« Mai 2006 | メイン | Juli 2006 »

Juni 30, 2006

2日目

久しぶりに日本でお出かけ。

携帯を買おうと思って、携帯屋。
店員が言っていることがよくわからなかった。
702iD、901i、902i、902iSという機種の違いを聞いたのだけど、
どこがどう違うのかいまいち理解できなかった。
3Dサウンドがどうとか、メールロックがどうとか、
色々熱心に説明してくれたんだけど、何が何だか。

消費論でよく語られる話だけど、
ブランド商品も、車も、服も、
その世界の外側の人にとって、その世界の価値の順序はわからない。

携帯屋さん以外にも色々行ったけれど、
本屋をのぞいて、現実感がほとんど感じられなかった。

まあ、抗い続けない限り、染まることは簡単だから、
来月には「SH902iSは有機EL採用サブディスプレイ搭載だからミラーにもなるなあ」とか
「N702iDはおまかせデコメールでかわいいメールも簡単にできちゃう!」
とか、わざわざドコモのサイトを見ないでも言えるようになってるんだと思います。

投稿者 POE : 11:33 EM | コメント (76) | トラックバック

着いちゃった。

29日の夜に成田に着いた。
空気が重く苦しい気がした。

久しぶりの日本での世界は笑ってしまうくらい何もかもが同じで、
たとえば洗面台の低さに驚いたりはするんだけど、
体は普通にその使い方を覚えていたり、
部屋の机に残したメモもそのままだったり。

途中の過程がずっと寂しかった。
オスロでは、特に最後の一週間は、
いつも誰かといたから、
何十時間も一人でいて、不思議な気分だった。

今はこれくらいかな。
整理できないもん。

というかノルウェーの整理をする前に、
日本の部屋の整理を始めなくてはいけないという目の前に突きつけられた事実。

てっきり真新しい部屋で、新しい生活がまたはじまるような気がしていたのだけど、
待っていたのは、とりあえず机にたまった書類や本の整理。部屋の片付け。

今週もノルウェー同じようなことをしたばっかりの気がするんだけどなあ。
またあの3人来てくれないかなあ。

投稿者 POE : 12:49 FM | コメント (25) | トラックバック

Juni 27, 2006

最後の朝

雨です。

しかも、最寄の郵便局が改装工事中で小包もエアメールも出せません。
部屋の中には横たわる10kgの箱が三つ。

部屋の中はがらんとして、
まるで自分が10ヶ月もここにいたのは嘘のようなのに
10kgのダンボール箱が三つ。

色んなことがあって、
その色んなことはもう二度と起こらなくて、
でもそんな一度限りのことだけで世界は出来てて、
その意味じゃ特殊なんてものは比較からしかわかりえないし、
しかもありえたかも知れない未来と今を比べることはできないから、
その色んなことは、なんとなく色んなことというしかないんだけど、
色んなことがあってよかった。

最後の日に郵便局がしまっていてよかった、
最後の日が雨でよかった、

みたいな達観はもてないけどね。
というわけで、帰ります。

南へと続く
灰色の道が
ゆるやかに傷を負う

戻れない日々を
取り戻すように
僕たちはまた
何かを失うために
足をはやめる

そこら中にあふれてる
過去を隠して
少しでもあの未来へ
近づけたらと

気が付けば
憧れていた背中を通り越し
ぼんやりと光っていた日々は
ただの地平線の一つになっていたのに

重なってゆく風が
頼りなく日々をかき乱す

変わりようもないと
あきらめている昨日が
組みなおされてゆく過程

それはただ
ここにいるだけでも

::::::

投稿者 POE : 08:26 FM | コメント (29) | トラックバック

Juni 26, 2006

最後の夜

昨日から寝てない。どれくらい寝てないかというと、
朝の10時までトランプをやっていて、そのあと郵便局に行く途中で
地下鉄の中で3分だけしか寝ていない。

今日は、友達5人とバイバイしてきた。
旅立ちとは違うから悲しい。

一年だけの留学みたいに、
行って帰ってくるような話じゃない。

もうこの場所には戻れない。
もちろんオスロにはいつでもお金さえあれば来れるけど、
そこにここにいたみんなは、いない。

二度ともう戻れないかと思うと急に寂しくなりだす。
でも、そんな感傷も部屋を見渡せば大丈夫。

昨日、友達が夜を徹して掃除を手伝ってくれたのにも関わらず
なぜか部屋にはまだものがものがものがものがものが。

きっとそんな穏やかなものじゃないんだと思う。
気付いたときに、もう船は出ていることのほうが多くて、
出航の準備なんてただあわただしさだけでの中でのこと。

最後の夜。
でも、夏至が過ぎたばかりだから、まだ明るい。

投稿者 POE : 09:14 EM | コメント (50) | トラックバック

Juni 22, 2006

働けど働けど

減らせども減らせども我が部屋きれいにならずじっと手を見る。

石川啄木の気持ちもわかりつつある今日このごろ、
オスロにいる日もあと6日間。

carryonという10kgで7000円のノルウェーにしては安い航空便があるんだけど、
それをいったいいくつ使えば、この部屋から人の痕跡が消えるんだろう。

こっちに来たときは、必要なものを自分の部屋から持ってきただけだから、
パッキングといっても旅行と同じだったんだけど、
今度はもうこの部屋には何の置いてはいけない。

不思議。
引越しを繰り返している人や、引越し屋さんには何でもないことなんだろうけど、
人が住んでいた場所からまったくの形跡が消され。
まるでその人が来た前の状態のように部屋が戻るって事実。

この部屋というプラットホームはまだずっと続いてゆくのに、
その中身は変わり続けてゆくなんて、
世界の図式と同じだあ。

ゆく川の流れは絶えることないけど、
その水はもう、もとの水じゃないんだよね。

次にこの部屋に住む人は、
前の住人がチョコ中毒患者だったなんて気付かないんだろうなあ。

投稿者 POE : 04:57 EM | コメント (5) | トラックバック

Juni 20, 2006

パック

カレンダーを見たら、この部屋を出るまであと一週間をきったので、
「さて」と思い立って、チョコを食べて、アイスを食べて、本を読んで、
荷造りらしきものをはじめてみる。

とりあえず、機内持ち込み用のバッグにどれくらいものが入るのかと
本だけを詰め込んでみたら、15kgになってしまった。
機内持ち込みはふつう重さをチェックされないだろうけど、
15kgのものを持ち歩ける自信はない。

もう少し若ければ(たとえば12歳くらいだったら)
「よーし!明日から筋トレ頑張っちゃうぞ!」
となったかも知れないけれど、さすがにそれはね。

しかも、15kgが一気に減ったというのに
部屋の様子は何も変わろうとはしない。
追い討ちとして、ベッドの下にも、部屋の外のロッカーにも、
まだまだ荷物は残されたまま。

こんなときに考えるのはどこでもドアのすごさ。
あのドアさえあれば、こんな荷造りに頭を悩ませることもない。
それどころじゃない。

どこでもドアが発明されて普及してしまったら、世界は大変なことになる。
航空会社、運送会社など人やモノを物質的に運ぶ会社はほぼ消滅する。
留学なんていう概念も消える。
どこに住んでいようが、どこにでもいつでも行けるんだから。
ということは、国境なんてものも意味を持たなくなってしまう。

ということは、こんな日記なんかじゃ手に負えないくらい大変なことだ。
ということで、また荷造りでも続けようかな。

投稿者 POE : 11:07 EM | コメント (56) | トラックバック

Juni 19, 2006

写真

旅行の写真をパソコンにうつしてずらーっと見てみたんだけど、
自分に写真の才能がないということをこれでもかというくらい見せ付けられた。
でも、写真ってすごくとってしまう。

ビーチというどうしようもない小説の主人公は、
写真をとってしまうとその切り取られた瞬間の風景しか思い出せなくなるから、
写真が嫌いだみたいなことを言っていた。

だけどそれは違って、個人的には、写真1枚あれば、
その前後の瞬間がばーっとよみがえくるので、
記憶の補助装置としての写真は有効なんじゃないかとは思う。

アルファベット表記システムが確立する前、
彼らは母音を書き記すことはなかった。
つまり読み手がそのつど母音を補って読むわけ。

同じように、写真は出来ごとを一瞬しか切り取らないけど、
そこに存在したはずの母音を思い出せば、
色々な出来事がよみがえってくる。
さらに実際とは違う母音をいれたりしてもタノシイ。

.....まあ写真もなしにこんなことを語ってもね。

投稿者 POE : 01:43 EM | コメント (43) | トラックバック

Juni 18, 2006

ちょっといいはなし

honobono.JPG

住んでいる場所の玄関あたりにある伝言板。
i-podをなくしても、戻ってくるなんて素敵な話です。

ただ、画鋲に注目すればわかるのですが、
「ぼくのi-pod知らない?」という紙の方が
「i-pod見つけたから取りに来いよ」という紙より上にあります。

もしかしたらこれは巧妙なプロパガンダだったのかも知れません。

投稿者 POE : 04:47 EM | コメント (62) | トラックバック

Juni 16, 2006

6月17日。

今日は久しぶりに一日中ひとりでいた。
遅い昼に起きて、洗濯して、図書館へ行って。

もう大学にもあんまり人はいなくて、
図書館なんか貸切にも近かった。

空も緑も風も、なんか絵に描いたように平和的で
なんだかふっと悲しくなる。

夏休みの終わりとは少し違う。
卒業の感覚とも違う。
最後の一口でもない。

まだなんで悲しいのかはわからない。
失くし物って、失くした後じゃないと気付かないから。
しかも失くしたって気付いても、
ほかのもので代用できる場合がほとんど。

なんとなくの欠落の予感は、
すぐに喪失の痛みじゃなくて、
新しさや懐かしさだとかに埋め合わせられていくんだろうな。

仏教のいうように、変わらないことだけが唯一の変わらないことだとして、
浮動する姿こそが本来の在り方だって簡単に受け入れてしまえればいいのかな。

というわけで、とりあえず、日本じゃ買えない、他の国でも買えない、
スーパーなのに300円する500mlのコカコーラでも飲みながら。
野菜しか入っていないのに700円するサンドウィッチでも食べておこうと思います。

投稿者 POE : 07:33 EM | コメント (3) | トラックバック

ひとつ

旅行からも帰ってきて、10ヶ月の保養所生活もあと2週間。

都心部じゃ人が10時間働くとかいう極東の国に戻った後の日々のことは
うまくまだ現実感を持って感じられないけど、
現実なんて向こうから迫ってくるものだしいいか。

満腹時には忘れてる空腹感も、時間がたてば嫌でも思い出して、
そしてチョコを食べればまた空腹感はきえるし、しかもチョコはおいしいから。

旅行の間、色々な顔や風景を一気に見すぎて、
歴史についてもそんな詳しいわけじゃないから、難しいことはそんなわからないんだけど、
あんまりにも離れ離れになってしまった色々な全てについてずっと思ってた。

たとえばウィーンの自然博物館で(わざわざウィーンで行くことは全然ないんだけど)
いくつもの部屋に何百、何千の生き物がバーっと陳列してあって、
当たり前のことなんだけど、生命がはじまった40億年前のあの日から
150万種以上に別れてしまったぼくたちのことを思ってた。

ずいぶん遠くまで来てしまったんだなあって。

本当は自然博物館の真向かいにある美術館に入りたかったのに
その二つの建物の形はほぼ対象になっていて、
まったく気付かずに入場口を間違えて、
時計を見れば美術館の閉館時間もまじかで、
そんなときに、そんなことを、鳥の展示室の前で思ってた。

投稿者 POE : 11:06 FM | コメント (2) | トラックバック

Juni 03, 2006

というわけで。

明日から10日間旅行に行ってきます。

3人で行くのだけど、その3人を知っている友達からは必ず
「珍道中だね」と言われます。
自分でも珍道中だとわかっているので大丈夫です。

昨日は、日本語人でパーティー。

日本人になるのはとても難しいけれど、
日本語人への参入は、そんな排他的じゃなくていいね。

あらゆるカテゴリーは選別と排除の装置だけれども、
ひとはふつうカテゴリーなしには生きていけない。

だから出来るのは、カテゴリーを出来るだけフラットにして
離脱も参入も出来るだけ自由にすること。

と、書いていたら部屋にハチが入ってきました。
部屋の窓を開けておくと、入って欲しくないものまで入ってくるので、
たいていの場合、開放のさじ加減がすごく難しいことを痛感です。

というわけで、ハチと見なされないように、いってきます。

ふわりさめるゆめ
ひろくにぶくしずむそら

遠くウェストファリアの風がやむころ
にぎりしめていた出来ごとがこぼれてゆく

1991年からのメロディーが
今日もまた扉や線をこえて聞こえてくる

守るために誰かを傷付けてしまった日々を
ぼんやりと想い返す

幸せさえ上手く分け合えない
僕達の不器用さに泣いていた涙はかれた

2008年頃とおりぬける空
交わりあいながらやみへ近づく

ふわりやんだひかり
ひろくつづくあすのけはい

投稿者 POE : 06:08 EM | コメント (2) | トラックバック

Juni 02, 2006

タビー

30日にテストが終わってから毎日楽しかった。

その日の午後は、先生と履修者(3人だけど)で飲みながら話す。
もう会うことはおそらく一生ないんだろうなと思うと不思議な気分。

世界はもうこんなに小さくなってしまったし、
人と会うための担保もたくさん存在するので、
どうしても会いたい人と会うのは難しくなくなったけど、
少しだけまた会いたい人と会うのはまだ簡単じゃない。

で、世界をまわってるlukeが夕方オスロに来る。
「ノルウェーは森」という名言を頂きました。

ナムソスで仲良くなった、友達のお母さんがオスロに来ていたので会う。
まだ一ヶ月少ししかたっていないのに懐かしかった。

31日はlukeとオスロをまわる。

去年の夏以来にぶりにヴィーゲンラン公園へ行って来た。
そのときは全然気付かなかったし、憩う人にとってはどうでもいいのかもだけど、
広島にあってもなんら不思議のないような巨大な慰霊碑みたいだった。

夜は朝の6時まで友達と話す。不慮です。
昔の写真と、今の顔を比べて「老けた。今はホームレスみたい」と、
スイス人っ子にlukeはばかにされてました。真顔で。

そりゃ朝まで話したので、11時にしていた約束を守るのに2時間かかった。
(2時間遅れも、こうやって書くと、むしろ頑張った感が出ていいと思う)

少し日本語の勉強手伝って、遊園地へ行った。
夏だけオスロにやってくる移動遊園地で、花やしきなんかより怖いと思う。
窓はないから、落ち放題だし、やけに速くまわる観覧車だとか、
係員が人力で加速度をつける回転系の絶叫マシーンとか。

2日。金曜日。
朝の4時にlukeをお見送り。
ぎりぎり空港行きのバスに間に合った。
ドラえもんのパラレル西遊記でしずかちゃんが最後に言った
「三蔵様の旅はまだ続くのね。あと何年も」
という言葉を思い出した(誰も知らないだろうけど)。

旅を続ける人、戻る人、立つ人。

旅は、何かを探したりするためじゃなくて、
色んなもの取り戻すためにするのかなって思った。

もしくは、何かを失くすために旅はあるのかなって思った。

別にいつかたどりつく場所のためじゃなくて、
暮らしていた場所に対する不満のためじゃなくて、
いつかもとの場所に戻るときの、その帰る日のためだけに旅はあるのかなと思った。

昔話は、主人公の欠落を埋めるプロセスを描いた物語が多い。
アキレウスのアキレス腱、オーディンの単眼と傷跡、片方の靴がないシンデレラ。
それらの弱点は決してネガティヴを意味しない。

失くしものと旅。

きれいにまとまりませんでした。

投稿者 POE : 10:42 FM | コメント (1) | トラックバック