有効な無駄をソフトにセットする
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今日、情報化社会について考える時、われわれはともすると、コンピュータによる無駄のない効率的な社会を考えがちである。これでは社会的緊張や機械的人間が増大していくのも当然である。真に情報化社会が志向するのは、いっさいの無駄をなくすのではなく、“有効な無駄”を常にソフトにセットすることである。
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1969年に出版された、
林雄二郎 情報化社会 - ハードな社会からソフトな社会へ 講談社現代新書
の帯に書かれていることばである。
1967年、東京工業大学に社会工学科が新設される際に教授就任し、1971年、財団法人未来工学研究所所長を経て、1974年10月15日、トヨタ自動車が自動車事業創業四十周年を記念したトヨタ財団を設立。長男は元博報堂生活総合研究所所長の林光。そんな経歴も、なるほどと思う。
梅棹忠夫、小松左京、加藤秀俊、川添登らと未来学について議論を重ね、この本が書かれたそうだ。デザインの付加価値、レジャーの意義の変化など、的確に未来が予想されているように思う。というか、復刻される価値があるほど、この当時の問題意識は現在でもまったく解決されていないということでもある。この40年ぐらい、社会は進歩していないということなのだろうかとも思うが、一部では取り組まれていることもある。
それは、人が適切な選択をするための情報を素早くフィードバックすべき、ということである。
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この選択的機能という言葉の示す通り、いわゆるポスト・インダストリアル・ソサイエティはすぐれた高度選択社会でなければならない。そしてそのためには責任と主体性がすべての人に明確になっていることが不可欠の条件となる。しかし、責任と主体性が明確になるためにはその前提条件としてすべての情報のフィード・バックが完全に保証されていなければならない。今日の社会をながめてみると一面では情報氾濫時代といわれる程多情報社会となっているにもかかわらず、それらの情報のフィード・バックの仕組みははなはだ不完全というよりもまったく欠いていることが多い。なるほどこれは無責任と付和雷同が横行するのも無理のないことである。それは必然的に社会の硬直性を促進する。
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twitterが人力センサーネットワークだと考えれば、そのリアルタイム性の向上は眼を見張るべきだろうか。もしくは付和雷同だと考えるべきだろうか。
馬鹿とハサミは使い様?のように技術はニュートラルなものであると考えれば、答えは、どちらも正解、だろう。