井庭崇のConcept Walk

新しい視点・新しい方法をつくる思索の旅

うまくいっているコラボレーションで起きること:フローとグループフロー

最近、しばらくの間、移動時間やカフェでは『臨床哲学対話 あいだの哲学 ―木村敏対談集2―』を読んでいた。木村敏さんの対談集である。

それにしてもこの豪華な顔ぶれに驚いた。野家啓一、坂部恵、中村雄二郎、新宮一成、浅田彰、柄谷行人、中井久夫、市川浩、大澤真幸、村上陽一郎。僕にとっては専門外の分野の話題が多いので、難しいところも多々あったが、勉強になるところ、面白いと思うところが、あちこちにあった。

特に、坂部恵さんとの対談で、ポイエーシスの中動相から西田幾多郎につながる話などは、胸熱であった。その部分は、やりとりが面白く、引用に適さないので、他のパートで面白かったところからひとつ取り上げたい。木村さんの発言。

「バイオインとチェロとのトリオでピアノを弾いていますと、僕自身はピアノパートの音しか出していないはずなのに、音楽が流れはじめると、元来持ち寄りであるはずのトリオの音楽が、それぞれのパートから独立した一つの生命を持ってしまって、それが主体となって一人ひとりの演奏を引っ張っていきます。そんなとき非常に不思議な錯覚が起こるんです。それは、自分が物理的にはピアノの鍵盤しか鳴らしていないのに、まるでバイオリンもチェロも合わせて弾いているのだという意識と---事態を冷静に見つめるならば---自分はピアノしか触っていないという気持ちとの二重性みたいなものが発生する。その場合には、自分のなかに個としての自分と、そこに流れている音楽全体をやっている自分との、垂直の関係が生じるんです。」(木村, p.368)


音楽を奏でるようにうまくできているコラボレーションでは、こういう感覚を僕も味わう。まるで、自分(たち)が生み出しているということをものすごく実感する。単にこれは一体感の問題ではない。全体を動かしているという確かな手応えである。人と人、音と音の間(あいだ)で起きていることが、間に還元されず、全体との二重性をもつ。この不思議な感覚は実に興味ふかいところだ。個人レベルでは、チクセントミハイがいう「フロー」状態になっており、グループレベルでは、キース・ソーヤーが「グループフロー」と呼ぶような状態になっているのだろう。

この本に書かれていたことをもう一度理解し、味わうために、もう少しこの分野のあたりを勉強してから再読したい。

『臨床哲学対話 あいだの哲学 ―木村敏対談集2―』(木村敏, 青土社, 2017)

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