札模様

    急



 雪……。
 やむ雪…。
 のこる雪…。

 名人戦四回戦は、最初の一枚から波乱に満ちていた。
 一枚めは、「あさぼらけう」いきなりの大山札だった。ミ ツオは囲いやすいように右下段の一番外側に置いていた。 序歌に引き続き「あ・さ」と二音詠まれた時には、名人が すでに囲っているようにミツオは感じた。このあまりの速 さにミツオはあわててしまった。決まり字を聞くことを忘 れ、遅れてはいけないと囲いの隙間に強引に指先を突き入 れた。
 指先が札に届いた時は、「あさぼらけ」の「け」が詠ま れたかどうかというタイミングだったろう。そして、決ま り字の「う」が聞こえた。
 名人戦の舞台で、大山札を決まり字前にあてて取って しまったことに後ろめたさを覚えたが、最初の一枚を取っ たことでホッとしながら、ミツオは札を下げた。
 しかし、名人は札をこちらに送ってきた。
 「あのー、突き込んだ時に指先が札に届いています。」
 「………。」
 「えー、恥ずかしい話ですが、決まり字前に突き込ん でしまったので、私の取りなんですが…。」
 「いやあ、申し訳ない。」
 ミツオは、名人が申し訳ないと言うので、送ってきた 札を戻してくれるものと思っていた。しばらくの間の後に、 名人が本当に申し訳なさそうに言った。
 「悪いのだが、最初に囲いに行った瞬間にすでに札に 触ってしまってな…。したがって、私の取りということに なる。」
 「えっ?」
 あまりのことに、ミツオは思わず審判のほうに顔を向 けてしまった。審判は、それが、自分に対する確認の意思 表示と感じたのだろう。何も言わずに、右手を名人のほう に指し示した。名人の主張が事実だと認めたのだ。
 「そうですか。わかりました。」
 ミツオは送られた札を受け取り、定位置に置いた。
 ミツオは、決まり字前に突き込んでしまったことを主 張の際とはいえ、相手に言ったことを後悔していた。自分 が道化師になってしまったような気分を感じていた。
 二枚めが詠まれた時も、集中しきれずに相手の手が攻 めてくるのをボーッと見ているだけだった。カラ札だった ので実害はなかった。
 「いかん!」
 ミツオは心の中で、気持ちを引き締め直した。
 「たかが一枚だ。」
 すかさず、自分の中のもう一人が、「されど一枚。」と 突っ込みを入れる。
 「でも、まだ一枚さ。勝負はこれからだ。」
 この思いを掛け声にこめる。
 「サッ、一枚!」
 掛け声とともに畳をポンと一叩きする。
 ミツオの掛け声に呼応するかのように名人も気合を入 れる。
 「はい、来た。」
 名人も畳をバンと叩く。
 三枚めが詠まれる。名人は再びミツオ陣の左下段を攻 めてきた。速い。「わ・が」ですでに囲うような手の出し 方だ。三音めは「そ」。ミツオ陣にあるのは「わがい」だ。 名人の手が戻る。
 「…?」
 「わがい」の札が、ホンの少々動いているような気が する。
 「あのー、触られましたか?」
 念のために確認を入れると、名人は何も言わずに肯い た。ミツオが札を送る。名人は、表情ひとつ変えずに札を 受け取る。さっそくの逆転で一枚リードだ。
 名人は、三回戦よりもさらに感じにスピードが出て来 ている。しかし、そのスピードのゆえに手の動きをコント ロールし切れずにいるようだ。このあとも決まり字前に札 を触っては、当てたり、お手つきしたりを繰り返した。お 手つきの大爆発と言ってもよいだろう。
 四十枚程度が詠まれたところで、名人の持ち札は二十 一枚、ミツオは九枚。ここまでミツオは七枚しか取ってい ない。
 「やまのおくにもしかぞなくなる…。をぐらやまみね のもみぢばこころあらば…。」
 ここで名人は、「おく」を押さえてしまう。この試合十 回めのお手つきだ。
 名人はいきなり、自陣の左右に並べてある札を両手で 集め始めた。
 「えっ…。」
 驚いて相手を見上げるミツオ。
 「いやっ、負けました。投了します。」
 名人が負けを宣言した。すでに四回戦の勝敗の帰趨は 決していた。ここで無理に粘るより、五試合めに備えたほ うがよいと判断したのだろう。
 ミツオは四回戦のあっけない幕切れに、嬉しいという よりも唖然としていた。
 控室に戻り、最終戦に備える。
 最終戦の開始予定時刻は、午後六時三十分。四回戦が 早く終わったので多少の時間的余裕がある。袴と着物をい ったん脱いで、汗を拭う。身軽なうちにトイレもすまして おく。
 「名人はさすがだな。」
 「途中棄権するのがですか?」
 「ああ、あんな展開で名人の一人相撲で棄権されたら、 ミツオは自力で勝ったって気がしないだろう。相手の気勢 をそぐ絶妙のタイミングだ。」
 「単に粘って粘れないことはないけど、負けたら次の 試合に疲れが残ったまま悪影響を与えるから投げたまでで しょう。」
 「棄権ができるというのも一試合勝ちをリードしてい るからだよ。それに、普通は途中で棄権なんて思い切った ことできないよ。立場が逆だったら、ミツオは絶対に取り 続けると思うよ。さすがだよな。棄権によって得た時間は 名人にとって大きいぞ。」
 「どっちの応援をしてるんですか。なんか名人の応援 をしているようですよ。」
 「いやっ、名人が周囲の流れを自分に引き付け始めて いるから、ミツオにはその流れに流されないよう気をつけ てほしいなということなんだよ。」
 「先輩が心配しなくても、ちゃんと自己管理している ようですよ。ほらっ。」
 着物と袴を着直して、ミツオはウォームアップを始め ていた。窓の外は暗くなっているが雪明かりで、薄ぼんや りしている。風はやみ、雪も随分と小降りになっていた。 きっともうじきやむのだろう。
 ミツオは椅子に腰掛け、目を閉じて精神を集中させる べく瞑想している。そんなミツオに声をかけるものもいな い。
 静かな時間がゆっくりと流れていた。この時間の流れ をはやい流れに変えたのは、係員の声だった。
 「佐多さん、時間ですよ。会場に来てください。」
 「はい。」
 ミツオは立ち上がって軽く伸びをする。フーッと深呼 吸をひとつすると、応援の仲間のほうを向いてニッコリと 微笑んだ。
 「行ってきます。」
 応援団の励ましの言葉を背に、ミツオはひとりで会場 にむかっていった。
 会場に着くとすでに名人は着座していた。
 「……っ?」
 ミツオは、一瞬目を疑った。名人は、先ほどまでの羽 織とは異なる紋付きの黒い羽織をはおり、着物も袴も着替 えていた。和服の正装と言っていい格好だ。ただのゲンか つぎなのか、それとも気合のあらわれなのか。ミツオは、 名人のこの試合にかける気迫を感じていた。名人にとって もミツオにとっても、残りはこの一番しかないのだ。この 試合の勝敗の行方が、すなわち名人戦の帰結なのだ。とも に背水の陣と言ってよかった。
 黙礼して、ミツオも着座した。名人の顔を正面に見る。 全身から気迫は感じるが、気負いも力みも感じられない落 ち着き払った表情だ。きっとミツオの表情のほうが、相当 にこわばっていたであろう。
 「それでは、名人戦第五回戦を開始します。札を並べ てください。」
 名人が箱から札を出し、裏返して混ぜる。ミツオも一 緒に混ぜながら、そこから札を二十五枚無作為に集める。 双方に二十五枚を取ると、名人が残りの五十枚を箱に戻す。 中央の位置を決めて配置を始める。ミツオがサクサクとテ ンポ良く自分の定位置に並べるのに対し、名人は一枚、一 枚、札に話しかけるかのようにじっと見詰めてから札を置 く。したがって、並べ終わるのはミツオが早い。ミツオは、 名人が並べる様子をじっと見る。名人と一緒に名人の陣の 札を覚えるのだ。名人の配置は、三回戦、四回戦とは違っ た。一、二回戦の配置に新趣向をこらしているような感じ だ。
 最後の一枚を右下段の一番外側に置いた時、名人はニ コッと微笑んだように見えた。満足感なのか、それとも余 裕なのか。ミツオが、そんなことをふと感じている間も、 暗記時間は刻々と過ぎていく。五回戦ともなると通常は、 相当に身体も頭も疲労して暗記がなかなかはいらない。し かし、ミツオは不思議と苦にならずに暗記を入れることが できる。特に敵陣が覚えやすいのだ。こうして、暗記時間 の十五分はあっという間に過ぎてしまった。
 「難波津に咲くやこの花冬ごもり…
         今を春べと咲くやこの花…
         今を春べと咲くやこの花…
  …よをこめてとりのそらねははかるとも…」
 「よもすがら」や「よのなかは」など、「よ」で始まる 札は、並んではいるが名人はピクリとも動かない。もう少 し様子を見なければなんとも言えないが、並べ方の変化な どからも、三、四回戦とは取りのスタイルを変えたと考え てよさそうだ。名人も四回戦の失敗を繰り返すわけにはい かないのだ。最初の十枚ほどは軽い取りの応酬で、ともに 三枚ずつ取っていた。ミツオは敵陣を二枚、自陣を一枚、 名人は敵陣で三枚を取った。やはり、名人の取りは、一・ 二回戦の取りに戻っている。序盤戦の送り札は、もっぱら 決まっている共札をわけたり、自陣に固まっている音の札 などで、バランスを考えた自陣の整備のための送りと言っ てよいだろう。これからの送りにこそ、もっと戦略的色彩 が強くでるのだ。
 「ふくからに」の一字を名人がミツオ陣左に抜く。送 り札は「わび」。自陣に「わすれ」を一枚残し、ミツオサ イドを「わび」「わがそ」「わたのはらこ」の三枚にして、 「わ」音のバランスを変えてきた。
 「むべやまかぜをあらしといふらむ…
    …わたのはら…」
 ミツオは、「わび」を送られて、確認したばかりの「わ たのはらこ」をしっかり二音めで囲った。名人は、送った 「わび」に先に反応したため、「わたのはらこ」へのケア が遅れたようだ。ミツオは囲ったこの瞬間、「わたのはら こ」に指の腹がかすかに札に触れてしまったのに気付いて いた。六文字めが「こ」ならば取りである。ところが、詠 まれた札は「わたのはらや」だった。囲いをはずした時に は、まったく札が動くこともなくかすかに触れたことはわ からないようだった。名人も何も聞いてこないし、まして 札を送ってくることなかったので、ミツオは知らぬ顔を決 め込んだ。そのまま、次の札が詠まれた。
 次の札が詠まれてしまえば、さっきお手つきしたでし ょうと言っても、もう札を送ることはできない。後ろめた さを感じながらもミツオはホッとした。
 が、その時ふと審判と目が合ってしまった。四回戦で は、名人が決まり字前に囲った札に触ったのを審判は見て いた。人が変わっているとはいえ、見られてしまったので はないだろうかという疑念が心に浮かんだ。お手つきを黙 って勝ったとしても、それは名人としての品格に欠けると 思われるのではないだろうか。少なくとも、自分と審判は 知っている。自分は人に言いまわったりしないが、審判が 周りの人に言わないとは限らない。ミツオのこの思いは、 取りの手を鈍らせた。名人の攻めのラッシュが始まった。 札の出も、何故かミツオ陣が多い。攻めに行ってるミツオ は自陣の札をキープできない。見る見るうちに二十枚対十 二枚と差をつけられてしまった。
 ここで、守りにはいると札の出が敵陣に変わったりす る。その時に守りに入っていると敵陣が出ても攻め切れな くなってしまう。ミツオは流れが変わるチャンスを辛抱強 く待っていた。
 「くものいつこにつきやどるらむ…」
 「なつのよは」の下の句。「夏」の札が出るとつい「春」 や「秋」の札を確認する習慣があるが、ミツオはこの時、 自陣の「わたのはらこ」が気になった。先の囲いミスの札 である。下の句のはじめが「なつ」の札と同じく「くも」 で始まるからだ。
 「…わたのはらこぎいでてみればひさかたの…」
 「よしっ。」
 名人の攻めも鋭かったが、札を気にしていたのと自陣 にある分、ミツオの取りが一瞬早かった。思わず取った瞬 間に声を出してしまった。名人が少々残念そうな顔をした ようにも見えたのは、ミツオの錯覚だったのだろうか。
 「くもゐにまがふおきつしらなみ…」
 ミツオは再び、「くも」の文字に目を引きつけられた。 敵右下段の「めぐりあひて」である。  「…めぐりあひてみしやそれともわかぬまに…」
 「はいった。」
 「め」の一字で猛然と攻めた。聴覚が視覚との相乗効 果で研ぎ澄まされていた。名人の手が来たのは、ミツオが 札に触れた直後だった。
 「うーん。」
 何か言いたげに首をかしげる名人。しかし、ミツオが 札を送ると黙って受け取った。この二枚がきっかけとなり、 名人陣の札が出始めた。夢中で攻撃を続けるミツオは、「わ たのはら」の失策など忘れていた。集中力が増し、ミツオ は競技とともに呼吸していた。徐々に追い上げ、持ち札五 枚の時には追いついていた。
 ここでミツオは自陣の左下段を二枚セーブする。名人 の狙いは、あくまでミツオの右下段なのだ。ミツオの持ち 札は、左下段に六字決まりのままの「きみがためは」、右 下段に「しの」「あきか」。決まっているのは「しの」の「し」 だけである。名人は右下段に「きり」「あきの」、左下段に 「よも」「ゆら」、上段中央左寄りに「おも」を持っている。 「よも」と「ゆら」が一字に決まっていた。
 名人が「しの」を抜き、「ゆら」を送ってきた。ミツオ は右下段に置く。カラ札を二枚はさんで「あきか」が詠ま れる。ミツオは「あきの」を攻めており、名人の手が楽々 とミツオ陣を舞う。送り札は「おも」だった。「おおえ」 が出ていないので、要注意である。「あ」札は、「ありあ」 と「あさぢ」が出ていない。
 「もれいづるつきのかげのさやけさ…
   …おもひわびさてもいのちはあるものを…」
 ミツオは、送られたばかりのこの札を無意識に守って いた。名人の手の感触を手の甲に感じた。ブロック成功だ。  「うきにたへぬはなみだなりけり…
   …よもすがらねなましものをさよふけて…」
 敵の左下段を攻めるが、今度はミツオがブロックされ てしまった。「Y」音の別れで名人が攻めてくると思って いたのだが、名人は「ゆら」に手を出してこなかった。 カラ札の「おおえ」のあとに「ゆら」が出た。これを 名人が抜いた。ミツオは、敵の右下段の二枚を攻めていた。 名人は、残っている「きり」と「あきの」のうち、「き り」を送り札に選んだ。
 ミツオ陣には「きり」と「きみがためは」。「きみがた めを」が、まだ詠まれていない。
 「『きみがためは』を右下段にします。」
 ミツオは、「き」で二枚を囲えるよう右下段に二枚を並 べた。どちらを内側に置くかにはしばし悩んだが、結局「き り」を内側にした。「きり」だけを狙われた時、外側にあ ると抜かれやすいと感じたからだ。名人の持ち札は、五回 戦並べ始めから右下段の一番外側に不動の「あきの」であ る。ここ近江神宮での一・一のジンクス札と言ってよい。  ミツオは、名人にしてやられたと思っていた。
 「ゆくえもしらぬこひのみちかな…
   …あさぢふのおののしのはらしのぶれど…」
 「あ」を聞いた瞬間に猛然と攻めるミツオ。が、カラ 札である。手を浮かす。
 「はいっ!」
 名人は「あきの」の札を素振りし、畳を叩いて気を込 める。「あ」のカラ札は、あとは「ありあ」一枚である。「き」 のカラ札も一枚だけだ。「き」で払ったとしても、三分の 二の確率で当たる。ミツオは、決まりを聞かないで払いた いという誘惑にかられていた。
 「あまりてなどかひとのこひしき…
   …きりぎりすなくやしもよのさむしろに…」
 ミツオは、「き」の音で囲うつもりだった。しかし、思 いとは裏腹に、右手は一字で払ってしまっていた。
 「あたった。」
 確率六十六・六六六……パーセントの命拾いに胸を撫 で下ろす。泣いても笑っても、二人の持ち札のうち、どち らか一枚が詠まれれば勝負はつくのだ。
 窓の外に目を転じる。
 雪は、すでに降りやんでいる。
 名人戦五回戦は、いよいよ大詰めを迎えていた。


  Copyright:Hitoshi Takano

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