学者に求められていること

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このエントリーは、一部の方には気に障る言い方があるかもしれませんが、ご容赦ください(このブログは検索エンジンになるべく引っかからないようにしているので、さほど読者はいないと思いますけど)。

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大学院プロジェクトの課題図書なのでクリス・アンダーソンの『ロングテール』を読んでいる。ワイアードの元の論文は読んでいたし、まだロングテール論がそれほど話題になる前にアンダーソンの講演も聴いたことがある。しかし、こうやって一冊の本になって読み直すとやはりおもしろい。

読みながら、別のことを考え始めた。学者に求められていることだ。「ロングテール」というのは分かりやすいキーワードで、コンセプトもシンプルだ。シンプルなコンセプトで多くの事象を切れるところが理論的には優れている。しかし、シンプルであるが故にみんな分かった気になって軽視してしまうところがある。「ああ、またロングテールね」というわけだ。自分でも分かってしまうことを聞かされるとなぜかがっかりする人が多い。アンダーソンは編集者であって学者ではない。しかし、外国の「有名」な人という点では何となく「学者っぽい人」というイメージになっているのではないかと思う(しかし、アンダーソンが何者かということは話の本筋ではない)。

私はこれまで、書くときも話すときも、できるだけ分かりやすくしようと心がけてきた。意味不明の文章では出版しても仕方ないし、聞いている人が理解できない話をしても時間の無駄になるだけだろうと思ってきた。そのためには少々誇張した言い方や、単純化した言い方もしてきた。

しかし、それは学者に求められていることではないということがだんだん分かってきた。というのは、上記のような書き方、言い方をすると腹を立てる人がたまにいるのだ。つい先日、私がしたコメントに対して「ずいぶん乱暴な言い方でつまらない。もっと本質を議論するべきだ」とコメントしたビジネスマンがいた。私が「では本質はどこにあると思うのか」と質問すると、「私より経済学や専門のことが分かっている人が集まっているのだから、もっと議論すべきだ」というのが彼の答えだった(私が経済学者ではないということを知らないのだと思うし、まして私が何を研究しているのかも知らないで彼はコメントしたのだろう)。自分で答えを持っていて批判するのではなく、おそらくは自分が理解できてしまうことを、学者と呼ばれている人が話しているのが気に入らないのだろう。

こういう経験はこれまでも何度となくあった。学者相手だと、議論をシンプルにして原則論で戦おうという雰囲気になるが、学者ではない人は(まだ仮説の段階だが)難しくて高尚な話を聞きたがる。パネル討論の司会を任されたとき、議論を絞ってシンプルなフレームワークを設定したのだが、パネルの最後になってパネリストの企業役員が、物事はそんなに単純じゃないと一言けちを付けて帰っていったことがある。

実業界から学界に移ってきた人は二つのパターンに分かれる。第一に「自分は学者ではない」と開き直って自分の経験してきたことを再生しながらやりすごそうとする人。第二に、やたらと「学者とは」「学問とは」ということにこだわって生きていこうとする人だ。端から見ていてそんなにこだわらなくてもあなたは十分学者ですよといいたくなるほど思い詰めて研究する人もいる。何か自分の知らない学問奥義があるに違いない、それを知りたいと息巻くのだ。

文章についても同じことが言える。難解なものほど読み甲斐があるのだ。解釈の余地が大きいほどおもしろいとされる。私の原稿についていえば、分かりやすく書いてあるものほど評判が悪い(ただ単に私の原稿がおもしろくないというだけなら話は別ですけどね)。自分で読んでも難解なものほど引用されることが多い。「本当に分かっているのかな」と不思議になる。

つまり、私の今のところの作業仮説はこうだ。「人は分かってしまうほど不満になる。理解できないことにこそ知的喜びを見出す。」学者には分からない話をして欲しいのだ。難解な古典が読み継がれているのも同じ理由だ。ほとんどの人が挫折してしまうような難解な本でも、それが古典とされるとすばらしいものに思える。自分が理解しているかどうかは実は関係ない。

そうすると、学者に求められていることとは、物事をシンプルに説明する仮説や理論を提示することではなく、難解な物事をさらに難解に説明する理論を提示することなのかもしれない。難解な議論で煙に巻いてしまう方が学者の行動としては正しいのかもしれない。なるべく分かりやすく、(できればユーモアも交えようと努力しながら)議論しようとしてきた私の努力は、世の中が求めているものと違っていたのかもしれない(ただし、アメリカでは私のやり方はおそらく間違っていない。他の日本人の話が相対的に退屈なせいもあると思うが、シンプルなアイデアで本筋を話した方が活発で有益な議論につながる)。

この仮説を検証してみたい誘惑に少し駆られている。授業ではあまりやらない方がいいような気がするが、これからしばらく、学会パネルの司会、学会発表、ビジネスマンの前での講演などが続く。どうしようかなあ……。

(しかし、私の仮説が正しければ、このエントリー自体も批判を受けることになるはずだ。単純な仮説で説明しようとしているからだ。「バカにするな」とか「それはお前の問題だ」とか、そんな感じかな。まあいいや。)

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畏友であるところの土屋老師@SFCが「分かりやすく説明すると腹を立てる人がいる。学者に求められていることは難解な物事をさらに難解に説明する理論を提示することなのか??」というようなことを書いていたので、わたしも... 続きを読む

コメント(4)

ty :

最近、何となくわかってきたこと。それは、「わかった」ということと、「わかったつもり」の間には、何とも埋めがたい大きな差がありそうだということです。そして、「わかったつもり」の人が一番たちが悪いような気もします。さらにいえば、そういう人は、どうやらどこでもいて、それどころか意外と多いのでは???ということです。一般的に、頭がよい、エリートと呼ばれている人であっても。むしろそういう人に多い???(←自分のことは完全に棚に上げています。この際。)

そんなことを悶々と考えていた時だったので、このエントリーにはかなり考えさせられました。まぁ、何とも無責任な物言いですが、そういう人は「あまり正面から相手にしない方が・・・」という気もします。

さらに生意気な物言いですが、「自分自身が学者かどうか」なんてことはあんまり意味のないことのような気もします。どんな時も「学問に真摯に生きる」という態度を貫くことが大事なのであって、その結果、周りの人が「学者」と呼ぶならそれでいいし、呼ばなければ呼ばないでそれもまたいいような気がしています。

で、よく言われることですが、難しコトを難しくいうことは、多少本腰入れて勉強すればどんな人でもできるようになると信じていますが、難しいことの本質をシンプルに抽出するという芸当は誰にでもできることではない、というのは間違いないと思っています。

言いっぱなしついでにもう一つ言うなら、自然科学の分野(特に物理学???)の核心的な理論がシンプルでどこまでも美しいのと同様、一見複雑怪奇に見えるこの世の中の事象の根底を流れる核心というか本質は、驚くくらいシンプルなものではないかと思っています。そして、そのシンプルさに拍子抜けし、がっかりする人は、本当の意味での「学者」ではなく、シンプルさに興奮し涙さえ流すような人こそが「学者」なんだろう、とも思っています。

スミマセン。長くなりました。しかし、土屋さんの議論にいろいろと刺激を受け、インスピレーションが湧きまくっている一人の人間としては、これまでの路線を突き進んできただきたいような気もします・・・まあ、試行錯誤しながらも、最終的にはこれまでの路線に戻ってくるのでは?とも思っていますが。でも、難しいことを難しい顔してとことん難しく考えてみることは面白そうですが、難しいことを難しい顔して難しそうに語るというのは、なんともつまらなそうな時間ですね。(笑)

taiyo :

コメントありがとうございます。オフラインで何人かの人とも話しましたが、確かに、気にしてても仕方ないですね。今までも気にしてなかった(分かっていなかった)のですが、ふと気づいてしまったというところです。

求められていることと自分でやりたいことの間にギャップがあったとしても、自分のやりたいことを追求できるのが学者の特権なのかもしれません。求められていない場にはいなければいいだけで、その場の空気を読む発言ばかりしていては、それこそ存在意義がなくなってしまうのかもしれません。

mr.custard :

それは違うと思います。

(この場合の「それ」とは、と言われると難しいのですが)

こんなことはSFCの一学生の意見なので、愚にもつかないかもしれませんが、

1)普通、世間は学者に対して、大きなシステム論、分かりやすい全体的な統合理論を求めてるのだと思います。

(マルクス主義の上部、下部とか、デカルトの明快さ、みたいな)

2)その上に、そこに対して、専門的な「説明」が求められるのでしょう。

(ポピュラーにとっては、直感的にわかりやすい金言に対しては、その説明が難しくても、(むしろ難しいからこそ)、より一層の納得を示すのだと思います。)

大学者は、常に斬新な理論を、平易に語ることを望まれ、またそうであった様な気がします。

その説明が理解を超えようが(これは若干侮蔑的ですが)、難解であろうが関係なく。

もちろん知的な層まで納得させようと思えば、根拠の強さが必要になってくるかと思うんですが。

別に、何を言いたかったわけではないのですが、ただ、そんなくだらない部分で、アカデミックな希望が潰えてほしくないなと思ったので、投稿しました。

失礼しました。

taiyo :

ふうむ。なるほど。そうだとすると、単に私の説明の仕方が悪くて世の中の皆さんの怒りを買っているだけということかもしれません。

このエントリーを書いてから少し人まで話す機会がありましたが、なかなか自分の癖は変えられるものでもないということに気づきました。言い方に気をつけようとは思いつつも、自分の中からむくむくと出てくる考えを抑えるのはけっこう難しい。

ある役所の会議では、「だって筋が通ってないじゃん」と思ってつついたのですが、「そんなとこつつくなよ〜」と役所の皆さんは密かにお怒りだったそうです(私は今でも筋が通ってない、少なくとも説明不足だと思っていますがね)。

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このページは、taiyoが2007年5月13日 23:18に書いたブログ記事です。

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