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2009年11月27日

アーキテクチャの向かう先は?学習と創造?

創造するアーキテクチャの、地盤、大地、河・川、花というメタファーの続きを。

農業が主産業の時代には治水は王様や殿様の事業だった。江戸時代には高速な物流インフラとして運河が巡らされた。
 river.addSubPath();
 river.changePath();
オブジェクト指向的な表現であれば、こう書けるだろうか。

都市工学は、こうした作業を近代的に行うものであった、と言えるかもしれない。
 new Land();
 new Town();
 land.addVerticalLand();  // 高層ビル
 land.addHorizontalLand(); // 鉄道や道路による都市の拡張
のために。

先にも触れたCommunity Super ImposingやPost University Packは、計算機(メインフレームとそれに接続された多くの端末が想定されている、コンピュータというよりも計算機と呼ぶ方がしっくりとくる)があるという前提で都市を作る場合、何を要素とし、どういうプロセスでそれらを組み合わせる設計を行い、どういったカタチをつくり出すか?ということが提示されている。

メインフレームを中心に考えられた都市でもあるので、
 new ControledLand();
という感じがするが、管理や計画という近代的な枠組みの中で、人間が行うべき活動は、創造や学習である、とされているところが逆説的でもあり興味深いところでもある。

 new AugmentedLand();
 new ConnectedLand();
が目指すべきところは何だろうか。

ORFの別のセッション「ものづくりと知の融合(筧康明、増井俊之、中西泰人)」では、何のためにインタラクティブなシステムを作っているのですか?という質問があった(ややあいまいな記憶)。知能増幅です、と自分は答えた。

学習と創造、とも大差ないように思えるが、どういった社会にすべきか?というゴールまで考えた道具をデザインするのか、何かをつくり出すかまでは関与できないけれども人が持つ知能を増幅する道具を作りその結果として何がどうなるかまでは予測しない(できない)という立場の二つに分かれるかもしれない。
それは、ユーザ中心志向デザインとタスク中心志向デザインの違いかもしれないし、コンテンツ派とアーキテクチャ派との違いにも近しいのだろうか。まだ良く分かっていないところでもある。

鉛筆とTwitterとアイデアキャンプ

Twitterで世界は変わる/変わらない、といった話をさまざまなところで小耳にはさむ。

いろいろな所で紹介している、片岡義男「何を買ったの文房具。」のあとがきに、とても好きな一節がある。

あとがき

どの文房具もそれぞれに所定の機能を持っている。そしてその機能は、可能なかぎり多くの人にとって、可能なかぎりたやすく発揮させることができるよう、もっとも単純でありつつ同時にもっとも確実な作動の構造へと、転換されている。生産や創造からどんなに遠くとも、どれほど間接的であろうとも、文房具を使うあらゆる人に対して、生産や創造への関与が期待されている。人間の文明を人間が担いつつ前進させていく過程への期待が託された様子を、すべての文房具の造形に見てとることができる。文房具は人間の文明を肯定している。肯定するだけではなく、肯定に支えられた前進や展開、拡大、開拓などを、全面的に期待もしている。

大学院の少人数の授業でこの一節を紹介した後で、鉛筆とTwitterではどっちが世界を変えると思う?と聞いてみたところ、 鉛筆:4人、Twitter:1人という結果だった。

この違いを自分なりに振り返ってみると、
 鉛筆:知能の増幅に関与
 Twitter:関係性の増幅に関与
という違いがかもしれない。

と考えると、アイデアキャンプ
 紙とペン:知能を増幅しつつ
 現場や開放的な場所へ行く:関係性を増幅しよう
ということかもしれない。


コンテンツとアーキテクチャの生態系

前提の話をどこから持ってくると良いのか分からないのだが、ORFのセッション「創造するアーキテクチャ2(濱野智史、江渡浩一郎、木原民雄、中西泰人)」で濱野さんに、コンテンツ派、アーキテクチャ派という言葉を教えてもらう。
動画はこちらに。

コンテンツが生まれやすいアーキテクチャ=創造するアーキテクチャなのだと思っているのだが、花=コンテンツ・畑/大地=WikiやSNSやブログ等の情報システムやサービス、というこれまでも使ってきたメタファーで考えると、インターネットは大きな地盤のようなものかもしれない。

インターネットという大きな地盤の上で、さまざまな花が育つような大地=創造するアーキテクチャが生まれていく。大きな河や小さな川の流れによって土壌はより豊かにもなるだろうし、新たな大地が出来ることで、流れが変わったりもする。
電話という大きな地盤もあるが、インターネットという地盤との褶曲によって、NGNという新しい地層が出来たんだ、と思ってみると、地図オタクや地形オタクのみなさんとも話が盛り上がるかもしれない(w

レイヤーを分離しておく方が、設計としてはシンプルになるし、上の層では下の層を気にする必要なく好き勝手にやれる、というメリットもあるのだけれど。
 人工地盤 :都市計画、埋め立て地
 人工大地 :ニュータウン、ユニバーサルスペース
 コンテンツ:住宅やオフィス、もしくはそこで発生する活動
というふうに対比してみると、リアルな空間においては、層を分け、下の層は上の層に影響を及さないようニュートラルでユニバーサルなものにしておく、という考え方は、情報空間におけるメリットをそのまま持ち込めないのではないか、ともふと思った。

そう考えると、リアルな空間と情報空間をリンクさせながら創造するアーキテクチャをつくり出してゆくには、コンテンツ派ですか?アーキテクチャ派ですか?という二元的な問いをしてその二層を分離しない方が良い気もする。

これについては、1972年の建築文化310号「情報空間」特集号で発表された、曽根幸一氏らのCommunity Super Imposing、磯崎新氏らのComputer Aided City (発表時のタイトルはPost University Pack)を踏まえ、議論してみるとオモシロいのではないか、と少し考えている。

創造するアーキテクチャ3、のネタになるかも?