井庭崇のConcept Walk

新しい視点・新しい方法をつくる思索の旅

アマルティア・センのケイパビリティ・アプローチとパターン・ランゲージ

アマルティア・センとの再会

アマルティア・センの著作は、15年ほど前に初めて読んでからというもの(当時の僕は新しい経済学の潮流と方法論についての研究をしていた)、研究のなかで様々なかたちでセンに再会し、3年おきぐらいに再読している。今回のきっかけは、ヒラリー・パトナムの文献を読んでいるときであった。

最近、パターン・ランゲージ3.0をプラグマティズムの考え方と結びつけて考えたいと思い、その手の文献を読み漁っている。そして、ヒラリー・パトナムの『事実/価値二分法の崩壊』を読んでいるときに、再びセンに出会った。

この本では、現在の私たちの思考・思想の奥に根付いている事実と価値の二分法、つまり「事実の認識は客観的であるが、価値判断は主観的なものである」という考え方に異議を唱えている。パトナムいわく「事実の知識は価値の知識を前提する」というわけである。

その著作の冒頭からアマルティア・センが登場する。パトナムは、センのケイパビリティ(潜在能力)アプローチについて、「そのアプローチの核心にあるのは、開発経済学の問題と倫理学理論の問題を別々にしておくことは断じてできないのだ、という認識である」とし、2つの章でセンを取り上げている。

アレグザンダーの思想を、そしてパターン・ランゲージ3.0を、プラグマティズムと結びつけて考える理由はいくつかあるが、事実と価値の問題を別のものとして区別するのではなく、相互に浸透関係にあるものと看做すということが、パターン・ランゲージが目指すところを理解する上で重要だからである。

プラグマティズムとの関係の話は別の機会にするとして、そんな経緯でアマルティア・センのケイパビリティ(潜在能力)と、この本で再び再会したのだ。

実は2年前、ネパールにおける豊かさについての考え方をパターン形式でまとめた学生が井庭研にいたので、その研究にアドバイスをするときに、センのケイパビリティの考え方を紹介した。そのときにもパターン・ランゲージとの関係の可能性をアツく語ったが、それは開発経済学におけるパターン・ランゲージの役割という限定的な話としてだった。

今回のセンとの再会は、僕にとっての思考の飛躍につながった。開発経済的なパターンとケイパビリティ・アプローチの関係ではなく、パターン・ランゲージ3.0(人間行為のパターン・ランゲージ)とケイパビリティ・アプローチとの関係が見えてきたのだ。


アマルティア・センのケイパビリティ(潜在能力)アプローチ

アマルティア・センは、開発(発展)というものを、所得や富の増加させることではなく、人々が享受する自由を増大させることであると捉えた。富の蓄積は自由を拡大する手段としては重要ではあるが、それ自体は目的ではなく、また唯一の手段でもないからである。

このような捉え方で貧困と開発の問題を考えるために、センは「ケイパビリティ」(潜在能力:capability)という考え方を導入した。ケイパビリティ(潜在能力)とは、ある人が価値を見出し選択できる「機能」の集合のことであり、その人に何ができるかという可能性を表している。

ここでいう「機能」とは、「ある状態になること」や「何かをすること」を指しており、例えば、充分な栄養を得られること、健康状態にあること、回避し得る病気に悩まされていないこと、早死にしないことといった基本的なことから、自尊心をもてることや社会生活に参加できることなどが考えられる。

センは『正義のアイデア』のなかで、「我々の暮らしを評価する上で、現実の生活スタイルだけでなく、様々な生活スタイルから実際に選択可能な自由についても関心を持つ理由がある」といい、「我々の暮らしの性質を決定することができるという自由」に目を向けることの重要性を説いている。

センは「所得と富は、人の優位性を判断するには不適切な指標であるということは、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』でもはっきりと論じられている」と指摘した上で、「富は、それ自身、我々が価値を認めるものではない。また、我々の富を基礎として、我々がどんな暮らしを達成しているかを示す良い指標でもない。」とした。そうではなく、「彼らが享受することのできるケイパビリティ全体を見る必要がある」のである。

「ケイパビリティ・アプローチの焦点は、最終的に実際に行ったことだけにあるのではなく、実際に行うことのできること(実際にその機会を利用するしないにかかわらず)にある」のである。

「功利主義的伝統では、すべての評価を、『効用』という同質的な量に変換し、厳密に一つのものとして『数えること』(多いのか、少ないのか)で、安心感をもたらしてきたが、一方で、多くの異なる『良いものの組み合わせ』を『評価すること』(この組み合わせは、より価値があるかないのか)の取り扱い難さに対して疑念を生み出してきた。」とセンは言う。しかし、「我々にとって価値があると考える理由のあるすべてのものを一つの同質な量に還元することはできない」のである。

ケイパビリティとは「我々が価値を認める理由のあるものという観点から、互いに比較し判断することのできる諸機能の様々な組み合わせを達成する能力のことである」。つまり、個々の機能を達成する能力というよりも、「価値のある諸機能の【組み合わせ】を達成する能力」に関心があるのである。


ケイパビリティ(潜在能力)アプローチとパターン・ランゲージ3.0

アマルティア・センのいう「ケイパビリティは、機能によって定義されていて、とりわけ、ある人が選択しうるすべての機能の組み合わせの情報を含んでいる」のであり、可能なすべての機能の組み合わせに着目することで初めて、「何かを【すること】と、それをする【自由】とを区別する」ことができるのである。

センの提唱するケイパビリティ・アプローチは、その言葉が示すように「アプローチ」にすぎない。その機能に何を入れるべきかという具体性や、それをどのように活かすべきかということについては限定をしていない。つまり、それらの点については開かれているのである。

僕はここに、パターン・ランゲージ3.0との接合の可能性があると見ている。各種のパターン・ランゲージのなかのパターンを、選択可能な機能として捉えることができるのではないか、ということである。

パターン・ランゲージを 「ある人が価値を見出し選択できる『機能』の集合のことであり、その人に何ができるかという可能性」として捉えるのである。そのことが、その人の「自由」を捉えることになり、また「自由」を支援する可能性へとつながるのではなかろうか。

パターン・ランゲージは、一見すると「何かを【すること】」を支援しているように見えながら、実は「それをする【自由】」を支援していると言えるのではないか。

センの考えのアナロジーで教育について考えるならば、経済における所得や富、効用に還元した定量化というのは、テストで測られるような知識量や、一元的な成績づけというものに対応しているように思われる。

これに対して、ケイパビリティ=パターン・ランゲージのアプローチでは、各自が価値があるとすること(機能=パターン)をどれだけ実現可能かということに注目する。実行した結果の良し悪しではなく、潜在的に可能なことの拡大で評価されるということである。

例えば、添付したグラフは井庭研の4年生たちの3年前(赤)と現在(青)のラーニング・パターンの経験度の違いをグラフ化したものである。仮に40パターンすべてが各自にとって価値があると仮定すると、3年前より現在の方が豊かで自由があると言うことができる。

ラーニング・パターンでは、具体的な状況のなかで「こういう学び方をしなさい」と強制しているわけではなく、「こういう学び方も可能である」ということを示すことで、「それをする自由」を支援していると言える。

もちろん、パターン・ランゲージは、ラーニングについてのものだけではないので、例えば、プレゼンテーションやコラボレーション、いきいきと美しく生きる、自分らしく生きるなど、いろいろなものがあるので、それらはつくられるたびにケイパビリティの選択肢の幅を広げていることになる。

また、各自の価値判断によって機能の組み合わせが異なって構わないということは、国や地域によってパターンの集合が異なる(一部重なりながらもそれぞれ違う要素を含む)ことが許容されるということである。この点も、パターン・ランゲージの考え方と整合的である。

以上のように、パターン・ランゲージを、アマルティア・センの言うケイパビリティ・アプローチに照らして捉えてみることで、単に行為を支援するということに留まらず、豊かさや福祉(well-being)につながる新しい支援の方法であると捉え直すことができるだろう。


再びヒラリー・パトナムのアマルティア・センの評価

アマルティア・センの『正義のアイデア』から、再び今日の出発点であったヒラリー・パトナムの『事実/価値二分法の崩壊』に戻ると、パトナムは「センの意味での『潜在能力』とは単に価値ある機能なのではありません。それは、価値ある機能を享受する【自由】なのです」と端的かつ適切にまとめている。

そして、パトナムは、ケイパビリティ・アプローチについて「このアプローチが実際に行うことは、どのような機能がわれわれの文化や他の文化の善き生活という概念の一部を構成するかを考えるよう、そして種々のそのような機能を達成するためのどれだけの自由を、種々の状況における種々の人間集団が現実に持っているかを調査するよう、われわれに促すことなのです。」という。

そして、そのアプローチが求めるのは、二〇世紀を通じて行われてきた「『倫理学』と『経済学』と『政治学』とを区画することをやめ」ることなのである。

事実/価値の二分法を超えるということについて、パトナムはより明示的に次のように指摘する。「センと彼の仲間や追随者たちが潜在能力について語るときに使用する語句―『価値ある機能』『個人が然るべき【理由があって】価値があると見なす機能』『十分に食物が与えられていること』『【早】死』『自尊心』『共同体生活に参加できること』―のほとんどいずれもが、絡み合った語句」であるという。絡み合ったというのは、事実と価値が絡み合っているという意味である。

そして、そのようなセンの立脚点を「価値づけと事実を『確かめる』こととは相互依存的活動であると主張する立脚点」だというわけである。

パターン・ランゲージがいかなる意味で、価値と事実の二元論では捉えられないことをしようとしているのか、ということについては、また次のときに書いてみたいと思う。


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