アイデアキャンプの見本が出来ました
ゴールデンウィーク明けには書店に並んでいると思います。もし見かけたら、ぜひ手にとってみて下さい!
ゴールデンウィーク明けには書店に並んでいると思います。もし見かけたら、ぜひ手にとってみて下さい!
4/28(木)に、ハーマンミラーストアの皆様のご厚意で、「アイデアキャンプ - 創造する時代の働き方」(NTT出版)の出版記念セミナー&ワークショップを開催させていただきました。
http://hermanmiller.co.jp/storetokyo/archives/date/2011/04
GW直前の夜という日程ながら、多数の方々にご参加いただきました。どうもありがとうございました。
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今日、情報化社会について考える時、われわれはともすると、コンピュータによる無駄のない効率的な社会を考えがちである。これでは社会的緊張や機械的人間が増大していくのも当然である。真に情報化社会が志向するのは、いっさいの無駄をなくすのではなく、“有効な無駄”を常にソフトにセットすることである。
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1969年に出版された、
林雄二郎 情報化社会 - ハードな社会からソフトな社会へ 講談社現代新書
の帯に書かれていることばである。
北山耕平さんの「雲のごとくリアルに 青雲編」の中で、ぐっときたところを。
● 15 「自分の生活の中に直接性を少しずつでも取り戻す」ためのマニュアル作りをはじめようではないか
(略)
十二月に書店に並んだ『宝島』の一九七五年一月号は「誌面一心大躍進号」と銘打たれていた。三十代以上向けの企画と、二十代や十代向けの企画が見事に色分けされており、それはまったくもって当時の状況—なんの?編集部の!—を見事に映し出した編集がなされていた。大特集は「シティボーイ宣言」というものだった。このコンセプトを提言したのは片岡義男さんだったが、企画をまとめるのはぼくに一任された。「どうしようもなく都市で生きなくてはならない」世代をはっきりと読者対象として絞り込む時代がきた、という認識が編集部に生まれつつあったことは間違いない。これはつまりぼくたちが新しい雑誌の読者の基盤を都市で育った人間にシフトするとはっきり認識した瞬間でもあった。
先のエントリーで触れた「全都市カタログ」に続いて別冊宝島などの編集をされた編集者・北山耕平さんのインタビュー記事。
http://www.sogotosho.daimokuroku.com/?index=intshin&date=20090828
雑誌の創刊とロックの関係がおもしろい。
1968年にアメリカで出版されたWhole Earth Catalog。先のエントリーでも触れた。
このWhole Earth Catalogをカタログという視点から解説している文章に、デザイン評論家の柏木博の「デザイン戦略―欲望はつくられる」 (講談社現代新書)があった。
電子芸術国際会議ISEA(International Symposium on Electronic Art)という学会があるが、2006年に開かれた際にその一環としてINTERACTIVE CITY Summitなるものが開催されていたようで、イベントも色々と開催されたようだhttp://www.urban-atmospheres.net/ICSummit2006/。
「スマート・モブズ」等の著者でありHotWired初代編集長であったハワード・ラインゴールドも参加している。
サイバーアーツジャパン─アルスエレクトロニカの30年に出展中の、平野啓一郎+中西泰人+森野和馬+ケンイシイのコラボレーションによる「DAWN」。
DAWNのインスタレーションの実装にはOpenCVとOpenGLを使っていますが、オープンソースのフレームワークであるopenFrameworksを使いました。
http://www.openframeworks.cc/
イヴァン イリイチ, コンヴィヴィアリティのための道具, 日本エディタースクール出版部 (1989/03)
イリイチは、「用いる各人に、おのれの想像力の結果として環境を豊かなものにする最大の機会を与える」ものをコンヴィヴィアリティのための道具と呼んだ。
「コンヴィヴィアル」には、「楽しいつどいの」という意味もあるが、「自立共生的な」と訳されることもあるこの考えは、インターネットにも流れていると言われている。自分がつくる道具ももちろん、そうありたいと考えている。
以下、抜粋。
はじめに xii
私はここで、人間と彼の道具との関係を評価するための枠組みとして役立ちうるような、人間生活の多元的均衡という概念を提出しよう。こういった均衡のそれぞれの次元において、自然な規模というものを確定することが可能だ。ある企図がこの規模の一点を超えて成長すると、まず、もともとそのためにその企図がなされた目的を裏切り、さらには急速には社会全体の脅威と化す。そういった規模が確定されねばならないし、さらにその範囲内でのみ人間の生活が存続しうるような人間の営みについての副次的変数が探求されねばならない。
はじめに xiv
しかし実際には、新しい可能性を思い浮かべるには、科学上の発見は少なくともふたつの相反する利用のしかたがあることを認識するだけでいいのだ。ひとつのやりかたは、機能の専門化と価値の制度化と権力の集中をもたらし、人々を官僚制と機械の付属物に変えてしまう。もうひとつのやりかたは、それぞれの人間の能力と管理と自発性の範囲を拡大する。そしてその範囲は、他の個人の同じ範囲での機能と自由の要求によってのみ制限されるのだ。
はじめに xv
すぐれて現代的でしかも産業に支配されていない未来社会についての理論を定式化するには、自然な規模と限界を認識することが必要だ。(中略)いったんこういう限界が認識されると、人々と道具と新しい共同性の間の三者関係をはっきりさせることが可能になる。現代の科学技術が管理する人々にではなく、政治的に相互に結びついた個人に仕えるような社会、それを私は"自立共生的(コンヴィヴィアル)"と呼びたい。
p. 19
産業主義的な生産性の正反対を明示するのに、私は自立共生(コンヴィヴィアリティ)という用語を選ぶ。私はその言葉に、各人のあいだの自立的で創造的な交わりと、各人の環境との同様の交わりを意味させ、またこの言葉に、他人と人工的環境によって強いられた需要への各人の条件反射づけられた反応とは対照的な意味をもたせようと思う。私は自立共生とは、人間的な相互依存のうちに実現された個的自由であり、またそのようなものとして固有の倫理的価値をなすものであると考える。私の信じるところでは、いかなる社会においても、自立共生(コンヴィヴィアリティ)が一定の水準以下に落ち込むにつれて、産業主義的生産性はどんなに増大したとしても、自身が社会成員間に生み出す欲求を有効にみたすことができなくなる。
p.39
自立共生的道具とは、それを用いる各人に、おのれの想像力の結果として環境をゆたかなものにする最大の機会を与える道具のことである。産業主義的な道具はそれを用いる人々に対してこういう可能性を拒み、道具の考案者たちに、彼ら以外の人々の目的や期待を決定することを許す。今日の大部分の道具は自立共生的な流儀で用いることはできない。
p.44
自立共生的な社会にとって基本的なことは、操作的な制度と中毒性のある商品およびサービスが、全く存在しないということではなくて、特定の需要(それをみたすために道具は特殊化するのだが)をつくりだすような道具と、自己実現を助ける補足的・援助的な道具とのあいだのバランスがとれていることなのである。最初にあげたような道具は、一般化された人間のために抽象的なプランにしたがって生産をおこない、あとであげたような道具は、それぞれ独自なやりかたで自分自身の目標を追求する人々の能力を高める。