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September 27, 2004
うつうつ
鬱鬱もウツウツとカタカナにしてみれば、爽やかな躍動に包まれますね。。。。いや、むしろ何か得体の知れないものが沸いてきそうかも知れない。
ついに授業開始です。とりあえず、走ってみました。
どれだけ多くの授業を回れるか。いかに効率的に多くの席を確保できるか。そんな自分は嫌いではないけど、どうも明らかに、方向性としては間違っているので、事前登録なり週に2回授業を実施したりしてください、と空へ祈ってみたり。
いくら、颯爽と走っても、行き先が間違っていたら仕方ないわけじゃん。怖いね。しかも、みんなで間違っていたら、まず間違いだなんて気付けない。なのに、立ち止まると乗り遅れる。難しいね。
とにかく明日もウツウツかも知れません。やなことは見つけていけばもう本当に、際限なくどこまでも広がっていきそうです。特に、こんな変化の時期には、ボタンを一つかけ間違えただけで心が揺れます(乙女ですね)。ただ、不安ということは、変化で、変化はチャンスには違いないので、なんとか、上手く全てが進むように、空へ祈ってみます。
どうにか明日は「ウスウス」や「ウツツツツ」くらいになるように、何とか頑張ります。インテンやめよっかな、ドイツ語。そうすれば、間違いなく、全てが晴れ渡ることは目に見えているのだけど。。。
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September 25, 2004
新学期
ついに新学期です。新楽器や心学記だったらどれほど心を休められたことでしょう。いきなり、こんなどうしようもないことを言うほど、緊張しています。
行ったら行ったで楽しいなんてことは知っています。それでも、お腹が痛くなったりするんですよ。しかも、今の僕の通学時間や通学方法や大学生という立場を鑑みると、行かなくても全然問題ないわけです。
徒歩ですぐ学校が目の前にあった小学校時代や、初日から試験があった高校時代とは違います。行かなくても何とかなるんです。しかも、大学は好きで行っていて、しかも好きなんです。だから、怖いんです。
やっぱり、変化はそれが微細なものでも、怖いですね。でも、封建時代に生きたいとは思わないので、変化は受け入れるしかないです。変わらないものなんて、何もないに決まっているから。
でもさ、変わらないものが何か一つでもあれば、それは支えになるのかな。自分や時代がどんなに変わっても、それはいつでもそこにあって、手に入るものがあれば。
。。。。。なんか、文章が精神不安定な人みたいになってしまったのでこのへんで。
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September 21, 2004
WATERBOYS2
WATER BOYS2 見ていたのだけど、すごいね、これ。
32人でシンクロしているのに、ストーリーに絡んでくるのは主役5人だけ。他は、映る頻度的にはエキストラ級。32人が同じシンクロの練習をして、拘束時間も長いだろうにこの扱い。。。なのに、サイトなどを見ると各人物に設定がそれなりにあったり。。。そんな彼らの書く日記が涙をさそいます。何かうまい27人の使い道を、来年の3が出来る前までには誰か考えてあげてください。
でも群像劇といったら30人強を扱う金八も同じだよね。確かに金八の2クールの半分だけど、それでも27人の印象が何もなさすぎる。ということは、そんな彼らに思いをはせ、枕をぬらしてしまう状況も狙って?余計、不憫です。もし、もう少し記憶力と気力があれば、27人の彼らの名前と生年月日と特技くらいは覚えたいけど、無理なのでもう忘れます。さようなら、無名のboys。
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やらなきゃならないこととやりたいこと
この頃、少し勉強してました。ちょっとした発見をしました。考えてみれば当たり前のことなのだけど、こんなことを「発見」と19にもなって喜んでいるのは、いかに自分が勉強さえしていなかったかを露呈しているようです。
「やらなきゃならないことがあるときは、やりたいことが見えてくる。やらなきゃならないことがないときは、本当にやりたいことなんてわからない。」
やらなくちゃならないことがあるときは、いくらでもやりたいことが見えてきます。このことは、とても大事なことだと発見しました。たとえば受験生の頃を思い出してください。些細なことでは「+++を見たい」「*+*+*をしたい」から、「+*+*+*+*したい」まで様様なやりたいことを抱えながら、受験が終わったら。。。と自分を鼓舞しながら頑張っていた時代がありませんでしたか?(ちなみに僕はありません)
でも、いざ受験が終わったらどうでしょう。そのやりたいと思っていた事はどうなりましたか。
日々の生活の中には、やれることがいくらでもあります。だから、ついつい面倒なやりたいことよりも、即時的にやりたいこと(主に楽なこと)に流れがちになってしまいます。目の前にはいつだっていくつもの、すぐに僕たちを楽しませてくれることがあります。自分が本当に何をしたいかなんて、わかりません。
受験勉強なんてそれほどの価値も意味もないと今でも信じているけれど、やらなきゃいけないことがある時期というのは必要なのかもしれません。受験の真の目的は、本当に自分がやりたいことを、やらなきゃならないことがある時期に、見つけるという陰謀まがいのものがあるのかも知れません。
。。。。たとえば「世界一周こそが自分の一番やりたいことだ」とか思いついたらどうするんでしょう。大学入学できてもやめるんですか?
でも大丈夫です。終わったら、そんなことはきっとすぐに忘れてしまいます。それでも大丈夫です。やらなきゃならいことは受験が終わっても自分でいくらでも設定できます。だけれども大丈夫です。どうせまたそれでさえも、その設定したゴールが終わればまた惰性に身を任せてしまうのが並みの人間です。なのに大乗うぶです。(以下繰り返し)
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September 19, 2004
本の表紙
少しだけショックなことがありました。何気なく家にある本の表紙を見回していて気が付いたのだけど、同じ人がジャケットの装飾を手がけている本がいくつもありました。
作者名でもストーリーでもなく、カバーで選んでいることがままあるのか、と感慨深いです。本屋でどの本を買うか悩んでいるときも、実際はストーリーじゃなくて表紙の印象で決めていることが多いのか、と思うと、もう本屋の長居は無意味な気さえしてきます。
今読んでいる本も、そういえば表紙が好きです。結局、本さえも中身よりも外見、と思うと何だか居た堪れなくなってくる気もしてきます。BLOGのデザイン、変えようかな。
そしてまた溢れてしまう
感情が緩やかに
外周をなぞってゆく
張り巡らせる裏返しの弱さを
強さとはもう誰も受け取らないのなら
いっそありのままの弱さを
強さと言い換えて歩いていけば
歩いていくことが出来たならば
そしてまた
降りかかる匿名の夢が
鮮やかに染め上げる
懐かしい街角で
すっかりと風の過ぎ去った
新しい景色と共に
季節が変わるようにさりげなく
色を抜いた悲しみや喜びが
すかっりと風を追い越した
笑えないまま
笑ったままの
薄汚れた寂しげな想いを
焦がすだけの記憶たちは
そしてまた緩やか過ぎるほど
穏やかな時代と共に
深く深く心をえぐってゆく
優しさが壊したこころを
繕えるものなど
どうやって探したらいいのだろう
凍えることも
逃げ出すこともなく
きっと世界はそう
続いてゆくように
そう誰もが信じてしまえるような
広さがまだこの場所には
残されている
君のような
微笑みじゃなく
朝のような
光でもなく
傷のような
遠い日じゃない
ぼやけたままでいい
何か確かだと
確からしいと
せめて明日にも胸を張って言える
ものを欲しがっていた
変わり続けることに
目をそむけたふりをして
ずっと君は
歴史を見つけて見つめていたのかな
遠い日の発見がやがて
到達と言い直されるように
こんな日の痛みも悲しみも不安さえも
楽しげな明日やあさってと共に
嬉しげな顔で振り返る日を信じてまた
空が空ける前に眠りにつこう
君のような
悲しみも
彼のような
喜びも
明日のような
切実ささえ
持ち合わせてはいないけれど
そしてまた少しでも
少しずつだからこそ
どこかに続いていく
わずかなひずみを
可能性と呼んでみよう
眠るまで数えても
少しも足りなかった場面
その描かれた空のすみに
この文字をまた
つけたしてみる
投稿者 POE : 04:13 EM | コメント (0) | トラックバック
September 18, 2004
うた
古典にはばんばん和歌が出てきて、「昔の人はすごいなあ、こんな風に日常会話に和歌を使えるなんて風流だなあ」と思っていた時期もあったのですが、よく考えれば当たり前です。
和歌を、幼児期の言葉の学習に使っていたのだから、当然自然に言えるようになるわけです。そして、自分で和歌を作るときもそれはかなりのアドバンテージになります。
今の人にもおなじようなものがないかな、と探したらありました。歌です。一時期の影響力はないカラオケですが、100曲くらい歌えるという人も珍しくはないと思います。1曲あたりの文字数は、だいたい400文字以上ですから、40000文字を覚えている計算になります。勿論、歌詞を見ないと歌えない、という曲もあるだろうけれど、それでもリズムや音程を覚えているわけで、この量というのは、相当なものだと思います。
そして、僕の言葉のセンスも、歌詞に依存していることが多いです。今でも、かっこいいと思う言葉、の基礎になっているのは昔聞いた歌の歌詞なのです。それも、今は口に出すと少し恥ずかしい小室哲也の歌詞です。
誰が何と言おうと、あの歌詞たちがセンスの基になってしまっている以上、たとえば「だよね」という語尾や「それでもなぜかいつか」のような音合わせのためとしか思えない意味のない接続の仕方、「少し気分とりにってくる」という順序の違う日本語、「いつからか」のような曖昧、をかっこいいと思ってしまうのです。
投稿者 POE : 07:21 EM | コメント (0) | トラックバック
September 17, 2004
マッキンリー尾瀬
時々、口にしてみたくなる言葉ってありませんか。
今、無性に「遥かな尾瀬」や「魔女が丘」、「ガトウショコラ」「マッキンリー」と口に出したくてたまりません。声に出してみます。(よろしかったらご一緒に)
★口に出してみた結果★
「遥かな尾瀬」 遥かなは余計だった気がします。尾瀬だけで満足でした。
「魔女が丘」 思ったよりも普通でした。つまらない。欲求不満です。
「ガトウショコラ」 濁音も三つ目なので、何の感慨もなかったです。
「マッキンリー」 濁音のあとに、撥音はいくばくかの躍動感を感じられて、思いのほか良かったです。
と、こんなことを書いているうちに、書いただけ書いた「感慨」「躍動」を声に出してみたくなりましたが、実際に出してみて「あれ、何か違う。僕の思っている感慨や躍動は。。。」ということになったらいやなので、やめておきます。
投稿者 POE : 01:08 EM | コメント (0) | トラックバック
September 15, 2004
読書
今読んでいる本。
川の名前
夏休みの話なので、8月中には読みたかったのだけど。。。
グランバカンス
夏の話なので、8月中には読みたかったのだけど。。。
「非行少年」の消滅
面白い。少年犯罪のわからなさがわかった気になります。
希望
上の本と一緒に読んだので、この小説の奇怪っぷりがより鮮明に。っていうか、この本、すごいよ。作者が真面目に書いているのか、ギャグとして書いているのかわからない。
美少年の元連続老人殺人犯、病んだ美女のカウンセラー、ダンディーな刑事、被害者の孫3人、「よくできました」殺人事件。。。。。でもコントじゃないです。
city of ember
ファンタジーも英語でなら読めそうな気がしてしまいます。
「読書国民」の誕生
太陽系の果てを探る
投稿者 POE : 10:20 FM | コメント (0) | トラックバック
September 11, 2004
ヴァーチャルキーボード
http://www.tanomi.com/limited/html/00034.html
もしかしたらもう有名なのかも知れないけど。でも。メリットは?かっこよさ?奇抜さ?エキセントリック?シュール?あ、いいかも。
投稿者 POE : 10:32 FM | コメント (2) | トラックバック
September 10, 2004
ワープ
ワープが怖いです。もしワープが電話やファックスのようなものだとしたら、物凄く怖いものです。
たとえば、電話はこちら側の声を、一旦電子的な信号に置き換えて、相手側でその信号をまた声というかたちに復活させる。詳しいことは知らないけど、きっとそんな感じです。つまり、こちら側の声が、そのまま相手に届いているわけじゃない。飛び交う電波に乗せられているのは、この喉から出る声の波ではなくて、数値に置き換えられたデータです。声が移動しているわけではなく、声が復活しているということです。
ワープが発明されたとして、もしそのようなものだったら、どうしますか。確かに遠くの場所へ一瞬で、物体が移動したように見えるでしょう。学校やリゾートへ一瞬で行けて便利でしょう。でも、それは物体を記号的に置き換えて、移動先で復活させているだけだったら。。。
「エジプトに行きたい」と思った移動前のAさんが、数値に変換され、そのままの状態でエジプトで再現される。当然、このエジプトで再現されたAさんは「エジプトに行きたい」と思っていた移動前のAさんそのままの状態だから、記憶の断絶等もなく、「いやあ、エジプトまで一瞬で来れるなんて、すごい時代になったものだなあ」と嬉しいことばかりでしょう。
問題は移動前のAさんです。一体、移動前のAさんはどこに行ってしまうのでしょうか。考えてみれば、FAXもこちら側の紙は基本的に、ごみ箱に捨てていました。移動前のAさんは捨てられて、消滅させられてしまうのでしょうか。
細胞的に見れば、ぼくたちの体は数十日で、何もかもが新しい状態になっています。それでも、夜眠る前と、起きた時、監視カメラもなく、自分を自分だと信じることが出来ます。それは、自分を自分だと思うのは、記憶があるからです。
その意味で、エジプトにいるAさんは、Aさんと言っていいのかも知れませんが、ていうかもうよくわかりません。でも、モノを一瞬で送るということが、そういうことだとしたら、何だか少しどきどきします。
投稿者 POE : 11:45 FM | コメント (0) | トラックバック
September 09, 2004
小論文
いまだに小論文が怖いです。小論文という単語をそこかしこで耳にするたびに、思わずからだが震え臨戦体制に入りそうになるかといえば、そこまでじゃありません。ただ、ゴルフ場の雷くらいには怖いです。
最近の大学入試で増えてきた小論文。その傾向には賛成です。いくら非人間的なマークテストのほうが公平だからといって、それだけだと肝心なものを起き忘れている気がするからです。国語の文章問題のように、ことばの力を4択や15文字以内で作者の見解をまとめよといったことで計ろうとするよりは、よほどマシだと思います。
ただ、実際問題として、小論文が国語のテストの代替を成す以上、そこには目に見える形での優劣が発生せざるを得ません。テスト自体が質的で人間的でも、その処理は量的な秤にかけられるということです。つまり、模範回答がやはり想定されうるわけです。
いや、むしろテストが質的で人間的というのも、いくつかの参考書や添削を見る限り、あやまった考え方だそうです。「小論文はあなたの考え方を聞いているのではない。論理の組み立て方を問われているだけだ」。冒頭に書いた怖さ、というのは、参考書や添削による、小論文指導が介在しうる、点数化されてしまう小論文ということです。
暇つぶしとボケ防止に文章を書くくらいだから、文章を書くのは嫌いではないです。ただ、小論文は怖かったです。正確に言えば、書くのは好きだけれども、結果や小論文的評価を想定しながら書くのは気持ちが悪かったです。好きだけれど、人前ではつけられないドラえもんストラップのようなものでしょうか。
たとえば「記憶について書け」というような問いをあてがわれれば、言いたいことくらいたくさん浮かんできます。でも、それを論理的に言え、となると思わず怯んでしまいます。小説を論理的に解釈せよと厳命されてしまう国語の文章問題と同じようなものではないか、と思ってしまうのです。
ことばの力は論理力だけではないと、信じます。そうじゃないと困ります。負けます。ただ、論理は辛うじてテストとして査定できても、その先の文の巧みさや表現の言い当て妙さは、だんだん感覚の世界に近付いてしまいます。いま、ことばのリアリティーの喪失が、現実味を帯びてきたなか、本当にこの小論文でいいのか、この指導方法でいいのか、どうなのでしょう。
とまあ、ここまで書いてきて、別に結論なんてないです。こんなんだから、小論文でいっつも点数が激増・激減の波を繰り返していたんでしょうか。なにかを主張しようとすると、いつもうまく言えません。ただそれでも、論文指導的な講座みたいなものを読んだり、参加するのは怖くて出来ません。
+
この文章を読み返してみても、やっぱり小論文は苦手だと再確認した。ひどいね、展開が。論理ないまま、どこまで行けるんだろう。小さい論理、小さい論理、みーつけた。
投稿者 POE : 12:03 EM | コメント (0) | トラックバック
September 07, 2004
成績
またストレートAを取り損ねました。今学期は、あんなにネタになるくらい成績を気にしていたのに。。。
しかも、Bだった科目は4単位の汎用科目。。。どこで足を掬われるかわかりません。文句を言おうかどうか迷ってみます。
投稿者 POE : 02:17 EM | コメント (0) | トラックバック
苦月、重月
苦月、重月と苦しく重い季節になりますが、みなさま如何お過ごしでしょうか。
今月ついに大学生にも新学期の波が押し寄せます。といっても、今月末からということなので、本当に重いのは来月のことでしょうか。まあ、㈹学生というくらいで、本当はそんな苦しいものも重いものもなく、気楽なので大丈夫です。
この糊はなんなのでしょうか。べたべたしますね。
投稿者 POE : 09:42 FM | コメント (0) | トラックバック
September 05, 2004
やりのこし
なんだか3年前の予定や、5年前のメモが机の上に当たり前に転がっている。中学校時の教科書がまだ普通に本だなに入っていて、小学校のときに描いた絵がまだ手の届く位置にある。
そしてこの部屋を離れる日がない限り、もしあったとしても、あと何年もそういうものが残っていく気がするし、今日書いた何かも残っていく気がする。
こんなふうに、変わらないものを多く、とても多く抱えて、なんとなく生きていく、と思うと少し意外な感じがする。きっと死ぬまで出来ないでやり残すことはあまりにも多くて、それさえも忘れて生きてくのっていう感慨。
まあ、死ぬまで部屋の整理をしないというわけではないけれど。そして、別にこの部屋が汚いというわけでもないけれど。
投稿者 POE : 02:51 EM | コメント (0) | トラックバック
September 02, 2004
工作と医者
医大や歯科大の試験に工作がないことが時々心をかきむしる。
手術をする外科医や、歯を削る歯科医に手先の器用さは必須だと思う。学会で発表されるような高等な知識よりも、病院で手術を担当する医者に必要なのは、いかに手先が器用でつつがなく手術が出来るかに決まっている。
たとえば僕は、はさみで紙をまっすぐには切れない。カッターや定規を駆使しても、何かを直線的に切り取ることはほぼ不可能だ。でも、こんな人間でも、物理的には医者や歯科医になれるという可能性は残されている。なぜなら医学部の試験には工作能力を試すものがないからだ。
早稲田の建築学部には、美大よろしくデッサンのテストがある。一見、理系にデッサンが不似合いな気もするけれど、実際の建築士に求められているものは、建築と関係ない分野の数学や物理よりも、デッサン能力だったりすることが多い。
同じように、手術する医者が、家庭科の不得意で図工もてんでだめな人間だったら、どうしましょう。入試で生物を選択せずに医者になってしまう人が多い、と問題になって久しいけれど、生物よりも工作能力のほうが大事に思えてならない。
またいっそ、美大に手術専門科をつくり、手術だけにその手腕を発揮する人たちの集団を要請してみてはどうだろうか。日本から、少しでも発覚さえしない医療事故や、予防接種で泣く子の数が減る気がする。
投稿者 POE : 01:42 EM | コメント (0) | トラックバック
September 01, 2004
地球は回っていますけれど。
6割の小学生高学年が「太陽は地球の周りを回っている」と思っていたという調査。
でも、別にこれも間違いではない気がする。太陽は、地球の周りを回っているでしょ?ここは地球だよ。地球から見れば、太陽は回っている。
それはまるで、地図の中心が自分の国だと信じて疑わない大人と大差がない気がする。旅行に行って海外の地図を見て、日本が中心にないことを知って驚く人が、いまだに少なくないらしい。
だから、この「太陽は地球の周りを回っている」という問題を、理科教育に押し付けるのは違う気がする。勿論、そこに生きた誰かが介在する世界地図のはなしと、無生物の太陽を同じ天秤にはかけられない。
でも「太陽も銀河の中心を軸に回っている」という事実を知らないで「地球が回っていることも知らないの?太陽は動いてないんだぜ」と、中途半端な知識を子供に誇示する大人を想像すると少し哀しくなる。
別に地球が回っていることも、太陽が回っていることも、銀河もまた回っていることも、公転は全て相対的な問題だ。自転とは違う。何かが何かを回っているなんて、当事者抜きに語れる話じゃない。
って、話が回りすぎて、もうついていけません。
追伸
なんで、むしろ、昨日西に沈んだ太陽と、今日東から昇ってきた太陽が同じものだとはわかるんだろう。太陽が西に沈んでから後の情事を、直接見たわけでもないのに。
同じ調査によると、半数の子供が夜明けと日没を見たことがないそうです。となると、なおさらなんで「太陽が回っている」とわかるんだろう。不思議です。だって、太陽なんて気づけば背景にあるものじゃん。動いたかとか、わかるの?