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4.ネチズンの正体ーフラジャイルな個人
ネットワーク社会では、もうアイデンティティはいらない。もっと柔らかに、もっとしなやかにネットワーク環境に融合したり共振しえる個人が期待されるのだ。自立する個人を強い個と呼べば、これはあきらかに弱い個である。しかし弱いということは、強いことではない、ということではない。松岡正剛がいうように、弱いとは、ピアニシモのことだ。それは、フォルテと同じ主張なのであって、強いー弱いという上下関係ではない。
このような弱い個を、ここでは「フラジャイルな個」と呼ぶ。これがネチズンの正体なのだ。シチズンが所有する財をもとに交換する関係に入る強い個であるのにたいして、ネチズンは自分に欠落した情報を支援してもらい(ネットワークに探索する)、他のみんなに自分の情報で支援する(ネットワークに奉仕する)弱い個なのだ。つながることでしか自分の存在が確認できないし、ネットワークに融合し共振することでしか自分らしさの表現ができないことが、ネチズンの「らしさ」なのである。
フラジャイルな個人は、もはや強くて固定的な自分の境界を維持しようとはしない。ネットワークのなかで自分を見つめるから、自分は世界の隅々まで自由に拡散する。自分の境界はネットワークの世界にまで拡がりうるから、その時々で、いろいろの自分になる。自分の境界はいつも変容し、多様な顔がそこにはみえる。
ken@sfc.keio.ac.jpこそがネチズンの実体である。これが本物の新しい自分の名前である。国家の境界に保護され、親族内だけでしか差別化できない、本名という自分を証明する名前は、シチズンとしては本物の名前なのだろうけれど、ネットワーク社会での名前ではない。ネチズンはもっと柔らかでしなやかな自分である。
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