井庭崇のConcept Walk

新しい視点・新しい方法をつくる思索の旅

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西洋と東洋の思想を行き来して考える:『西田幾多郎:生きることと哲学』を読んで

藤田 正勝著『西田幾多郎:生きることと哲学』を読んだ。勉強になったとともに、「無我の創造」やパターン・ランゲージなど、自分がいろいろ考えていることや研究していることとつながり、とても面白かった。自分的に面白かったところを引用しながら、考えたことをメモしておきたい。

ベルクソンの「直観」について西田は、「物自身になって見るのである」と「之と成って内より之を知る」と説明し、自らの立場も次のように述べている。

「我々が物を知るということは、自己が物と一致するというにすぎない。花を見た時は即ち自己が花となって居るのである。」(西田幾多郎『善の研究』)

「事柄は外からではなく、事柄自身になってはじめて把握されるという考えは、初期の思想だけではなく、西田の思想全体を貫くものであった。後期の著作のなかでくり返し用いられている「物となって見、物となって考える」という表現がそのことをよく示している。」(p.60)

ここで言われていることは、僕が「あるべきかたちに従う」という「無我の創造」で言わんとしていることに通じていると思う。ティク・ナット・ハンも、物と一体化するという話をしている。最近、僕も、「無我の創造」を説明するときに、この「つくっているそのものになる」という言い方をするようにしている。そうすることで、「私」を抜くというよりも、感覚的に実際にやっていることが近くなるからだ。つくり手の視点を者の側に移すということではなく、そのものになる。そのものとして世界を認識する。本当はそのものではなく創造システムに従うのだけれども、わかりにくいので、思い切ってつくっているそのものになる(一体化する)という言い方の方がわかりやすいようだ。

しかも西田も、この話に関連して芸術の話を取り上げており、さらに共鳴する。

「事柄は外からではなく、それに没入し、それと一つになることによって初めて把握されるという考えが、西田の「純粋経験」論の根底にある・・・そのような経験のモデルを西田はしばしば芸術のなかに求めている。」(p.62)

「たとえば「純粋経験」において主客が人等になっていることを説明するために、「音楽家が熟練した曲を奏する」場合が例として挙げられている。」(p.62)

私がこの曲を演奏するという主客の関係にあるのではなく、「私」という主体の意識がなくなり、曲(演奏)そのものになる、曲(演奏)に成りきるという感覚でことであろう。

「行為そのものに没入した境地において究極の芸術が成立するという考えを西田は早い時期から抱いていた。」(p.65)

僕が小説家と物語の関係を用いて「無我の創造」の話を展開するのに重なる。このあとさらに興味深い話につながっていった。感情ということについて。

「西田は芸術とは何かを問い進めていく上で、最初に重要な示唆を与えたのは、ヴィルヘルム・ディルタイ(1833-1911)の思想、とくにその想像力論であった。」(p.70)

「ディルタイの考えを承けて、西田もまた「感情」をあらゆる精神現象の根底にあるものとして、そしてそれ自身を表出する動的な活動として理解している。「人心の奥深く潜める動く或る物」という言葉で「感情」を言い表している。「感情」は、単なる意識現象の一領野ではない。むしろあらゆる意識現象の根底にあってそれらを支えている。」(p.71)


西田は次のように言う。

「私は感情というのは精神現象の一方面という如きものではなくして、寧【むし】ろ意識成立の根本的条件ではないかと思う。」(西田幾多郎「美の本質」)

ここに、クリストファー・アレグザンダーのいう「deep feeling」との関係を、僕が感じる。つまり、表面に表れる感情(エモーション)ではなく、奥底の人間としての深い感情(ディープ・フィーリング)のレベルへの注目。パターン・ランゲージが個を突き抜けた普遍へと至るのは、このディープ・フィーリングの地層まで降りていくからである。


「西田は『善の研究』において、「純粋経験」が何であるかと説明するにあたって、それが「主客の対立」以前の経験であるとともに、「知情意」が一つになった経験であることを述べていた。」(p.72)

パターンを仕上げていくこきに、何をしているのかを説明するのが難しいのは、まさに、ここに書かれているような「「知情意」が一つになった」状態を自分のなかでシミュレートして体感し、その内容と記述を手直ししていく、そういう感覚が僕にはある。


「われわれの自覚的ん意識の根底に、過去の出来事が生き生きと生命を保った「意識の流れ」、現在の感覚と過去の思い出とが直接に結合するような「生命の流れ」が存在することを西田はここで考えている。それはまた、視覚や嗅覚といったさまざま作用が内面的に結びついた場でもある。あるいはまた、われわれが他者の意識に直接触れうるような、「我と彼と身分以前の自我」の場でもある。そのような「意識の流れ」を西田は「先験的感情」という言葉で言い表したのである。西田が「内的生命」という言葉で言い表しているものが、この「先見的感情」と結びついたものであることは、言うまでもないであろう。」(p.74)

ここで言われていることこそ、村上春樹が小説を書くときに降りていくという「地下二階」のことではあるまいか。また、河合隼雄が個を突き抜けた普遍に至る奥深い水脈というものであろう。そして、アレグザンダーが、デザインの理を表面的な「好み」(taste)ではなく、奥深い感情(deep feeling)に合うようにつくるべきであるというその人間が共通しているdeepな基層、そのことに通じる話である。こういうことが、日本において、西田幾多郎がすでに語っていたということは大変興味深い。ぜひこのあたりのことは、西田本人の著作を通じて、より理解を深めていきたいところである。


「「絶対意志の立場」ないし「純粋視覚の立場」に立つとき、意識の深層にあった「感情」が物のうちに移され(映され)、色が「生きたる色」になる。あるいは生命によって満たされる。そのように生命に満たされた「芸術的対象」がただちにわれわれの手を動かすに至る、それが芸術的創造作用なのである。」(p.75)

「西田が芸術的創造作用を重視するのは、そのような「感情」が知的範疇を超えたもの、つまり知によっては捉えられないものであるからである。「感情は分析することのできない己れ自身の深い内容を有つ」と言われている。この「感情」の「深い内容」は、それを分析することによってではなく、ただ「之と共に動く」ことによってのみ把握される。芸術はまさにその「感情」の内容とともに動くことによて、それを対象化する働きであると言うことができる」(p.75)

僕には、この「分析することのできない己れ自身の深い内容」ということが、アレグザンダーの言う「名づけ得ぬ質」に重なって見える。西田は、芸術とはどういうことかという観点で考えているが、アレグザンダーが、それを一部の人の特殊な行為としてではなく、そこに住む人たちにひらく方法を探究し、パターン・ランゲージというものに託したと言える。

さらに、行為と環境との関係についても重要なことが書かれていた。

「われわれの行為は一面においては、もちろんわれわれの意志に基づく行為であり、われわれの意図を実現する行為である。しかし、ただそれだけにはとどまらない。われわれの自己自身を実現する行為は同時に、「環境が環境自身を限定する形成作用」とも考えられる。「環境」という言葉のもとには、単なる自然の環境ではなく、むしろわれわれ一人一人に対して人格的に行為することを迫る客観的世界 — ヘーゲルの言う人倫に比せられ、「客観的精神の世界」あるいは「共同的精神の世界」とも呼ばれている — が考えられている。われわれの行為は、単に自己自身からではなく、むしろこの客観的世界から発現する。そしてわれわれの行為がこの「客観的精神の世界」を作ってゆく。言いかえれば、われわれの行為を通して客観的世界がそれ自身を完成していく。このような意味でわれわれは「社会的・歴史的世界」のなかに生きている。この「社会的・歴史的世界」を西田は「もっとも具体的なる真実在」と考えるのである。」(p.118)

この部分を読んで、これは、人間行為のパターン・ランゲージ3.0が、単に自発的な行為だけを支えているのではない、ということに気づかされた。例えば、コラボレーション・パターン(コラパタ)。コラパタは、プロジェクトやチームにおける実践のコツが書かれているが、それは同時に、チーム全体としてうまくいくために、個々のメンバーに求められていることでもあると捉えることができる。言い換えるならば、自分がそれをよいと思い実践するということと、チーム全体をよりよく機能させるために求められていることでもあるということだ。

つまり、パターン・ランゲージは、能動的なものと求められている受動的なものとを、中動的に結ぶ(橋渡しをする)という機能も担っているのである。個々人の視点からは抜けやすかったり、気づきにくかったりする全体からの視野を、個々人が自分の内側から捉えよいと思える実践に織り込むことで、全体がうまくまわるようになる。コラボレーション・パターンや、先日井庭研でつくって共有した「クリエイティブ・コミュニティ・コード」などは、そういう働きもしてくれるのである。

今の例は、社会的な(socialな)次元への方向であるが、プレゼンテーション・パターンが、プレゼン全体がうまくいくために、個々の段階で何をどう考えるべきか、ということがまとめられている。そういうように、環境との関係が自身の内側からの視点に織り込まれるところに、パターン・ランゲージの力と可能性があると僕は思う。

そして次のような、西田の「ポイエシス〔制作〕」の話は、より深く理解したいところである。

「西田はまた、この「行為」が単なる身体的な動作ではなく、物を作ること、つまり「ポイエシス〔制作〕」という性格をもつことを強調する」(p.134)

「実践ということは、制作ということでなければならない。我々が働くということは、物を作るということでなければならない。制作を離れて実践というものはない。実践は労働であり、創造である。行為的自己の立場から世界を見るというのは、かかる立場よりすることでなければならない。」(西田幾多郎「論理と生命」)

「われわれの身体は単なる生物的身体ではなく、「表現的」な意味をもつ。表現的なものに動かされ、表現的なものを作りだす。しかし、「制作」は単なる刺激に対する反応ではない。「歴史」をその拝見にもつ。・・・つまり、物を作り、行為するにしても、ただ単に物を作り、行為するのではなく、どう行為すべきか、何を制作すべきかと言う課題を歴史から与えられながら行為し、制作するのである。」(p.136)

「我々の身体的自己は歴史的世界に於て創造的要素として、歴史的生命は我々の身体を通じて自己自身を実現するのである。歴史的世界は我々の身体によって自己自身を形成するのである……。」(西田幾多郎「論理と生命」)

「歴史の課題を意識しながらなされる物を作るという行為が、単なる私の、内に閉じこもった行為ではなく、歴史的世界がそれ自身を形作っていく手段であること、そのような意味でわれわれが歴史的世界の「創造的要素」であることがここで言われている。」(p.137)

これは世界が世界になろうとするという視点であり、物語は物語になろうとする(宮崎駿)ということを、「無我の創造と」して実現させるということと似た視点の持ちようである。いずれにしても、パターン・ランゲージでは、そのような視点も踏まえて、「どう行為すべきか、何を制作すべきか」ということを引き継ぎ、次の実践へと活かすという橋渡しをする。パターン・ランゲージをつくるということは、そのような「歴史」「環境」、そして世界の成り立ちを、行為・実践の観点から理解していくということに他ならない。言い方を変えると、僕らは、パターン・ランゲージをつくりながら、行為・実践の観点から物事・世界を見て、その連関のシステム(系・体系)を理解しようとしているということになる。その複雑なシステムを理解していこうという取り組みは、僕が複雑系の研究から、研究の道をスタートしたということと無関係ではないのである。


最後に自己を超えたものに関する部分が面白いので、取り上げたい。

「自己の底に徹して、自己を自覚的に把握するとき、われわれは、「絶対無限なるもの」に、つまり自己を超えたものに出会う。しかし、この自己を超えたものは、自己の単なる他者ではない。まさにそこに西田の宗教理解の大きな特徴がある。」(p.151)

「一般的には、宗教における絶対的存在は自己の外にあると言われる。しかし、西田は、絶対的なものをそのように単に超越的な存在として捉えることに反対する。・・・われわれがわれわれの自己の底に徹したときに出会われる絶対的に無限なものは、「自己がそこからと考えられるもの」、つまり自己の根底にほかならない。われわれはそこでわれわれを生かしているものに出会うのである。」(p.152)

この「自己と絶対的存在(自己を超えたものでありつつ、自己の根底である存在)」の二重性への視座が西田哲学の重要な部分であると思う。自己とは異なる他者に神を見るのではなく、その自己の底に無限なる絶対的な存在を見るのである。

この根底の話は、何度も取り上げている、村上春樹の地下二階が他の人にも通じるという話や、河合隼雄が「個を突き抜けた普遍」として語ること、そして、アレグザンダーが「deep feeling」と呼ぶ層の話に、通じていると僕には思えるのだ。というよりも、そこがつながると、とても面白いと感じている。

最後に、西田幾多郎の哲学が何をしようとしていたのかということについて、自分の学問の立ち位置を考える上で示唆的なところがあったので、取り上げて締めくくることにしたい。西田は西洋哲学も学び活かしながら、東洋思想との関係のなかで哲学したということについてである。それは、僕ら日本人が哲学し研究することにどのような可能性があるのか、ということでもある。


「西田のなかに生きていた東洋思想の伝統・・・・そのような伝統を踏まえて、西洋哲学が前提にしていた思索の枠組みを明るみに出し、それを突破し、事柄そのものに迫るということが可能になったのではないだろうか。あるいはより正確に言えば、東洋と西洋のはざまに立って、西田は西洋哲学を相対化し、それがはらむ問題点を掘り起こしていったように思われる。」(p.161)

「西田は「純粋経験」について語ることによって、まさにそのような西洋哲学の「人工的仮定」に光を当てたということができる。そしてそれが可能であっったのは、西田が西洋のそれとは異なった言語的、文化的前提に立って思索する人であったからであろう。・・・主語を必ずしも必要としない日本語の場合には、ヨーロッパの緒言説に見られるような主体=主語の優位性は存在しない。そのことと、西田が「主観-客観」という構図から描かれる以前にそのまなざしを向けたことは、決して無縁ではないと考えられる。」(p.192-193)

「日本の伝統的な文化のなかでは、無心ということ、あるいは己れを空しくするということが理想の境地として語られてきた。そのようなことも、西田のものの見方に深く影響を与えたと考えられる。」(p.193)

「西田は東洋の思想を外から眺める眼をももった人であった。晩年しばしば東洋思想には論理が欠けているという批判を行い、しきりに「東洋の論理」を構築する必要性について語っている」(p.161)

「西田は、西洋文化が「有を実在の根柢と考える」のに対し、東洋文化は「無を実在の根柢と考えるもの」であらるというように、二つの文化を類型化し、対比的に論じている。「無の思想」という言葉で東洋の — 具体的にはインド、中国、日本の — 文化に見られる共通の特徴が言い表されているのであるが、しかし同時に、そこに存在する差異にも目が向けられている。西田によれば、インドの無の思想が「知的」な正確を強くもつのに対し、中国の無の思想は「行【ぎょう】的」な正確を強くもつ。それに対して日本の無の思想は「情的」な特質をもつ。」(p.164)

「「絶対の無」はもちろん単なる無ではなく、そこには「深い内的生命」、あるいは「無限なる生命の流」がある。「場所」が自己のなかに自己を映すということが、ここではこの「内的生命」の自己表現、つまり「生命が生命自身を限定すること」として捉えられている。(p.165)

「この「空間的」に、つまり形をもった「有」として固定化できない「無限に動くもの」に目を向け、それを把握し、それを表現しようと試みてきたところに日本文化の特徴がある、というように西田は考えていたと言ってよい。そしてそれを「情的文化」といように言い表すとともに、その特徴について次のように述べている。「情的文化は形なき形、声なき声である。それは時の如く形なき統一である、象徴的である。形なき情の文化は時の如くに生成的であり、生命の如くに発展的である。それは種々なる形を受容すると共に、之に一種の形を与え行くのである。」(p.166)

いま論理だってうまくは言えないが、パターン・ランゲージで僕らが目指しているのは、こういうことであると共感する。

話を西洋と東洋の学問という話に戻すと、西田幾多郎は、「学問的方法」という講演のなかで、次のように語ったという。

「我々は……何処までも世界文化を吸収して発展して行かなければならない。併し我々はいつまでも唯、西洋文化を吸収し消化するのでなく、何千年来我々を孚【はぐく】み来った東洋文化を背景としてあたらあしい世界的文化を創造して行かねばならぬ」(西田幾多郎「学問的方法」)

「西田は日本の精神的な伝統の最大の「弱点」を、それが「学問」として発展しなかった点に、言いかえれば、厳密な学問的方法の基礎の上に構築された理論として展開されなかった点に見ている。まさにその弱点を克服するために西田は、日本の精神的な伝統に対して、それ自身を「空間的な鏡」に映し出すこと、つまり、異質な文化との対決ないし対話を通してそれ自身の不十分性を明らかにすること(「自己批評」)を求めたのである。」(p.170)

「私は仏論理には、我々の自己を対象とする論理、心の論理という如き萌芽があると思うのであるが、それは唯体験と云う如きもの以上に発展せなかった。それは事物の論理と云うまでに発展せなかった。私は先ず西洋論理と云われ流ものを徹底的に研究すると共に、何処までも批判的なるを要するのである。」(西田幾多郎『日本文化の問題』)

「「事物の論理」にまえで発展しなかったという仏教思想の限界を、西田はまた「意識的自己の問題に止まって制作的自己の問題に至らなかった」という言葉でも言い表している。」(p.176)

この点に関して言えば、僕は、オートポイエーシスのシステム理論という理論的基盤と、パターン・ランゲージという方法を用いて取り組んでいこうとしていると言える。

「我々は深く西洋文化の根柢に入り十分に之を把握すると共に、更に深く東洋文化の根柢に入り、その奥底に西洋文化と異なった方向を把握することによって、人類文化そのものの広く深い本質を明らかにすることができるのではないかと思うのである。それは西洋文化によて東洋文化を否定することでもなく、東洋文化によって西洋文化を否定することでもない。又その何れか一の中に他を包み込むことでもない。却って従来よりは一層深い大きな根柢を見出すことによって、両者共に新しい光に照らされることである。」(p.172)

めちゃくちゃ、かっこいい。まさに、こういうことがやりたいです!西田先生!

『西田幾多郎:生きることと哲学』(藤田 正勝, 岩波書店, 2007)

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哲学するということ:永井均『西田幾多郎』を読んで

哲学者 永井 均さんの『西田幾多郎:<絶対無>とは何か』なかで、哲学するということはどういうことか、ということについてのとても面白い発見的な部分があった。

この本の冒頭で、この本の位置付けについて書いている部分に、次のように書かれていた。面白い。

「解説書や入門書に意味があるのは、それがそこで独立に哲学をしている場合だけだと思う。それ以外の仕方で、哲学を伝えることはできないからである。独立に哲学をしているのだから---驚かれるかもしれないが---本書の内容は、実は西田幾多郎とは関係がない。正確にいえば、関係なくてもぜんぜんかまわない。いや、ものすごく関係がある、それどころか西田が言わんとしたことは本書で私が言ったようなことで、私は西田よりもうまくそれを言い当てている、という可能性はもちろある。いや、少なくとも私には西田がそう読めるし、そう読まないとさっぱり意味がわからない。しかし、ほんとうにそうであるかは、私にとってはじつはどうでもいい。西田幾多郎の実態がどうであれ、本書にはそれとは独立の哲学的意義がある。ここで述べられていることは、西田幾多郎という人物を離れて、名なしで剥き出しの哲学的議論として提示されても、それ自体で意味があると思う。それが、独立に哲学をしているということの意味である。
 独立に哲学をするなら西田はいらないのではないかと言われるなら、それはちがう。他人の哲学の解説がそれを使って自分の哲学をすることによってしかできないように、自分の哲学のほうも他人の哲学の力で引っ張ってもらわないと進めないという面があるからだ。私はこれまでウィトゲンシュタインとニーチェについても、解説書のようなものを書いたことがあるが、どちらの場合も、彼らに引っ張ってもらいながら、その勢いをかりて自分の哲学を勝手に進めさせてもらった。そして、そういう点で、西田幾多郎の「場所の哲学」は、彼らの哲学に劣らず、素晴らしいものなのである。」(p.7-8)

これは、自分がこれから考え書くときの参考にとてもなる。これまでわかっていることをベースに積み上げていく自然科学的な学問をかじったあとに、社会学や哲学にくると、つい、「誰々がこう言っている。ゆえに、そこから考えると、こう言える」ということで、自分の論を展開しがちになる。しかし、自然科学の場合と異なり、そのベースになっているものは、ある先行者のひとつの考えや見方にすぎないので、それを踏まえても、正しいとは限らない。僕が社会学的な研究を始めたときに学んだのはそのことだった。だからといって、先行研究を一切踏まえなくていいわけではない。

必要なのは、先人たちが「どのように考えたのか、それはなぜなのか」を踏まえ、自分が考える際の一つの仮設(仮説ではなく仮に設置する補助具)として用いるということだ。つまり、結論だけを利用・応用するのではなく、自分も同じように深く考えることが求められるのである。先行者が歩んだ同じ道を歩くときには、当然、その人と同じように内側から見て考えることになるので、結論としては、似たようなことになる。そのまま歩みを進めて、自分の考えたいことを考えてみる。そういう試みである。

その意味で、哲学では、そこで得られた結論ではなく、問いや視点、考え方を学ぶことが重要になる。
そのことを端的に見事に言葉にしてくれている文章に、僕は、ここで初めて出会ったように思う。「私は西田よりもうまくそれを言い当てている、という可能性はもちろある」という感覚は、僕も、ルーマンやアレグザンダーに対して感じたことがある。僕の場合は、ルーマンは、社会システム理論を社会学として読んだときではなく、創造システム理論をつくるときに、パレフレーズしながら読んだときが、ルーマンの問いや視点、考え方をなぞることで、最もルーマンを理解できたと感じた。アレグザンダーについても、建築ではなく行為のパターン・ランゲージとは何かということを考えたときや、無我の創造について考えるなかで、アレグザンダーの視点や彼の歩んだ道を辿り直す(しかし、別のことを発想するために)ということになり、もっともアレグザンダーを内側から理解し、彼よりもうまく説明できるのではないかという感覚をもった。

実際にそうできているかは別問題だが、ここで永井さんが言わんとしていることは、きわめて重要だ。つまり、自分が追い求めている問題について、哲学するために、先人の哲学の道をくぐり直す。それこそが重要なのだ。創造的読書(クリエイティブ・リーディング)の極みだと言えるだろう。

今後も、自分のなかで「誰々が言っているから・・・(正しい)」という安易な引用を避け、自らが哲学するために、読んでいきたい。そういう意味で、目が覚めるような素晴らしい文章だった。

それでは、自分が追い求めている問題というのはどういうものだろうか。別の箇所の脚注で、とても重要な視点を見つけた。哲学の天才とはどういうものか、ということを書いているが、これは、すなわち、哲学するとはどういうことか、ということである。

「実は、哲学は科学と違って非民主的な営みで、凡人は天才の並外れた技芸の前にただひれ伏すしかないという一面がある。ここで天才とは、並外れて頭がいいというようなことではなく、むしろ逆に、普通の人が即座に(あるいは最初から)分かってしまうことがなぜかどうしても分からず、しかも信じがたいほどあきらめが悪く、執拗にその理路を問い続ける一種の化け物のことである。・・・こう規定するなら、西田幾多郎が大天才(超弩級の哲学的な化け物)であったことは疑う余地がない。」(p.69)

僕が、哲学の本を読むとき、多くの場合、あまり楽しめないのは、まさに、この点に関係していると思った。哲学者たちが問題としている論点にあまり興味が湧かないのである。実のところ、永井さんの<私>の問題についても、永井さんにとってかなり重要であることはよく理解できるが、僕自身はその問題に惹かれない。だから、ほとんどついていけなくて理解できない。そういうものなのだろう。
そう考えると、僕は何に(他の人よりも)こだわり続けているのだろうか。それが研究の根本的なテーマであろう。
いま思うのは、僕が、ずっと興味をもっているのは、「新しい発想はいかに生まれるのか」「創造的であることはいかにして可能か」「生きているとはどういうことか」ということである。これは、高校生のときに、オセロ・ゲームのプログラミングをしたときに、どうしたら、対戦相手の人工知能が強くなるのかを考えたときや、詩を自動生成するコンピュータ・プログラムをつくったとき、チャットで会話できるボット(コンピュータ上の人工知能)をつくったとき、そして、コンピュータ・シミュレーション上で人工生命をつくったときや社会シミュレーションをつくったときに原点がある。どれだけ仕込んでも、「なんだ、ぜんぜん賢くならないな」「結局、これを面白いと楽しめる人間の方がすごいな」「シミュレーション上だと新しい進化も、イノベーションも、当然、起きないんだな」ということなどを実感したからだ。

それでは、一体、新しい発想はいかに生まれるのだろうか?創造的であることはいかにして可能なのだろうか?生きているとはどういうことなのだろうか? これが僕の学問的探究の根本にある(ニューラルネットワークの研究をしていた僕は、「それは脳がすごいから」という説明ももの足りないと思い、そこでどういうことが起きると創造的になるのかの原理の方が知りたくなった)。

その点に執拗なまでに興味をもち、そのことのまわりで手を変え品を変え、取り組んでいる。そういうことなのだ。

永井さんのこの箇所を読んで、今後、僕がどういう道に進むべきなのかも、非常にクリアになったと思う。他の人は当たり前に理解し、特段それほど注意を払わないことで、僕が異常に気になってしまうこと、そのことに専念して進んでいくのがよいのだろう。

そういうテーマに触れるときだけ、哲学できるのだろう。先人たちの辿った道も、結果だけ利用させてもらおうという意識ではなく、もう一度追体験するようなかたちで内側から理解し、活かす。その感覚を大切にしながら、これからも研究していきたい。


『西田幾多郎:<絶対無>とは何か』(永井 均, NHK出版, 2006)

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ピュシスとロゴスのあいだ:「生」への道の言葉をつくるパターン・ランゲージ

西田幾多郎の哲学を活かしている(創造的な読み取りをしている)本の読書の第二弾として、『福岡伸一、西田哲学を読む:生命をめぐる思索の旅 動的平衡と絶対矛盾的自己同一』を読んだ。この本は、「動的平衡」の生物学者 福岡伸一さんが、西田幾多郎の哲学の研究者である池田善昭さんに西田哲学について教えてもらい、さらに動的平衡との相同性を語り合うという本である。今の僕にとても刺激的で発見的な本だった。

この本の中でもっとも今の僕に発見的だったのは、ロゴス(理性)とピュシス(自然)を対比し、ソクラテス・プラトン以降、西洋哲学がロゴスの側に依拠していたという話、そこからハイデガーにつながるあたりの話で、パターン・ランゲージがやろうとしていることの哲学的意義についての見通しが、一気に開けた。少し長くなるが、見事にわかりやすく語られているので、そのまま引用したい。

「古代ギリシアで、いまから二千数百年くらい前(紀元前六世紀〜五世紀ごろ)に、哲学らしき活動がイオニアという場所で誕生するんですけれども、その時代に活躍した人たちの中で、ヘラクレイトスなどは、Aに対するノンA(非A)というような相反するもののあり方の中に最も美しい調和がある、ということを唱えたわけです。
 「相反するものの中に美しい調和がある」とは、一見、とても理解しがたいことです。よくよく考えると、さらに理解しがたい。結局のところ、これは人間のロゴス(logos、「理性」の意)では理解ができなくて、ヘラクレイトスの時代においてさえ、ヘラクレイトスを正しく理解する人はほとんどいませんでした。
ヘラクレイトスの立場は、「ピュシス(physis、「自然」の意)の立場」と呼んでいいのですが、それと対になる言葉として、「ロゴスの立場」があります。
 ヘラクレイトスによれば、ピュシス(自然)は「隠れることを好む」とされ、常に隠されている存在なのですが、ロゴスの立場というのは、自然は完全に人間の理性の中で暴かれていて、その隠れなさゆえにすべてが理解し尽くせると考える立場です。人間の理性【ヌース】にとって矛盾して相反するものは、見ることも理解することもできないものであるから問題にする必要がないとして、ヘラクレイトスなどのピュシス的な立場から、人間の理性に合致するもの、隠れなく「見えているもの」の原型・模範のみを探求するロゴスの立場へと哲学が転換するのが、ソクラテス、プラトンの時代です。
 ソクラテス、プラトンの時代になると、イオニアの自然哲学というのは完全に忘れられてしまいます。そして、そのあとの西洋の歴史というものは、全部、ソクラテスとプラトンの影響下にあることになります。」(池田, p.39-40)

まず、ヘラクレイトスと、ソクラテス、プラトンの位置付けがピュシスとロゴスの対比でよくわかった。そこから、ハイデガーなどに話は展開していく。

「二〇世紀に活躍した哲学者、マルティン・ハイデガーはこのことを鋭く指摘しています。つまり、「真の存在はピュシスの中にあった」と。それを然るべく突き詰めていくのが本来の哲学であったはずなのに、実はそれは理解えきないものとして葬り去られた。なぜかと言うと、「相反するものが最も美しい調和だ」などというのは矛盾しているから。そして、プラトン以降の哲学では、理性やロゴスに適った、われわれに理解できるもののみを人間は考えていくべきだ、という立場がずっと主流になってきたというのです。」(池田, p.41)

「こうした考え方の方向をはっきりさせたのが、パルメニデスとピタゴラスです。特にピタゴラスは、数学、とりわけ幾何学を発展させた最初の人物ということになるわけです。」(池田, p.41)

「ソクラテス。プラトン以降現在に至るまで、人間の思考はすべて数学主義、西洋哲学でいうところの合理主義の支配下にあったと言えます。プラトンのアカデメイアの入り口に「幾何学を知らざる者、この門をくぐるべからず」と書かれていたのは有名な話です。・・・そこでは、徹底的にロゴスの立場またはイデアの立場に立つことが推奨されたのです。」(池田, p.43)

「「イデアの立場に立つ」ということは、しかし、同時に、ハイデガーの言う「現存在」(Dasein)としてのリアリティが失われていくことであったのです。「【現】存在」とは大まかに言えば、まさにいま生まれつつある存在、ありのままに起きている(「生起」的な)存在のことです。」(池田, p.43)

こうして、ハイデガーは、理念的世界で描かれる存在をザイン(Sein/Seyn:存在)と呼び、ピュシスの世界における存在をザイエンデ(Seiende:存在者)と呼んだのです。

「ピュシスとロゴスのあいだの葛藤が古代ギリシアに存在し、結果として、ヘラクレイトスが唱えたピュシスが忘れられて、ロゴス偏重の世界となったということ。その経緯について世界で初めて明らかにしたのはハイデガーだったと言えるかもしれませんけれども、しかし、ハイデガーはそのことについて西田のように徹底的に考えることはなかったのではないでしょうか。」(池田, p.45)


そして、西田幾多郎はピュシスの哲学を展開した、ということになる。

ここで、僕にとって大変視界がひらけたのは、パターン・ランゲージがどんな挑戦をしようとしているのかということである。アレグザンダーも僕たちも、生き生きとした状態を捉えようとしている。アレグザンダーの言い方では、『時を超えた建設の道』では「quality without a name(名づけ得ぬ質)」、『ザ・ネイチャー・オブ・オーダー』では「life(生命)」「living structure(生命構造)」(ここで言っているのは「生物」という意味ではない)、僕らの言い方では「いきいきとした」ということになる。これはピュシスにおける存在について語っている。

その上で、パターン・ランゲージは、それを実現するためのロゴス的な手段を考え、つくり込む。個々のパターンには、状況においてよく起きる問題をどう解決・回避・解消することができるのかということ記述される。きわめて理性的な実践思考が込められるのである。

このことは、僕らが日頃、パターン・ランゲージをつくるときに、なぜこんなにも時間がかかり、相当の労力が必要となるのか、ということの理由でもあるだろう。つまり、ピュシスの存在としての、理性では分析しきれない「いきいきした」ものを感性的に捉えながら、それを生じさせるアプローチについて、ロゴスの理性をもって分析的に記述していく。こういうピュシスとロゴスのあいだを行ったり来たり、同時に見たりしながら、つくっているのである。いわば、ピュシスとロゴスのあいだをつなぐのがパターン・ランゲージの試みであると言える。

このことは、どちらかが損なわれているパターン・ランゲージは、パターン・ランゲージとしては(少なくとも僕らの観点からは)クオリティが低いと言わざるを得ないということに関係する。つまり、実践の手引きとなるが、いきいきとした側面が抜けている・捉え損ねているパターンは、いかにもマニュアル的な操作・作業の伝達しかせず、いきいきとしたイメージをもらたすことはなく、また実践しても、そういういきいきした状態にはならないであろう。他方、いきいきしたイメージを捉えているが、その実現のための実践方法の分析があまく、ほんわりとしか書けていないとなると、詩のような表現になり、実践を支えてはくれないだろう。

そう考えると、パターン・ランゲージをつくるということは、単なる実践知の記述の便利な方法というわけではなく、ロゴス中心であったソクラテス・プラトン以降の西洋哲学よりも広い視野に立って、ヘラクレイトスまで戻った上で、位置付けを考えるというスケール感で捉えるべきだということである。パターン・ランゲージはピュシスとロゴスを結ぶという大きな挑戦をしようとしている。特に僕らはそれを学問としてやろうとしており、それは近代科学のディシプリンに収まりきらないというのは当然だということになるだろう。それゆえ、僕らは、哲学のレベルから考える必要があり、しかも西洋哲学に収まらない広い視野で、東洋の哲学や、人類のあらゆる知恵の術まで含めて、考える必要がある。最近、仏教や東洋哲学の本をいろいろ読んで来たことが、ここでつながった感がある。

この本では、西田哲学やそこから展開する話にも発見的なところがたくさんあったが、今回のまとめはひとまずここまで。他の部分については別の機会に書きたいと思う。

『福岡伸一、西田哲学を読む:生命をめぐる思索の旅 動的平衡と絶対矛盾的自己同一』(池田善昭, 福岡伸一, 明石書店, 2017)

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パターン・ランゲージ | - | -

純粋経験、行為的直観、ポイエシスへの興味:佐伯啓思『西田幾多郎』を読んで

僕の研究・実践と、日本の哲学である西田幾多郎の思想との関係を考えたいと思っているので、まずは手始めに、本人の著作ではなく、それを取り扱っている本から読んでみようと思い、佐伯啓思さんの『西田幾多郎:無私の思想と日本人』を読んだ。

この本は、本人も、「もとよりこれは西田哲学の解説書ではなく、私自身の関心と西田哲学を交差させた評論的エッセイです」(p.255)と言っているように、西田幾多郎の入門書というよりも、西田幾多郎の話を取り上げ、それと絡めながら佐伯啓思さんの考えを述べている本である。

なので、まずは西田幾多郎の人物や概念を勉強するというよりも、どこがどう面白いと思われ、どう活かされているのかを知りたいと思っているので(きわめてプラグマティックなスタンスである)、その目的に合う本であった。

西田の「純粋経験」「行為的直観」「ポイエシス」などの概念がどのようなものなのか、ぜひ原著にあたってみたいと思った(こういう本での解説は著者の解釈のフィルターを通ったうえでの説明なので、それがそのまま原義だと思うべきではないため)。

まず、おなじみのこういう話題から。

「西洋思想では、この「私」という「主体」は決定的に重要なもので、「私」という「主体」が自然に働きかけて、自然をコントロールしたり、社会に働きかけて理想社会を実現したりしようとする。」(p.58)

「しかし、日本の思想には、どこか、「私」を消し去り、無化してゆく方向が色濃くただよっています。「主体」というものを打ち出さないのです。これは、言語的にいえば、日本語では、しばしば主語を省略したり、主語を重視しない、という点にもあらわれてくるでしょう。和歌や俳句でも通常、主語はありません。一場の情景と、その場に溶け込んだ詠み手の感情が一体化して切り詰められた言葉に乗せられるのです。むしろ、私を消し去ったところに、自然と一体となったある情感や真実を享受されると考える。」(p.59)


西田は、体験そのものである「純粋経験」を振り返るときに初めて「私」というものが出てくるという。「私」が「経験」するのではなく、「経験」が「私」を生みだすのです。経験があるからこそ、それを反省的に理解して、そこに「私」がでてくるわけです。

「個人あって経験があるのではなく、経験あって個人あるのである」(『善の研究』)というわけです。」(p.57)

「「私」という主体や自己意識があって、行為を組み立てるのではなく、ただ行為のなかに自分が表現されているだけ、と考えている。」(p.103)


この、「私」が主体として先行するのではなく、「経験」がそのままあり、「行為」をすることに付随して「私」が出てくるということだという発想は、パターン・ランゲージで行為が支援され実践されることで、自分らしさが出てくるという僕たちの考えに通じるものがあると感じた。

さらに、心的システムの作為による創造ではない「無我の創造」や、ティク・ナット・ハン師が言う「対象と一体になる」という話に通じる話も出てきた。

「西田は「物となって考え、物となって行う」といいました。そしてそれをまた「行為的直観」ともいいました。」(p.98)

「西田のいう直観は、・・・何ものかに憑かれ、それこそ突き動かされ、そこにもはや「私」は「我」の意識が入る余地がないような行為のなかでこそ、人は行為や存在の意味を直観として把握する、ということなのです。」(p.99)

「たとえば画家が、絵具をもって「ひまわり」という対象(もの)に向かい、キャンバスにある「形」を生みだす。この時、絵になるべき「ひまわり」の図像があらかじめ頭に描かれているのではない。彼は、ただ「ひまわり」に触発され、それに肉薄しようと「私」など消し去って、ただひたすら絵筆を動かしているのです。しかし動かすことでまた「ひまわり」が直観されてくるのです。ここでは「描く」という行為と「もの」の本質直観は決して切り離された別々のものではない。その場合に、重要なことに、このような行為的直観にあっては、まずは自我を消し去り、無化しなければなりません。対象と自分を一体化しなければなりません。
 それが「ものになる」ということです。その時に、いわば意識の見えない奥底にある「鏡」(無の場所)に、その「もの」の本質が映し出されてくるのです。「もの」を映し出すということは、また、「もの」を通して「私」を映し出すことなのです。」(p.102)


そして、次のような話がでてくるということで、西田幾多郎の『日本文化の問題』という本も、僕は読むべきだと思った。

「ここで西田が強調していることは、日本文化の核心とは、己を空しくし、無私や無我にたって事物に当たる精神だというのです。己を無にして「物となって見、物となって行う」ということです。私心も作為も意図も排し、ただ現実に向き合い、あたかも自己を一個の物であるかのように、己を現実に差出し、やるべき働きを行う。・・・たとえば、次のようにいう。

「私は日本文化の特色と云うのは………何処までも自己自身を否定して物となる、物となって見、物となって行うと云うにあるのではないかと思う。己を空うしえ物を見る、自己が物の中に没する、無心とか自然法爾とか云うことが、我々日本人の強い憧憬の境地であると思う。……日本精神の真髄は、物に於て、事に於て一となると云うことでなければならない」

自己を否定し、私を排し、無心になって、対象と自己を一体にする。自分自身が物となる、こうしたことは芸術活動などを考えればわかりやすいことだし、あるいは、一幅の絵を見、茶碗をめで、桜に感動するといたいかにも日本的な美的な文化を取りだせばよくわかることでしょう。」(p.172)


そして、西田幾多郎は「ポイエーシス」ということを言っているので、オートポイエーシスや創造実践ということを扱っている僕としては、そのあたりのつながりも考えていきたいところだ。

「「個性」をもった「私」という「個物」は、ただ生まれてそのままで「私」でもなければ「個性的」でもありません。人は生まれたままで個性的なのではない。それは「ポイエシス(制作)」においてこの世界へ働きかけ、創造的力点となることによって初めて「私」となる。」(p.193)

「西田は次のように書いています。

「我々は我々の自己の底に、深く反省すればする程、創造的世界の創造的力点となると云う所に、我々の真の自己があるのであり、我々の自己が、かあかる意味に於いて個物的となればなる程、真の自己となると云うことができる」(「国家理由の問題」)」(p.194)


世界のなかで、主体としての「私」がまずあって、その「私」が世界とどう関わるのかではなく、経験があり、そのなかあで「私」がどう生じるのか、という発想を、もう少し勉強してしっかり理解し、関係を考えていきたい。

『西田幾多郎:無私の思想と日本人』(佐伯啓思, 新潮社, 2014)

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東洋からの貢献、空、ナチュラル・ウィズダム:『ブッダの夢』を読んで

河合 隼雄さんと中沢 新一さんの対談本『ブッダの夢』、最高に面白かった。

僕が目指しているパターン・ランゲージとは何かということを考えるためにも、とても勉強になり、かなり共感する魅力的な言葉たちに出会うことができた。

まずは、本書の冒頭の問題意識にところで語られている、中沢さんの以下の発言。

「仏教はふつうにいうところの宗教ではない。それは言ってみれば『知恵』なのである。」(中沢, p.9)

「東アジアの端っこの列島に生きてきた日本人が、なにか独創的な仕事で人類に貢献することができるとしたら、それはこのけっして体系をなさない、そして日常や実用からはなれることのない『知恵』の倉庫から出発して、つつましいけれども深い願いをこめたさまざまな『道』をつくりだすことしかないだろう、とぼくは思ってきた。仏教はそういう日本人がなにかの独自性をもった創造を行おうとするときに、いつも羅針盤のような役目を果たしてきてくれたのだった。僕たちの時代の新しい『知恵』のかたちを生み出していかなければならない。」(中沢, p.10)

僕はパターン・ランゲージの研究をしながら、その提唱者であるクリストファー・アレグザンダーが東洋的な考え方に影響されてつくった思想や理論、方法というものを、日本人である僕(たち)はどのように発展させ、返すことができるだろうか、ということを常々考えてきた(海外研究者から15 Propertiesについて日本人の視点から見るとどうなのかと問われてうまく答えられなかった経験もある)。知恵としての仏教という視点によって、というのは、まさに、共感するところである。最近の僕の関心にドンピシャで、それを言語化してくれているというような文章だった。

この本のなかでは中沢さんが仏教にはまる経緯について語られている部分があるのだが、そこで、二元論に対する第三の道というか、能動と受動の間の「中動」のような、中間に関する話が出てきた。

「あるとき、たまたま読んだ本に禅の悟りについて書いてあった。そこには禅というのは、悟りは自力だ自力だと言うけど、自力じゃないんだとある。禅の悟りというのは、卵の中に雛がいるようなもので、雛が、もう孵化しようかというときに、中から黄色い嘴【くちばし】で、卵をツンツンツンツンとやるんです。そうすると、その気配を察知した親鳥が、上からツンツンって硬い嘴でつついてくれる。その二つのリズムが合体したとき、すっと割れるんだ、悟りというのもそういうもんなんだ、ということを言っておりますね。それを読んで、自力と他力には、ちょうど中間点があるんだなというのを感じたんです。そこで自分の求めているのはこういう、中間なんだと思いました。」(中沢, p.22)

「僕が決定的に仏教に転向したのは、構造主義がきっかけになっています。レヴィ=ストロースやラカンを読んで、自分が仏教徒であることを自覚しました。・・・ただ、キリスト教の自力と浄土真宗が教えている他力思想のちょうどうまい中間点があるかもしれない。それはどこにあるのだろうという探究が始まったのが二十代の後半くらいで、それから僕は、本格的にチベット人のところに行き出したんです。」(中沢, p.23)

僕が探究しているのも、まさにこの中動の領域である。中沢新一さんは、こういうことにずいぶん早くから気づき、取り組んでいたんだなぁ、と、やはりもっと本を読んでみたいと思った。そして、いずれ、僕の方も考えがまとまったら、ぜひ一度お話ししてみたいものだ。

なお、この流れで、河合隼雄さんも、中動の話をしている。

「中間点という言い方をすると、僕の場合の中間点は、治すと治るの中間点ですね。」(河合, p.24)

僕が無我の創造で論じていることにも通じるし、「支援する」と「する」の間になるパターン・ランゲージによる支援にも通じる話である。やはり、中動態は熱い。

他にも、「名づけ得ぬ質」とパターン・ランゲージの関係に重なるような内容も語られていた。次の文は、河合さんの発言と、それを受けての中沢さんの反応である。

「僕がいま考えているのは、・・・たとえば僕がこのコップのことを言いたいんだったら、このコップを言葉で記述するのではなくて、僕の言葉に乗った人は、その調子で行けばコップに当たるとか、そういう言葉の使い方がありはしないかと考えて入るわけです。つまり、そのことを直接には表現できないので、この線を無限にたどればそこに行きつくというような、方向と運動を与えるような言葉の使い方はできないだろうか。そういう言語の使用法というのはまったく違いますね。精神分析における言葉と。」(河合, p.40)

「先生は今、ほのとに唯識【ゆいしき】の思想に近づいている……。心の分析の究極に、たんなる「無」じゃなくて、「充実した空【くう】」を出現させようってわけですから」(中沢, p.46)


河合さんができないかと言っている言語の使用法こそ、パターン・ランゲージが目指しているものではないかと思う。つまり、「名づけ得ぬ質」そのものは言語化できないが、それへと至るパターンを言語化するという発想である。それにしても「名づけ得ぬ質」を「充実した空【くう】」と捉えるのは、とても魅力的である。

マレー・ゲルマンの『クォークとジャガー』の本が取り上げられ、複雑系の話になる。複雑系科学出身の僕としては、胸熱な話である。そこから西田哲学の話に行き、宗教の話になる。この組み合わせも抜群に魅力的だ。

「散文は複雑系を追求し、科学が単純系を追求し、単純と複雑の結合を詩が描く。そして、西田哲学はどこにあるかというと、この詩というものの延長になると思います。あるいは詩の直前にあるかもしれません。これは概念という単純系によって複雑系の世界の本質を描き切ろうとするわけですね。だから「絶対矛盾の自己同一」とかいろんな言い方をする。・・・宗教というのは、その先にあるものだと思いますね。宗教というのは、複雑系の底の底まで行った時、それがきわめて単純なものであることを見出して、同時に科学を探究していった時に、それはもっとも複雑なものを生み出し得ることを同時に捉える視点です。だから、詩的な思考法と宗教の思考法は、同じ方向性を向いている。・・・たぶん宗教と科学は、この意味で言うと、対立などはしないんじゃないか。新しい科学の形として、詩的言語の方向へ向かい、ヴィトゲンシュタインが言ったように、あるいはアインシュタインが考えたように、科学は芸術に近づいていきます。単純系と複雑系をひとつのところへ絶対矛盾の自己同一化させてしまうようなものはつくり得る。」(中沢, p.76-77)


この本にこういうふうに複雑系の話が出てくるあたりに、もと映像(映画)クリエイターで、最初は複雑系の研究をしていた僕が、なぜパターン・ランゲージを研究していて、なぜいま仏教と神話に興味があるのか、ということがよくわかる。その意味で、アプローチや軸足は違うけれども、中沢さんはかなり僕の先行探究者であると言える。

この本に出てくる箱庭療法の話も面白いのであるが、僕の関心でいうと、箱庭療法と芸術作品の関係についての質問に対しての河合さんは次の答えが、とても興味深いので取り上げたい。

「芸作作品の場合とほとんど似ています。しかし、芸術家と呼ばれている人は、自分の内的体験が、他の人とつながるということが、どこか念頭にあるでしょうね。自分自身ももちろん、これと同じようなプロセスで癒されているわけだけれども、それが他の人に対しても意味のあるものとして提示できるという才能がなかったら芸術家になれないですね。」(河合, p.120)


この話は、まさに、村上春樹が、小説を書くことは自分の癒しであるとともに、意識の地下に潜って、読者に通ずる水脈まで突き抜けるという話に通じていると思う。

その流れで、箱庭療法では、人生の空虚を分離していくんだという話になり、その箱庭療法で行なっていることを、宗教に重ねて、中沢さんはこのように語っていた。とても面白い。

「ちゃんとした宗教を通過していくというのは、日常の人生の空虚感を抱えて、それを意識して自分の内部から分離できるかにかかっているように思います。」(中沢, p.123)

「禅宗なんかが、悟りと言っているのがそれだと思います。禅は人生の空虚をどうやって分離していくかという、「わざ」を教えている。「空」が、自分の目や鼻から出入りしている、そういうふうにして、自分はあるということを知ることです。ですから、悟りを得るといっても、完全解脱【げだつ】とか、絶対幸福の中に移ってしまうのは、まだ宗教としては未熟な、途中のものだと思います。宗教はそれをこえていく必要がある。自分の抱える空虚をちゃんと心の中で分離して、距離をうまくつくりだすことができれば、それで人間ができることとしては十分なんだということしか禅は言ってない。しかしそれが言えるということが宗教の究極なんじゃないかしら。」(中沢, p.124)

なるほど、「禅は人生の空虚をどうやって分離していくかという、「わざ」を教えている」のか。興味深い視点を得た。

他にも、チベットの土着のボン教の話から、ナチュラル・ウィズダム(Natural Wisdom)という話が出てくることろがある。

「宗教というのは、宗教としての極点を登りつめたら、ナチュラル・ウィズダム(Natural Wisdom)みたいなものに向かって自分を開いていくものだと思うのです。だから、宗教の体系とか哲学とか、とにかく極めるだけ極めちゃったら、もうそれは全部捨てて、解体して、自分もナチュラル・ウィズダムのほうに開いていくものだという考えですね。ボン教の人たちを見ていると、ナチュラル・ウィズダムを出発点にして、宗教に行かないんですよね。仏教のような宗教へ行かない。それが、アメリカ・インディアンの世界観とよく通じています。」(中沢, p.133)

「ナチュラル・ウィズダムに、ちょっとだけ体系化の手を加えるんだけど、その体系化は神話のレベルぐらいにとどめといて、けっしてきちんとした宗教をつくらないんです。・・・現代のアメリカ人はそのインディアンの世界に、精神的な遍歴の果てに辿りつこうとしている。宗教とか国家とか文明とかを辿り尽くして、極限まで来て、さあここからどちらか別のところへ向かわなきゃいけないという時、そういうものを解体して、放棄していく方向へ行こうとしている。その向こうにナチュラル・ウィズダムみたいなものが開けているんだろうなと、僕は感じとれるんです。」(中沢, p.133-134)


このことと、パターン・ランゲージが普遍知ではなく、日常的な実践の人々の知恵を言語化していることや、僕が井庭研の看板を最近「Natural & Creative Living Lab」とたのは、偶然の一致ではない。Naturalは、単に自然が好きとかそういうレベルのものではない。生きるということや生命に通じるレベルでのNatualである。

最後に、神話世界を構成する神話以外の要素についての話も興味深かった。儀礼や巡礼、踊り、詩などは、神話では伝えきれない、神話からはこぼれてしまう大切なことを共有するためのものだという話。

「神話には、とにかくある論理があって、世界観や論理を組み立てていくけれども、そこからこぼれちゃう経験があって、それを全部拾い集めてくるのが儀礼じゃないか。だから神話と儀礼を対立させるなんていうのはだいたい間違った考え方で、神話も儀礼もいっっしょくたになった人間の経験の領域があるんだ。現代人は、それを小説のような物語でやったり、映画で解消しようとしている。・・・神話はそれだけが自立しているのではなくて、神話では語れないものがある、夕日の輝きそのものを取り出す語りであったり、踊りであったり、あるいは詩のようなものだったりするものが、神話を取り囲んでいる。そういうものの全部で、神話世界は構成されているんだという考えですね……」(中沢, p.140)

これも、パターン・ランゲージを神話的な何かとして見るべきではないか、と感じている僕にとっては、発見的な内容であった。パターン・ランゲージが神話そのものとの機能的な等価性を言う以外の可能性についての視野が開けた。

『仏教が好き!』もそうだが、中沢 新一さんと河合 隼雄さんの対談は、めちゃくちゃ面白い。もうこういう対談が聞けないのだと思うと、残念極まりない。もっとお二人の対談を聞きたかったし、その後の展開も見てみたかった。

『ブッダの夢―河合隼雄と中沢新一の対話』(河合 隼雄, 中沢 新一, 朝日新聞社, 2001)
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パターン・ランゲージは、一人称・二人称・三人称を総動員してつくる

最近気づいた重要なことのメモ。

僕らのパターン・ランゲージをつくるプロセスや、仕上げのつくり込みのときには、一人称の視点・感覚、二人称の視点・感覚、三人称の視点・感覚を総動員してつくっている。そうやって、どの視点からも共感・活用できる重層的な作品になることを目指しているんだと思う。
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うまくいっているコラボレーションで起きること:フローとグループフロー

最近、しばらくの間、移動時間やカフェでは『臨床哲学対話 あいだの哲学 ―木村敏対談集2―』を読んでいた。木村敏さんの対談集である。

それにしてもこの豪華な顔ぶれに驚いた。野家啓一、坂部恵、中村雄二郎、新宮一成、浅田彰、柄谷行人、中井久夫、市川浩、大澤真幸、村上陽一郎。僕にとっては専門外の分野の話題が多いので、難しいところも多々あったが、勉強になるところ、面白いと思うところが、あちこちにあった。

特に、坂部恵さんとの対談で、ポイエーシスの中動相から西田幾多郎につながる話などは、胸熱であった。その部分は、やりとりが面白く、引用に適さないので、他のパートで面白かったところからひとつ取り上げたい。木村さんの発言。

「バイオインとチェロとのトリオでピアノを弾いていますと、僕自身はピアノパートの音しか出していないはずなのに、音楽が流れはじめると、元来持ち寄りであるはずのトリオの音楽が、それぞれのパートから独立した一つの生命を持ってしまって、それが主体となって一人ひとりの演奏を引っ張っていきます。そんなとき非常に不思議な錯覚が起こるんです。それは、自分が物理的にはピアノの鍵盤しか鳴らしていないのに、まるでバイオリンもチェロも合わせて弾いているのだという意識と---事態を冷静に見つめるならば---自分はピアノしか触っていないという気持ちとの二重性みたいなものが発生する。その場合には、自分のなかに個としての自分と、そこに流れている音楽全体をやっている自分との、垂直の関係が生じるんです。」(木村, p.368)


音楽を奏でるようにうまくできているコラボレーションでは、こういう感覚を僕も味わう。まるで、自分(たち)が生み出しているということをものすごく実感する。単にこれは一体感の問題ではない。全体を動かしているという確かな手応えである。人と人、音と音の間(あいだ)で起きていることが、間に還元されず、全体との二重性をもつ。この不思議な感覚は実に興味ふかいところだ。個人レベルでは、チクセントミハイがいう「フロー」状態になっており、グループレベルでは、キース・ソーヤーが「グループフロー」と呼ぶような状態になっているのだろう。

この本に書かれていたことをもう一度理解し、味わうために、もう少しこの分野のあたりを勉強してから再読したい。

『臨床哲学対話 あいだの哲学 ―木村敏対談集2―』(木村敏, 青土社, 2017)

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アレグザンダー、ヴィトゲンシュタイン、ハイデガー:『仏教が好き!』を読んで

河合 隼雄さんと中沢 新一さんの『仏教が好き!』、いまの僕には、めちゃくちゃ面白かった。
宗教を俯瞰してみたときに、仏教的な思考がこれからの世界にとって重要となるということがわかったし、自分がこれまで何をやってきて、これから何をやるべきなのかということを考えることができて、とても勉強になった。なかでも最も「おおおおー!」となったのが、以下の部分。

「ブッダが『空』と言っていることは言語化不能であるというのが原則なんですね。密教だけではなくて、『般若経』でも、『言説不能、言葉で言うことは不能、だけどこれは確実に、肯定的に、ある』と言われます。」(中沢, p.185)

「ユングがよく使う言葉がありまして、英語で circum ambulation、『巡回』という意味です。僕の好きな言葉なのですが、結局、中心には入れないということなんですよ。われわれはまわりをめぐるだけ。まわりを何度も何度もめぐることによって、いわば中心に思いをいたすなり、中心を感じ取るなりということはできるけれども、中心に入ることはできない。僕もそのように思っているわけです。」(河合, p.186)

「すべて比喩で回転しつづけているけれども、その中心部には言葉の能力をもっては踏み込めない部分があるということなんでしょうね。」(中沢, p.187)

「おそらくぐるぐる回っているうちに体験としてはある、ということなんでしょう。」(河合, p.187)


これはまさに、アレグザンダーが目指した質が言語化不可能であるとして「名づけ得ぬ質」と呼んだことに通じるし、僕らがパターン・ランゲージをつくり実践知に対して言語を当てることは、「実践知を記述する」ことではなく、あくまでも、直接は表現できない実践知を指し示す言葉をもつことで意識して実践することができるきっかけをつくり、「巡回」するためである、という僕の感覚に通じる。

この箇所で、ヴィトゲンシュタインとハイデガーについて語られたところを読んで、興味深いことに気付いた。

「『言葉にならないものは沈黙しなさい』というヴィトゲンシュタインのような哲学者もいる。われわれのできることはせいぜい言葉でまわりをめぐることで、中心の言葉にならない領域に関してはもう『黙れ』と。そのとき、ヴィトゲンシュタインはどこにいるのでしょう。彼の心は、この中心にいまあす。ただ、そこについては黙ろうとしている、黙らなくてはいけないという認識をもたらすものがある。」(p.188)

「ハイデッガーが「存在」とか言うじゃないですか。『在る』とか。あれは言ってみれば真ん中のすぱんと抜けたところを『在る』と言っているわけですよね。」(中沢, p.187)

「ところがわれわれは『存在』ではなくて『存在者』だから、まわりをぐるぐる回っているに過ぎないものなのに、中心部には『在るが在る』というふうに彼は言うわけですね。何でそのことをみんな驚かないのかと。」(中沢, p.187)

「『私』はその『在る』の中心部にいる。彼は踏み込む。そこからいろいろな言葉が紡ぎだされて来る、その中心点から、あの独特の言葉と思考がつぎつぎと湧き出てくる。」(p.188)


クリストファー・アレグザンダーは、『時を超えた建設の道』では、質そのものについては沈黙した(質を生成するパターンについては語った)という意味でヴィトゲンシュタイン的であり、『ザ・ネイチャー・オブ・オーダー』では、その質に踏み込んで語った(センターとその関係性を捉えた15の基本特性)と言う意味で、ハイデガー的であるといえるだあろう。『時を超えた建設の道』から『ザ・ネイチャー・オブ・オーダー』へのアレグザンダーの変化は、ヴィトゲンシュタインからハイデガーへ、ということで捉えられるのかもしれない。

ヴィトゲンシュタインとハイデガーは、僕にとって、気になる存在ではあったが、なかなか切り口がつかめないでいたが、ひとつよい切り口を見つけたと思った。井筒俊彦やホワイトヘッド、ベイトソンなどとともに、読んだり、再読したりしたい。

ずっと気になってた中沢さんの他の本も読みたいし、発見と知的好奇心を刺激される一冊だった。

河合 隼雄 ,‎ 中沢 新一, 『仏教が好き!』, 朝日文庫, 朝日新聞出版, 2008

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最近読んだ本・面白そうな本 | - | -

仏教へのプラグマティックな関心と「創造におけるマインドフルネス」

最近、よく仏教の本を読み、それについて書いているので、「井庭さん、最近スピリチュアルな感じだ」とか、「病気して、信仰深くなったかな」と見えるかもしれないので(それ自体は悪いことだと思っているわけではないが、僕の意図とは異なるので)、どういう関心でどう読んでいるかを書いておきたいと思う。結論から言うと、宗教的な救いや信仰というよりも、実践の教えと世界の捉え方として関心がある(いまのところ)。僕はやはり、プラグマティストでシステム論者であるということだ。

まず、仏教の本への具体的な入口とステップになったのは、山下良道さんらの『アップデートする仏教』などの本と、そこからつながったティク・ナット・ハン師への本である。

それらの本を読むとき、僕は、呼吸からいまここの身体に気づくという話としてではなく、創造の話に読み替えて、その同型性にワクワクしている。つまり、そこで語られているマインドフルネスの話が、僕が創造性について考える大きな参照点になっているのである。いわゆるマインドフルネスのための瞑想では、呼吸に意識を向けることで身体に「気づき」、いま・ここを生きるということにつながるが、そこから僕がアナロジーで見るのは、創造のマインドフルネスで、創造における発見の連鎖を向けることで、その創造における生成に「気づく」。創造の最中に感じる喜びや満たされている感じ、世界・宇宙の本質に触れている感覚は、瞑想におけるマインドフルネスに近いのではないかと思っている。僕はそういう読み方をしている。どちらもシンキングマインドを落として、世界に気づくことである。身体のみならず、創造における生成も、世界・宇宙とつながっているそれらの一部である。

僕が創造が、思考の話ではなく、発見の連鎖に委ねることだと考え出したのは、カオスの研究をしていたとき。そのとき、僕らは、カオスのシステムのなかに複雑で美しい秩序が潜んでいることを、それまでとは異なる視点で発見した。inventかdiscoveryかという二項対立がよくあるが、僕はどちらもである、と感じた。そのカオスの秩序は、光の当て方という意味ではinventだが、その秩序はもともと潜んでいたという意味でdiscoveryである、スティーブンキングが、物語は、化石のように掘り起こされるのを待っていて、作家は注意深くそれを掘り起こすんだと言っているが、それは同様のことを言っているように思う。つまり、科学的発見も創作的発見も、機能的には同じであるという捉え方が得られ、それが僕の「創造システム理論」のベースになっている。

さて、プラグマティストであるということはどういうことか。命題を、そのままでそれが真か偽かを判定できないという考え方をする。それを「もしこうしたら、こうなる」というかたちに変換してそれで検証する、すなわち効果があることで、その命題を真と言えるという立場である。そういう視点から、ティク・ナット・ハン師の本などを読んでいる。

つまり、どの宗教でも「よい行い」を勧めるときには、「ブッダはこう言った」というように、その言われの元に根拠を置いて説明・説得する。それゆえ、ブッダを信じるかどうか、ということになり、信仰となる。

僕はプラグマティズムで考えるので、「よい行い」がどのようなよい結果を生むかで、その行いを評価する。つまり、その行いが誰によって言われた・実践されたかではなく、その行いそのものと、その結果に注目する。これが、パターンランゲージ3.0をつくることで僕らがやっていることでもある。ある分野の実践において、どういう状況でどうすることが推奨され、それはどんな問題を回避してどういうよい結果(質)を生むのか、というかたちで取り出して記述する。行いそのものの効果を見るので、もはやブッダやイエスやアラーを「信じる」必要はない。パターンがあることとそれが機能するということを信じられればよい。

このことを、ルーマンの社会システム理論的に言うならば、僕の依拠しているのは、「誰々だから」という人格信頼ではなく、「それが機能する」というシステム信頼であると言える。僕が仏教の本を読むとき、行いと結果の話に線を引き、「ブッダは」という部分は背景に退かせて読んでいる(そこは、ふむふむと読むが、言説の論拠として重要と感じない)。

僕にとっては、科学も宗教も芸術もも、すべて、現実・現象の背後に潜む原理・原則に迫り明らかにするという点で、機能的等価なのである。それらが、世界観・認識フレームを提供し、僕らが生きていくための思考や実践を支える(影響する)。誰が言ったからとは関係なく、そのことがよい効果をうむということがわかると、それが認識に作用し、思考・行動が変わる世界の仕組みをどう見るか、というところに興味がある。
神話や宗教的言い方でしか言えなかった、よい結果を生む行い・実践について、以前は「ブッダいわく」としか説明できなかったが、いまなら、違うかたちで説明・お勧めすることができる。パターンというかたちやその連鎖の体系のシステムとして。

仏教も、人類の長い歴史なかで、語り継がれなくならなかったくらいには、よい結果を生み出すのに興味したがゆえに残ってきただろう(そうでなければ、進化的な意味で途絶えただろう)から、その意味での大いなるリスペクトというか、学ぶべきことを含んでいると思っている。特に「生きること」や「よりよく生きる」ということに真摯に正面切って取り組んできた人類の知的営みが宗教だと思う。その意味で、僕は宗教がもつ世界観やおすすめされている実践について興味がある。

そして、それが創造性について考えるための参考・参照点となっている。僕の関心はそういうところにある。
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SFCの履修選抜問題と、「実践を伴う授業先取り選抜課題」という方法

SFCでは、学年進行による科目履修制限がない。つまり、1年生から4年生まで好きなタイミングで取りたい科目を履修できる仕組みになっている。そんな仕組みは、他の大学・学部ではまずありえないし、自由度が高くて僕はよいと思っている。

しかし、そのため、取りたい科目の希望者が多ければ、履修選抜に勝ち残らなければならない。僕の授業はどれも(しっかり取り組むことを学生の間でも知られていることもあり)熾烈な履修選抜の状態にはない。思うに、履修選抜で学生の不満がたまっているのは、楽単科目についてではないかと思う。もちろん、なかには楽ではないが魅力的で人気の授業もある。そういうのは昔からあり、まあ、一定人数(それでも100人とか200人とか)しか取れないのは、仕方ない。それは最近始まったことではなく、以前からあることである。

抽選による選抜なんかは、よくない仕組みだと思うが、履修者500人の枠にたくさん来たら、現実的には、履修選抜課題を読むのも大変すぎて、現実的ではない。そんなこともあり、僕はそういう大人数すぎる科目はやめた方がいいと思っている。

それとは別の話として、学生の間で不満があるのは、履修選抜で通った人にも実際には履修しない人がいるということである。選抜で落ちる科目があるかもしれないリスクがあるので、多めに選抜課題を出すのは、ある意味合理的な判断だ。そこを責めるのは酷である。しかし、その結果、取りたいのに履修選抜で落ちた人がいる一方で、選抜に通ったのに実際には履修しないという人が出てしまう。

そういうことになれば、当然文句も言いたくなる。これは、僕は、履修選抜の仕方の問題だと思う。だいたい、慶応SFCの学生となれば、履修志望理由なんて、本心では思っていなくても、それなりに説得力のあるものを書いてくる。だから、履修選抜に、志望理由を書かせても、だいたいみんなよいという評価になる。そういうのは、よい履修選抜だとは言えないだろう。

もっと工夫をした履修選抜にする方がいいんじゃないかと思う。このあと、書くが、実践を伴う授業先取り選抜課題である。これは、授業の内容を理解することにも役立つし、授業でやることを楽しめそうかのセルフチェックにもなる。そして、そういう履修選抜は、本当にやる気がないとやろうと思えないという意味で、こちらがわざわざ選抜しなくても、自然淘汰型で履修選抜提出者がそこそこに減る。そういう方法だ。

僕の考えるソリューションは、「実践を伴う授業先取り選抜課題」というものだ。授業で行うことを、前出しで実践してもらい、それを履修選抜課題とするのだ。

授業の履修について、最も残念なのは、「こういう授業だったなんてわかってなかった」というミスマッチングで、これは学生はやる気はないし、教える側もそういう相手に教えるということで、よいことはない。シラバスにそう明記してあっても、そういう学生は少しいる。

この「実践を伴う授業先取り選抜課題」をやれば、そういう学生はいなくなるだろうと思う。なぜなら、授業でやることを先に少し経験してから履修することになるからだ。

しかも、指定された実践をしなければならないので、とりあえず志望理由をうまく書いて出しちゃう、みたいなことはできなくなる。実践しなければならなくなるからだ。これは、僕は、クックパッドのアーキテクチャから学んだ。クックパッドでは、「つくれぽ」というのがある。あれは、レシピに対して、自分が実践した報告を、そのレシピにつけるというものである。実践しなければ書けないため、冷やかしや誹謗中傷みたいなことにはなりにくい。これは、ブログのコメント欄やtwitterなどとは大きく異なるところだ。そういう場では、言葉上では何でも言えてしまうので、偉そうに語ったり、ひどいことを書いたりすることも簡単にできてしまう。そうならないための方法が、自らの実践を伴うコメントしか許さないというアーキテクチャだと、「つくれぽ」を見て僕は気づいた。

履修選抜も、さほど思ってもいないのにそれらしく書くということが、実践を伴う履修選抜課題であれば、しにくくなる。しかも、やってみて、面白ければ履修すればいいし、面白いと思えなければ、そもそも履修選抜課題を途中で放棄するか、出さなくなるだろう。

そういう意味で、このやり方であれば、こちらがわざわざ選抜しなくても、履修希望者側が、自分で取りやめるので、自然淘汰のように、そもそもの履修希望者数が減る。そうなれば、定員に最初から収まるか近づくということが実現できる。やるべきことは、あまりにもちゃんとやっていないものを取り除くのと、相対的に質のよくないものを抜くということだけだ。

現在の履修選抜は、教員が履修許可の人を選ぶ、という向きが強すぎると思う。もっと、学生が本当に自分で選ぶということをやれるような課題にした方がいい。ちょっと大変でも、授業そのものが同じように大変なので、それを知った上で、履修希望を出した方がいい。

そんなわけで、僕は、「実践を伴う授業先取り選抜課題」となるような課題を設定している。

今年春学期の僕の授業の選抜課題は以下のような感じだ。

「創造社会論」では、授業で毎週出る宿題と同じようなものを体験してもらう課題にした。

【履修選抜課題】「創造社会論」
受入学生数(予定):約 100 人
選抜方法:課題提出による選抜

(1)次のページに、これまで4年間のこの授業の対談映像のリンクがあります。どれでもよいので、好きなテーマのどれか1回分(前半・後半)を見て、対談(ダイアローグ)型の授業というのはどういうものかを理解してください。その上で、自分がどの回を見たのかを明記して、それを見て考えたことや感想を書いてください(この授業では、これと同じように、その回の対談に参加して考えたことや感じたことを提出する宿題が、毎週出ます)。
http://web.sfc.keio.ac.jp/~iba/sb/log/eid500.html
(2)この授業を通じて学ぶことはどのようなことだと考えている(予想している)か、そして、それを自分の今の活動や今後にどのように活かしたいと考えているかを書いてください。

シラバス(http://web.sfc.keio.ac.jp/~iba/sb/log/eid533.html)より


「創造システム理論」は、次のように、授業で取り組む「ゆるい創造実践」とはどういうことかを体感してもらう履修選抜課題にした。

【履修選抜課題】「創造システム理論」
受入学生数(予定):約 100 人
選抜方法:課題提出による選抜

自分を表現する「自撮り動画」を撮影し、魅力的な自己紹介をしてください。動画は30秒以内とし、YouTubeに限定公開設定でアップし(各自アカウント取得が必要です)、そのURLを提出してください。
”魅力的”という表現の解釈は自由です。ただし、単に個人の容姿や声色を評価するものではありません。また、動画そのものの画質や編集・加工技術を評価するものではないので、 特別なカメラ機材などを仕様する必要もありません。スマホ撮影で十分です。
30秒という時間の中にどのような言葉、表情、しぐさ、背景、物語を織り込むと”魅力的”に自分を表現することができるのか、ぜひ工夫を凝らしてみてください。
これは履修選抜課題ですが、この課題を楽しむことができるということが一種の選抜(Natural Selection)になっていると言えるでしょう。ここから、あなたの「ゆるい創造実践」は始まっているのです。

シラバス(http://web.sfc.keio.ac.jp/~iba/sb/log/eid534.html)より


最後に、「パターンランゲージ」の授業。この授業の履修選抜の課題では、今年度のグループワークのテーマ(複数あり選択できる)を掲げ、具体的にどういうグループワークをやるのかをイメージできるようにしました。その上で、テーマを事前に選んでもらうことで、こちらがグループを組むのを早めることにしました。従来は、初回に表明してもらい、時間をかけてグループを決めましたが、授業時間がカツカツで7週間に収まり切らない悩みがずっとあったので、テーマ選択を前出しして、時間確保も重ねて狙いました。

【履修選抜課題】「パターンランゲージ」
受入学生数(予定):約 100 人
選抜方法:課題提出による選抜

この授業では、選んだテーマのパターン・ランゲージをつくるグループワークを行います。授業時間外にグループにメンバーでしっかりと時間をとって取り組む必要があります。そのことを十分理解した上で、以下の履修選抜課題に取り組んでください。
今年は、以下の9つのテーマでグループワークを行う予定です。

グループワークで作成するパターン・ランゲージのテーマ一覧
(1) グループワークをよりよくするリーダーシップ
(2) SFCのFab環境の活かし方・学び方
(3) SFCでうまく「研究」生活をおくる秘訣
(4) 数足のわらじの履き方(複数のコミュニティ・活動をしっかりやり抜く)
(5) 一人暮らしで料理をしつづけるコツ
(6) 好きなことの突き詰め方
(7) 研究会のよりよい選び方
(8) 外国語の習得と活かし方
(9) よりよいノートの取り方

【課題1】上記の9つのなかから、グループワークで自分が取り組みたいと思うテーマを選び、その番号とテーマ名を明記した上で、それにまつわる自らの経験・秘訣について、書いてください。テーマを選ぶ際には、自分がそのテーマの実践に日頃から親しんでいるか、ある程度知っているということが重要になります。興味があるものが複数ある場合には、「第一希望」、「第二希望」などを、明記してください。なお、このエントリーの情報に基づいて、こちらでグループを決め、初回に発表します。

【課題2】自分が取り組むテーマ以外で、経験があり、自分が大事だと思うやり方・コツについて語ることができるテーマを、上記の9つのなかから挙げてください(該当するものすべて)。 履修選抜レポートでは、自分が語ることができるテーマの番号とテーマ名を挙げ、どのようなことが語れそうか(経験や秘訣)、ごく簡単に書いてください。ここで挙げてもらった情報を踏まえ、そのパターンをつくっているグループからインタビューを受けてもらう可能性があります。

以上、(1)と(2)を両方入れた履修選抜レポートを、PDFファイルで提出してください(WordやPagesでPDF保存・PDF出力で作成できます)。

シラバス(http://web.sfc.keio.ac.jp/~iba/sb/log/eid538.html)より
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