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都市の構造に「衝撃を与える」

東京計画 - 1960はメガストラクチャーが実現可能になり自動車が交通システムの主役になろうとする時代に提案された、新しい都市の構造であった。
東京湾を横断するメガストラクチャーに目が行きがちであるが、これまでの古い東京を活かしながらも拡張するように四谷から銀座を経て東京湾へと伸びる交通網が提案されていた。

丹下健三先生の偉大な功績のひとつに広島平和記念公園および広島平和記念館がある。

中谷礼仁氏による「場所と空間 先行形態論」の七節「都市の転用」の中で、広島平和記念公園および広島平和記念館が「都市転用のプロセスを、社会的計画として推進し、成功した希有な例」として紹介されている。

中谷礼仁, 場所と空間 先行形態論, 都市とは何か, 岩波書店, pp. 67-99 (2005).
● 96頁より

丹下は同時期、都市に対して以下のような意味深い言葉を述べている。

「都市は焼け野原になってしまいましても、決して白紙ではないということであります。都市はいつでも元に帰ろうとする生きた力をもっております。白紙の上に理想的な都市の姿を描いても、そこからは決して新しい明日の都市は生まれてこないということであります。いつでももとの古い都市、私たちが精算し、克服してゆこうと思っているような昔のままの都市が、そのまま再び生き返ろうとしております(13)」。

そしてまた彼らによる計画の提案に対しては以下のように述べている。

「都市は構造を持っている。計画は、その構造の因果的な関連の分析である。それは、その構造に何らかの衝撃を与えるとき、そこから生まれる効果の因果的な関連を測定するおとである。そうして、その有効な衝撃の具体的な方式を発見することである(14)」。

 ここで丹下が、構造を改造するのではなく、構造に「衝撃を与える」と表現していることに注意したい。白紙の上に都市を思い描いても、そこからは決して新しい都市、場所は生まれないのだ。丹下はこの計画においてとうとう「有効な衝撃の具体的な方法」、つまりは先行形態に衝撃を与え、転用し、新しい場所を生み出すことに成功したのだった。その営為に対して私たちが称賛を惜しむ必要はないのである。

編集する対象のスケールや並べる要素のスケールの大小の違いはあるが、これは先のエントリーの、馬場さんによる「すでにある都市を使うこと」と変わらない。と思う。

原爆ドーム・慰霊碑・資料館を結ぶ南北軸と、資料館を中心とする3棟の建物による東西軸からなる公園の計画は、当時の若手建築家・丹下健三の設計による。資料館と慰霊碑も丹下の設計。
Wikipediaより

東京計画 - 1960には、サブタイトルとして「その構造改革の提案」と書かれてある。
新建築, 36卷, 3号, pp.79-120 (1961) の最初の頁。

TangeTokyo1960Cover.jpg

● http://www.ktaweb.com/works/tmp.html より転載
もはや東京は「都心」という求心的な構造の概念にとらわれていてはこれ以上の発展は望めない。そこで都心から東京湾にスパインを伸ばした場合にどういうことが起こるか提案してみたのである。これを「シビック・アクシス」と名付け、具体的な構想を練った。

こうした私の構想は、単に東京という一つの都市の未来像を描いたというわけでなく、「構造主義」という新しい概念として受け入れられた。それはひとつひとつの機能を如何に働かせるかということだけではなく、それぞれを如何に結びつけ、全体を構造づけて行くかという考え方である。

ここで言われている構造こそが都市の「アーキテクチャ」であって、広島平和記念公園および記念館は、建築としてのアーキテクチャを作ることで、それを内包する都市のアーキテクチャに「衝撃を与え」より明確にしようとしたと言えるだろう。

アーキテクチャの上でアプリケーションを作るも良いし、あるアプリケーションが動きやすいようにアーキテクチャをバージョンアップしても良い。あるアーキテクチャの上にアーキテクチャを整えて、アプリケーションを動かしても良い。

今の言葉で言うと「プラットフォーム」の方が分かりやすいかもしれない。

(追記)
このエントリーを書いた一週間後に山口のYCAMに行ったので、これも縁だと思い(?)広島に行って平和記念公園に行ってきました。原爆で焼け野原になった都市に公園をnewすること、その強い意志を感じる軸線でした。