井庭崇のConcept Walk

新しい視点・新しい方法をつくる思索の旅

Creative Reading:『知的生産の技術』(梅棹忠夫)

最近「パターンの種」をカードに手書きで書くことにしたので、梅棹忠夫の『知的生産の技術』を読み直してた。

いま、「読み直して」と書いたが、ずいぶん前から持ってはいたが(しかも間違って何回か買ってしまった)、実はあまりきちんと読んでいなかったようだ。おそらく読むときのこちらの視点が定まらなかったために、面白く読めなかったのだろう。

今回は、自分のパターン・ランゲージのつくり方(特にカードの話)と重ねて読んだので、かなり面白く読むことができた。

まずなんといっても、この本を再読してもっとも興味深かったのは、ノート(のちにカード)に何を書くのかという部分である。僕も20年近く小さなノート(メモ帳)を持ち歩き、ことあるごとにメモをとってきたが、本書で明言されているのは、そのときどきの「発見」を「文章」として書くということであった。

わたしたちが「手帳」に書いたのは、「発見」である。まいにちの経験のなかで、なにかの意味で、これはおもしろいとおもった現象を記述するのである。あるいは、自分の着想を記録するのである。(p.25)

心おぼえのために、みじかい単語やフレーズをかいておくというのではなく、ちゃんとした文章でかくのである。(p.25)

「発見の手帳」の原理は、・・・なにごとも、徹底的に文章にして、かいてしまうのである。(p.26)


文章にするのは、実際問題、結構難しいのではないだろうか。それはどのように実践しているのだろうか。

「発見」には、一種特別の発見感覚がともなっているものである。・・・「発見」は、できることなら即刻その場で文章にしてしまう。もし、できない場合には、その文章の「みだし」だけでも、その場でかく。あとで時間をみつけて、その内容を肉づけして、文章を完成する。みだしだけかいて、何日もおいておくと、「発見」は色あせて、しおれてしまうものである。「発見」には、いつでも多少とも感動がともなっているものだ。その感動がさめやらぬうちに、文章にしてしまわなければ、永久にかけなくなってしまうものである。(p29)


まず「発見」に特化するというのは、とてもよい。持ち歩いているノートには、僕はいつもいろんなもの(発見も含む)を書いているので、ここは違った点。あと、文章ではなく、フレーズや図などでかなり適当なメモを取っていた。実際に今後、僕がノートに文章で書くのかは別として、こういう実践をしていたのだ、ということが興味深い。

「発見の手帳」をたゆまずつづけたことは、観察を正確にし、思考を精密にするうえに、ひじょうによい訓練法であったと、あたしはおもっている。(p.27)


このことは、いまでいうならば、文章でなくても、スケッチでも図示でもよいだろう。とにかく、発見を自分なりの表現で書いていくということである。そして、ここから、ノートではなくカードに書くということに発展した、という話が出てくる。

じっさいをいうと、わたしはいまでは、ここにしるしたとおりの形の「発見の手帳」は、もうつかっていない。いまでは、その機能をカードで代行させているからである。「発見の手帳」における一ページ一項目の原則とか、索引つくりによる整理などの方法が、そのまま進展してカード・システムにつながったのである。(p.32)

「発見の手帳」も、ずっとまえからカードにかわっているので、いまでは、「発見のカード」というべきであったかもしれない。(p.37)


京大型カードは、12.8cm×18.2cmのB6判である。たしかに発見を文章として書くには、そのくらいのサイズがよいかもしれない。僕はパターンの種をメモする目的なので、A6判にしているけれども(A6判のメリットは、パソコンで作成したカードをA4に4カード分印刷して裁断すれば、同じサイズにできるということである)。

ということで、カードの話になると、僕が「パターンの種」をカードに文章で書いているのは、まさにこの「発見のカード」そのものだと気づいた。僕はこれを読んで始めたわけではないので、40年ほど前にすでに梅棹忠夫が実践していたのだと知り、心強く思った。しかも、40年前どころか、もっと昔にそういうことをやっていた人がいるらしい。

カードを「発見の手帳」ふうにつかった元祖は、新井白石であるらしい。この一八世紀の文化人は、ふところにいつでもカードの束をしのばせていて、何かをおもいつくと、すぐにかきつけた。カードはもちろん和紙であり、かく道具はもちろんん矢立だけれど、原理的には今とまったくおなじである。(p.47)


このような発見のカードは、分類して貯蔵することが目的ではない。それを用いて知的生産を行うためにある。カードは知的生産の道具なのである。

カードの操作のなかで、いちばん重要なことは、くみかえ操作である。知識と知識とを、いろいろにくみかえてみる。あるいはならべかえてみる。そうするとしばしば、一見なんの関係もないようにみえるカードとカードのあいだに、おもいもかけぬ関連が存在することに気がつくものである。そのときには、すぐにその発見もカード化しよう。そのうちにまた、おなじ材料からでも、くみかえによって、さらにあたらしい発見がもたらされる。これは、知識の単なる集積作業ではない。それは一種の知的創造作業なのである。カードは、蓄積の装置というよりはむしろ、創造の装置なのだ。(p.58)


カードを「創造の装置」として使う。そうそう、まさにこれだ。「パターンの種」を書いたものを、後にKJ法でまとめていくので、そういうことのために使うのである。僕のパターン・ランゲージの作成では、パターンの種を、もともとは手書きで付箋(ポストイット)に書いていたものを、パソコンでA6(A4を4分割)で書くようになり、そして、同じA6サイズの手書きのカードに書くことにした。どの場合も、パターンの種をパターンへと昇華させるために創造的に使うためのものだ。

本書のなかには、知的生産の道具としてのカードに対して、反感や不信感があったという話が書かれている。それに対する考えは、道具一般に言えることであるので、当然、創造・実践の道具としてのパターン・ランゲージにもそのまま言える。

道具はしょせん道具である。道具はつかうものであって、道具につかわれてはつまらない。道具をつかいこなすためには、その道具の構造や性能をよくわきまえて、ちょうど適合する場面でそれをつかわなければならない。どんな場面でもそれをつかえる万能の道具というものはない。また、道具というものは、つかいかたに習熟しなければ効果がない。道具の形をみただけで、ばかにすることもないのである。おそろしく簡素な形の道具でも、つかいなれればまことに役にたつ。(p.62)


これは、道具としてのパターン・ランゲージにも言えるだろう。パターン・ランゲージはしょせん道具である。パターン・ランゲージはつかうものであって、パターン・ランゲージにつかわれてはつまらない、と。そして、そのためには、パターン・ランゲージをどのように使えばよいのかを習熟する必要がある。そして、実は、ここにまた熟達の領域があるのであり、パターン・ランゲージを使いこなすためのパターン・ランゲージというものが再帰的に登場することになる。

本書『知的生産の技術』には、冒頭に以下のようなくだりがある。

学校では、ものごとをおしえすぎるといった。それとまったく矛盾するようだが、いっぽうでは、学校というものは、ひどく「おしえおしみ」をするところでもある。ある点では、ほんとうにおしえてもらいたいことを、ちっともおしえてくれないのである。どういうことをおしえすぎて、どういう点をおしえおしみするか。かんたんにいえば、知識はおしえるけれど、知識の獲得のしかたは、あまりおしえてくれないのである。(p.2)


これはその通りであり、だからこそ、僕らは学びのパターンを共有するための「ラーニング・パターン」をつくった。そして、もっと広く捉えると、人間行為のパターン・ランゲージ(パターン・ランゲージ3.0)というのは、本書でいうような「知的生産の技術」を共有するための方法であると言うこともできる。

そして、梅棹は言う。

この本は、いわゆるハウ・ツーものではない。この本をよんで、たちまち知的生産の技術がマスターできる、などとかんがえてもらっては、こまる。研究のしかたや、勉強のコツがかいてある、とおもわれてもこまる。そういうことは、自分でかんがえてください。この本の役わりは、議論のタネをまいて、刺戟剤を提供するだけである。(p.20)

知的生産の技術について、いちばん【かんじん】な点はなにかといえば、おそらくは、それについて、いろいろとかんがえてみること、そして、それを実行してみることだろう。たえざる自己変革と自己訓練が必要なのである。(p.20)


パターン・ランゲージも読んだだけでそれをマスターしたことにはならない。そのパターンをどうしたら自分で実践できるのかを考え、それを実際に試し、そこから学び、自分なりにチューニングしていく。そういうことが不可欠である。パターン・ランゲージの使い方にも秘訣があり、習熟が必要となるのである。

そうなると、先に引用した「知識はおしえるけれど、知識の獲得のしかたは、あまりおしえてくれない」という話は、そこで話を終えることはできないということに気づく。「知識の獲得のしかたをどのように獲得するのか」という問題は未解決のままだからだ。そのとき「自己変革と自己訓練が必要」だというのは正しいが、本当は、話をそこで終わることはできないだろう。ここは、僕らに残された宿題だと感じる。

その宿題は、僕はパターン・ランゲージでいけるのではないかと思っている。パターン・ランゲージ(3.0=人間行為)は、「知識の獲得のしかたをどのように獲得するのか」ということもまたパターン・ランゲージで記述・支援することによって、学習の階層を超えて機能する可能性がある。グレゴリー・ベイトソンの学習I、学習II、学習IIIのどのレベルでも、パターン・ランゲージ(3.0)は対象とし得る。そこに、パターン・ランゲージが、従来の(個別レベルを想定した)方法論とは違うポテンシャルをもっているのだと、僕には感じられるのである。このあたりは、今後もっと詰めて考えていきたい。


最後に、本書の「読書」の章に「創造的読書」ということが書かれていた。僕がこれまで、本から刺激を受けて新しい発見や発想にむすびつけていく読み方を、井庭研流の「Creative 〜」のひとつとして「Creative Reading(創造的読書)」と読んできたが(まさにこのブログのカテゴリーがそうであるように)、ここにすでに書かれていた。40年前にすでに書かれていたとは!この本のすごさを改めて実感した瞬間であった。

読書においてだいじなのは、著者の思想を正確に理解するとともに、それによって自分の思想を開発し、育成することなのだ。・・・本の著者に対しては、ややすまないような気もするが、こういうやりかたは、いわば本をダシにして、自分のかってなかんがえを開発し、そだててゆくというやりかたである。・・・このやりかたなら、読書はひとつの創造的行為となる。著者との関係でいえば、追随的読書あるいは批判的読書に対して、これは創造的読書とよんではいけないだろうか。(p.114-115)


今後も、このようなCreative Reading = 創造的読書を続けていきたい。
そして、40年前には発想・実践されていなかった新しい方法で、「知的生産の技術」をアップデートしたい。そう思い、お気に入りの1冊になった。


Chiteki.jpg『知的生産の技術』(梅棹忠夫, 岩波新書, 岩波書店, 1969)
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