インテリジェンスの分析官による分析と学者による分析
私は2002年にアメリカから戻ってきたとき、インテリジェンス・コミュニティの研究をやろうと決意して、いろいろなところに書き散らしながらも遅々として本をまとめられずにいた。ようやくそれが何とか形になりそうで、がんばって作業をしている(はしかによる休講は、不謹慎だがうれしい)。
ある情勢分析の研究会でのこと、日本版NSC論議の裏で、情報機能強化検討会議というのも開かれていて、それについて少し話をした。
この研究会は大学や政府系研究機関などで地域研究などに携わる研究者たちの集まりで、それぞれ一家言を持っている人たちだ。質疑応答の際、ある人が、「民間と日本のインテリジェンス機関との間で相互交流をすれば質が上がるだろう、われわれのような連中が入っていくことで良い結果が生まれるだろう」と発言した。
確かに、米国ではそういうことも行われている。たとえば、ジョセフ・ナイが米国政府のNational Intelligence Councilの議長をしていたこともある。
しかし、一般論として言えば、これはうまくいかないと私は答えた。「ここにいる研究者や学者がインテリジェンスの分析をやってもまずうまくいかないだろう」とまで言ってしまった。この発言には一部の人たちが反発した。当然だろう。それぞれ北朝鮮や中国、ロシアなどの専門家である。常日頃、自分たちに政府の情勢分析をやらせろと思っているに違いない面々である。
それでもおそらく無理だろう。学者の分析とインテリジェンス機関の分析官の分析とでは責任の重みが違う。インテリジェンスの分析には人命が文字通りかかっている。分析に失敗すれば人命が失われる。
それに対し、学者の分析でそこまでの厳密さが求められることはまずない(情勢分析を間違えたからクビになった学者なんて聞いたことがない)。むしろ、分析としてのおもしろさ、鋭さに力点が置かれていることが多い。現実をいかに説明するか、それも統合的に整理しながら説明できるかに力が注がれている(前のエントリーで述べたことだ)。
しかし、現実の情勢はそれほどおもしろくないかもしれない。現実は時に複雑怪奇で、時にあっけないほど単純で説明がつかない。インテリジェンスの分析で求められているのは、おもしろいかどうかではなく、正確かどうかだ。それも、答えがないかもしれない問題に答えなくてはならない。おもしろおかしく無責任に答えるわけにはいかない。
学者は自分の学者としての名声・評判くらいしか最終的には求めるものがない。研究を追求して金銭的に儲かることはほとんどない。大学や研究所では、人事的な昇進もたかがしれている。仲間内での評判、世間での評価ぐらいしかモチベーションがない(他にあるとすれば単なる自己満足だ。まあ、私はこれに近いところがある)。そうすると、「う〜ん、なるほど」と人をうならせる分析に喜びを見いだしてしまう(人が多い)。
インテリジェンスの世界ではそんなものはない。誰もが無名で国家に奉仕している。米国の国家安全保障局(NSA)のモットーは「They Served in Silence」である。自分の分析によって国を守れるというところに喜びを見いだしている。マインドがあまりにも違う。
こんなことを考えていると、前回のエントリーで書いたようなことが私に起きたのは、ひょっとすると、現場でビジネスをやっている人たちにとっては、私の発言が軽すぎて気に入らないということなのではないか。分析力うんぬんの話ではなくて、「そんなに軽々しく言うなよ」という反発なのかもしれない。
つまり、「難解な物事をさらに難解に説明する」のが大事なのではなく、「難解な物事を簡単に、しかし、重々しく説明する」、これが大事なのかもしれない。
どうも私は苦労しているように見えないらしく、実年齢より若く見えるらしい(最近は年齢不詳とまで言われる)。同僚の一人は、眼鏡をかけないと学者らしく見えないからといって、コンタクトではなく眼鏡をわざわざかけている。もったいぶって理論武装しながら話すのは私は好きではないのだが(理論そのものは好きだけど)、そこら辺がポイントか。
とまあ、どうでもいいことをグズグズ考えるよりも、研究の原稿を書いた方がいいのでこれで終わり。
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