「僕も学生運動の世代ですが、そのときにもしインターネットがあったならば、僕たちはもう少し真面目に社会変革に貢献できたかしれません。」(三田評論、2004年11月号)

熊坂環境情報学部長の言葉である。一体、学生運動当時に彼らがインターネットを手にしていたら社会はどうなっていて、どう彼らは社会に「貢献」できていたのだろう。今、「社会変革」の手段として僕たちは「インターネット」を手にした。しかし、現実はどうであろうか。

今のウェブを見回してみたとき、そこには2種類の世界が存在しているように見える。ひとつは善意の世界である。ウィキペディアのようにwikiを使った百科事典のように貢献モデルでありながら精度が高いものがつくられてゆく環境がある。一方で、しばしば匿名掲示板が引き合いに出されるような罵倒の世界がある。

また、キャス・サンスティーン が「インターネットは民主主義の敵か」で指摘したような情報の分裂も起こっている。自分の興味がある情報だけを見ていくことが出来るため(むしろ膨大な情報を前に検索というフィルタリングをするしかない)、主義や主張同士のコミュニティだけが形成されていってしまうという議論だ。そのような時代・環境でいかにネットワークコミュニティを使った「社会運動」は可能なのだろうか?

ネットワークコミュニティーにおける言論の場、社会に対する運動の可能性を考えてみたいと思う意図のもと、「東京拘置所のそばで死刑について考える会」(以下「そばの会」)に訪問取材を行った。死刑制度に賛成か反対か、これはイデオロギーが自ずと関わってきてしまう問題である。世論調査においても7割が死刑制度に賛成という結果であり、「みんなのための」貢献モデルとは言い難い。

しかし考えてみたとき、クリエーターの意図に関わらず、あらゆるものはイデオロギーと無関係ではいられない(無関係を装うこと、無関係だと多くが了解することはあるかも知れないが)。「トレーサビリティーによって実現される技術は監視社会化ではないのか?いや、新しい人との関係性ではないのか?」「貢献モデルによる託児所の普及は家制度の崩壊を促進してはいないか?いや、介護同様に育児を家に押し付けるのは近代家族制度によるもので、託児所の普及は抑圧された女性性を解放するものだ」。技術や制度は常に社会に巻き込まれる。

もちろん、巻き込まれることと異議を唱えることは違う。だが、考えるきっかけとしてあえて社会的なイデオロギーが積極的に絡んできてしまう団体を取材した。熊坂教授の言う「真面目に社会変革へ貢献」はいかに可能か。その土台となるインターネット環境の可能性・現状を考えることを目的としてみた。