のひとつでもある。

デジタル・アナログを問わず手のひらスケールから都市スケールまでの様々な要素をまとめ上げてひとつのシステムとしてデザインしたい、もしくは、どういう要素をどう組み合わせるとひとまとまりのシステムになるのか?という今の関心の大きな源流は、システム工学への興味なんだろうなと思う。

で、Amazonでいろいろと本を探していたら、その渡辺先生が万葉集に関する著書を書かれていたということを知り購入。
歌人の穂村弘さんといろいろ雑談をさせていただくことがあって短歌もオモシロいなぁなどと思っていたけれど、自分の興味の幅なんてまだまだ小さいもんだ、と思った。深々と頭を垂れたい。

2008年12月02日

メディアとしてのメディアアート

アーバンコンピューティングシンポジウムで、森脇裕之さん・森山さん・江渡浩一郎さん・前田邦宏さん・安藤さんのお話を伺った。

光をテーマに色々な活動を行ってきたこと(小林幸子さんの衣装や柏の葉駅で行われたテレイヨ・グラフィー)に続き、大阪の千里で行われている「未来の学校」やニューキャッスルに遠征した「東京ピクニッククラブ」などの紹介があった。


森脇さんのお話の中ではっとしたのは、メディアアートは、新しいテクノロジーを使ったアートだと思われているだろう( http://ja.wikipedia.org/wiki/メディアアート)けれど、メディアアートはデジタルかアナログか・最新技術か枯れた技術かは問わずにメディアとして機能するアートであるべきなのではないか?ということだった。

人と人・人と場所をつなげて、地球や国や都市や街や村の中で機能不全に陥っている場所を活性化する役割があるものをメディアアートと呼ぶべきではないか?、ということだろうか。とても共感できる。

また江渡さんとのセッションでは、ネット内で完結したシステムのほうに関心がある江渡さんと、ネットと都市とが混ざり合っているシステムに関心がある自分、というコントラストが浮き上がってきたことはとても興味深かった。

仮想か現実か・デジタルかアナログか・最新技術か枯れた技術かに関係なく、何をどう組み合わせるとどういう効果があるだろうか?ということに個人的な興味があるのだけれど、その源泉はどこにあるのだろうか。
いぜんとある航空工学科出身の情報システムの先生に、機械工学科卒のやつはとにかく動けばいいと思っていてシステムの思想や原理に対する関心が低いんだよな、と言われたことがあるのだけれど、関係があるような無いような。