パターン・ランゲージは、現状を肯定しながら少しずつ成長することを支援する
パターン・ランゲージはマニュアルやハウツー本とどう違うのか、という質問をよく受けた。最近はあまり聞かれなくなってきたけれども、4、5年前はむしろこの質問しか来なかった。この質問には実はなかなかうまく答えられなかったのだけれども、最近、ようやく納得できる説明ができるようになってきた。
僕らがパターン・ランゲージで目指しているのは、「これをこの手順でやるべし」というひとつの大きな枠にはめ込むことではなく、「いまの自分のやり方をベースとしながら少しずつ拡張・成長していくことの手助け」をすることだ。たくさんのパターンを含むパターン・ランゲージを前にしたときに、すべてのパターンを実践しなければならないという強迫観念を持たないようにしてほしいと思っている。
パターンは、こうしなければならないというルールではなく、いまの自分らしいやり方を少しずつ拡張していくためのヒントだからだ。「大きな枠にはめ込んで自分を変える」のではなく、「自分を広げるために小さなヒントを取り入れていく」 ―― このニュアンスの違いを理解することが、パターン・ランゲージの意義を理解するためにには重要なのだ。だからこそ、抽象的な記述をするときによくあるような「少数の原則」や「大きなモデル」で提示するのではなく、「小さな単位の集合(ゆるやかにつながった体系)」でパターン・ランゲージはまとめられているのだ。現状を肯定しながら少しずつ成長・拡張することを支援するのにはこの方法しかない。
これとも関係するが、その小さな単位にすべて「名前」がついていて、それらが共通言語になることが目指されているということが、パターン・ランゲージの大きな特徴である。つまり、各パターンは単にコツを記述・共有するためではなく、名前をつけて「ことば」として扱えるようにすることに本質がある。個々のパターン・ランゲージで目指している「いきいきとした全体」は、本来不可分なもの。それを要素分解して理解すると全体性は失われてしまう。なので、分解するのではなく、そのまま生け捕り、いろんな側面から読み解くための「ことば」をつくる。これがパターン・ランゲージをつくるということ。
パターン・ランゲージは「ことば」であり、対象そのものではない。つまり、その「ことば」で記述したい対象=「いきいきとした全体」そのものではない。このことをごちゃまぜにして考えてしまうと、ことばで記述されたものをすべて組み合わせると「全体」をつくれると考えがちだが、それは間違いだ。
クリストファー・アレグザンダーは、いきいきとした全体を言葉で説明することはできないから、それを「名づけ得ぬ質」(Quality Without A Name: QWAN)ととりあえず呼ぶことにした。パターンは「名づけ得ぬ質」そのものの「部分」ではない。パターンは、その質を指し示す記号に過ぎない。だから、パターン・ランゲージのパターンをいくら集めても、「いきいきとした全体」そのものにはならないのだ。パターンは、あくまでも「いきいきとした全体」にはどのような側面があるのか、という読み解き方/光の当て方にすぎない。パターン・ランゲージの意義は、「いきいきとした全体」を捉えるための手段がこれまでなく、それゆえコミュニケーションの俎上に載せることができなかった限界を克服し、それを可能にしたことだ。
最近、僕らがパターンを書くときには、そのパターンが対象をうまく「記述」できているかだけでなく、そのパターンが「生成的」(generative)であるかを気にするようになった。今回のPLoP(パターン・ランゲージの国際学会)におけるRichard Gabriel や Jenny Quillienたちのアドバイスもその点だった。パターンが生成的(generative)であるというのは、ただの「記述」でしかないパターンが、その「いきいきとした全体」を生み出す/復元することができる力をもっているということだ。ただの記述では何も生じないが、生成力がある記述は、実際の生成につながりやすい。それでは、どうすればパターンが生成的(generative)になるのかと問われると、それはまだよくわかっていない、というのが現状だと思う。それを僕らも探究しているし、今後もつくりながら/教えながら、模索していくことになる。
パターン・ランゲージの考え方って、全体を要素還元せずにそのまま理解しようとする「複雑系」や、「つくって理解する」という「構成的アプローチ」、社会をシステムとしてまるごと捉えようとするオートポイエーシスの「社会システム理論
」などと近いと思いませんか? そのような類似性・同型性が、僕や井庭研がそれらの分野からパターン・ランゲージの分野へと行き着いた背景にあるのです。
僕らがパターン・ランゲージで目指しているのは、「これをこの手順でやるべし」というひとつの大きな枠にはめ込むことではなく、「いまの自分のやり方をベースとしながら少しずつ拡張・成長していくことの手助け」をすることだ。たくさんのパターンを含むパターン・ランゲージを前にしたときに、すべてのパターンを実践しなければならないという強迫観念を持たないようにしてほしいと思っている。
パターンは、こうしなければならないというルールではなく、いまの自分らしいやり方を少しずつ拡張していくためのヒントだからだ。「大きな枠にはめ込んで自分を変える」のではなく、「自分を広げるために小さなヒントを取り入れていく」 ―― このニュアンスの違いを理解することが、パターン・ランゲージの意義を理解するためにには重要なのだ。だからこそ、抽象的な記述をするときによくあるような「少数の原則」や「大きなモデル」で提示するのではなく、「小さな単位の集合(ゆるやかにつながった体系)」でパターン・ランゲージはまとめられているのだ。現状を肯定しながら少しずつ成長・拡張することを支援するのにはこの方法しかない。
これとも関係するが、その小さな単位にすべて「名前」がついていて、それらが共通言語になることが目指されているということが、パターン・ランゲージの大きな特徴である。つまり、各パターンは単にコツを記述・共有するためではなく、名前をつけて「ことば」として扱えるようにすることに本質がある。個々のパターン・ランゲージで目指している「いきいきとした全体」は、本来不可分なもの。それを要素分解して理解すると全体性は失われてしまう。なので、分解するのではなく、そのまま生け捕り、いろんな側面から読み解くための「ことば」をつくる。これがパターン・ランゲージをつくるということ。
パターン・ランゲージは「ことば」であり、対象そのものではない。つまり、その「ことば」で記述したい対象=「いきいきとした全体」そのものではない。このことをごちゃまぜにして考えてしまうと、ことばで記述されたものをすべて組み合わせると「全体」をつくれると考えがちだが、それは間違いだ。
クリストファー・アレグザンダーは、いきいきとした全体を言葉で説明することはできないから、それを「名づけ得ぬ質」(Quality Without A Name: QWAN)ととりあえず呼ぶことにした。パターンは「名づけ得ぬ質」そのものの「部分」ではない。パターンは、その質を指し示す記号に過ぎない。だから、パターン・ランゲージのパターンをいくら集めても、「いきいきとした全体」そのものにはならないのだ。パターンは、あくまでも「いきいきとした全体」にはどのような側面があるのか、という読み解き方/光の当て方にすぎない。パターン・ランゲージの意義は、「いきいきとした全体」を捉えるための手段がこれまでなく、それゆえコミュニケーションの俎上に載せることができなかった限界を克服し、それを可能にしたことだ。
最近、僕らがパターンを書くときには、そのパターンが対象をうまく「記述」できているかだけでなく、そのパターンが「生成的」(generative)であるかを気にするようになった。今回のPLoP(パターン・ランゲージの国際学会)におけるRichard Gabriel や Jenny Quillienたちのアドバイスもその点だった。パターンが生成的(generative)であるというのは、ただの「記述」でしかないパターンが、その「いきいきとした全体」を生み出す/復元することができる力をもっているということだ。ただの記述では何も生じないが、生成力がある記述は、実際の生成につながりやすい。それでは、どうすればパターンが生成的(generative)になるのかと問われると、それはまだよくわかっていない、というのが現状だと思う。それを僕らも探究しているし、今後もつくりながら/教えながら、模索していくことになる。
パターン・ランゲージの考え方って、全体を要素還元せずにそのまま理解しようとする「複雑系」や、「つくって理解する」という「構成的アプローチ」、社会をシステムとしてまるごと捉えようとするオートポイエーシスの「社会システム理論
」などと近いと思いませんか? そのような類似性・同型性が、僕や井庭研がそれらの分野からパターン・ランゲージの分野へと行き着いた背景にあるのです。
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