井庭崇のConcept Walk

新しい視点・新しい方法をつくる思索の旅

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Creative Reading:『レイモンド・カーヴァー:作家としての人生』

今、この本に出会えてよかった。『レイモンド・カーヴァー:作家としての人生』という本のことである。

Carver.jpg『レイモンド・カーヴァー:作家としての人生』(キャロル・スクレナカ, 中央公論新社, 2013)
Carol Sklenicka, "RAYMOND CARVER: A Writer's Life," Reprint edition, Scribner, 2010


本書は小説家レイモンド・カーヴァーの評伝である。巻末には、レイモンド・カーヴァーの本を翻訳してきた村上春樹が解説を寄せている。村上春樹はカーヴァーのことを「疑いなく、僕にとってもっとも価値ある教師であり、最高の文学的同志である」(p.627)と述べている。「その翻訳作業は小説家としての僕にとっても、得がたい勉強になった」(p.729)という。村上春樹は三十五歳のとき(『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を書く直前)に、カーヴァーのもとを訪れている。そのエピソードも本編のなかで紹介されている。

村上春樹の解説部分もすごくよいのだが、それについては後で触れるとして、まずは本編のなかで気になった部分を取り上げていきたい。


まず、個人的に興味深かったのは、創作のための「ライターズ・ワークショップ」についての記述があったことだ。パターン・ランゲージの国際学会では、書いてきたパターン(の論文)をみんなでコメントし合う「ライターズ・ワークショップ」が行われている。このライターズ・ワークショプという仕組みは、約20年前に、ソフトウェア・パターンのカンファレンスを実施するにあたり、ソフトウェア・エンジニアであり詩人でもある Richard Gabrielが創作分野から取り入れ、導入したものだ。以来、ソフトウェア・パターンの国際学会PLoPでは、毎年行われてきた。「行われている」というよりも、それがメインのアクティビティとなっている。

PLoPにおけるライターズ・ワークショップは、ポジティブで建設的なコメントをし合うという場である。特徴的なのは、著者は何も話してはならず、その場では沈黙しなければならない。モデレーターのゆるやかな進行のなかで、著者以外の参加者たちがそのパターンや論文をよりよくするために考え、話し合う。著者はそれを聞きながら、誤解されていることも含めて受け入れなければならない。というのは、その誤解を生んだのは、自分の書いた文章だからである。その誤解が生まれる状況を目の当たりにすることで、著者はその部分を書き直さなければならないということを知るのである。

おそらく、このことは、フリーカルチャーやオープンソース文化が生まれるようなソフトウェア分野の土壌に合っていた。フラットでフランクに語り合い、お互いに相手のためにコメントし合うというよい雰囲気がある。これが、20年間、PLoPで行われてきたタイプのライターズ・ワークショプである。

これに対して、昨年、Richard Gabrielが、「20年経ったことだし、そろそろ違うやり方も試してみてよい頃だと思う」と言い、違うタイプのライターズ・ワークショップをやり始めた(僕はそのワークショップの参加者だった)。違うタイプといっても、別の新しいやり方というわけではなく、創作の分野で行われてきたやり方により近いやり方である。それは、教師が、学生たちに学んでほしいことを抱きながら、学生たちの作品を使ってみんなで議論するというものである。これまでのモデレーターは(原則的には)より中立的で、参加者とかなりフラットな関係があった。これに対し、Richardが創作分野でもともとやられていたワークショップとして始めたものは、モデレーターがかなり議論の流れをつくり、参加者がこの論文やパターンで考え・議論することの水路付けを行う。必要に応じて著者も質問を受けたり、意見を述べたり、一緒に議論したりする。終わってみると、フラット型のライターズ・ワークショップよりも、深い議論ができ、著者としても参加者としても得るものも多かった。

ちょうど昨年のPLoP2014で、そのようなライターズ・ワークショップの体験をしたばかりだったので、カーヴァーの評伝のなかに彼が参加したライターズ・ワークショップの話が出てきて、思わず「わお!」とうれしくなった。やはり、創作の世界のライターズ・ワークショップはそれを担当する教員(作家)の色がかなり強く出るようで、参加者(作家の卵たち)にかなり恐れられている場だったようだ。

伝説的だというアイオワシティのライターズ・ワークショップについての記述を少し見てみよう。


カーヴァーがライターズ・ワークショップについて知っていたことは、教師たちから聞いたことのほかは、高級雑誌から得た知識だけで、その雑誌のほとんどに地元アイオワの出身でワークショップのディレクターを務めていた詩人ポール・エングルの写真が載っていた。このような記事には、「学識のある者たちのあいだでは、豚だけでなく、詩もまたアイオワの名物として知られるようになった」というようなキャッチフレーズが書かれていた。また、「アメリカの選りすぐりの作家を輩出」というフレーズもよく見られた。一九六七年七月の「エスクァイア」誌は、「アメリカ文学界の組織図」を掲載した。そこには、かつてアイオワの学生や教授だった四十二人の名が記されていたが、これはリストに挙げられた名前の三分の一を占めていた。またべつの記事は、ワークショップに参加するための必要条件は「才能」である、と簡潔に説明していた。(p.134)

毎年、百人以上の学生を世界中から引き寄せたワークショップの魅力とは、エングルによれば、それが「ハリウッドとニューヨークの中間に位置する選択肢であり<中略>そこでは、作家は自分自身で立ち向かい、それと同時に、ほかの大勢の者と自分の能力を比較できる」ことだった。一九六一年時点では、少なくとも六十作以上の重要なフィクションの作品が、それまでの二十五年間でワークショップ出身の作家によって出版されていた。(p.135)

カーヴァーがアイオワに来たとき、ワークショップは成長期にあり、アイオワの卒業生が開設する創作講座が全国で花開こうとしていた。(p.139)

当時の様子が想像できる。しかし、華々しい実績の背後には厳しい面もある。

アイオワで教鞭を執ったフィリップ・ロスは、「私たちの役目の一つは、十分な才能を持たない学生に、作家になることをあきらめさせるおとだ。自己表現のため、あるいはセラピーのためにやってくる人も大勢いる」と述べた。(p.135)

だからこそ、ライターズ・ワークショップの場は、必死な場となる。ライターズ・ワークショップは何のために行われ、どう実施されたのだろうか。

創作というものを学校で教えられるかどうかについては、盛んに議論が重ねられてきた。これは今でも答えが出ていない問題だが、「ワークショップ」と呼ばれる形式の授業は、この課題に取り組むために進化してきた。アイオワ大学でワークショップが制度化されたのは、ヴァンス・ボアジェイリーの説明によれば、「創作的な作文を教える方法を発明しなければならなかった」からだという。授業の題材となるのは、主として学生の原稿だ。教授とほかの学生の批評が道具となり、教室という工房で原稿が磨きあげられていく。(p.136)

この記述にあるように、明らかに教育としての場であったことがわかる。

一九六〇年代初めのワークショップは、まだかたちが定まらない集まりで、その年に集まった教授陣や学生の個性によって決まる要素が多かった。(p.139)

レイモンド・カーヴァーが入ったR・V・キャシルのワークショップは、次のような感じだったようだ。

キャシルは非常に雄弁で学究的な人物で、知的な議論を好んだ。彼のワークショップは、「誰かが書いた小説を料理する場所だった。気に入った作品があると、食いついて徹底的に分析した」(p.137)

ワークショップにおける講評会は以下のような感じだったという。講評会は、「ワークショップで週に一回、二時間にわたって開催」されたという。

月曜に行われるこの会をドハーティはいつも心待ちにしていたという。「その日は、本物の作家のような気分になれるから、みんな気合いが入っていたよ。ほかの日は、実際に文章を書かなきゃいけないからね」。学生たちが事前にタイプライターで打った短編や詩を教授に提出すると、彼らにはよくわからないプロセスによって教授が作品を選び、学部の秘書にタイプライターで打たせる。その後、選ばれた作品は、青焼き機で複写され、まだ湿って現像液のにおいがする紙の束が、ホッチキスでとめた「ワークシート」と呼ばれる冊子になって学生に配られる。それからの数日間、学生たちはワークシートを読み、それぞれの作品の著者は誰だろうと考える。そして、必然的に、自分の作品と比べて、どちらが優れているだろうと自問自答することになる。また、どうすれば作品を改善できるかについて考える。配られたのが自分の作品だった場合は、ほかの学生がそれを気に入るだろうか、自分の作品だと気づくだろうかと思いを巡らせる。(p.141)

これは自分に才能があると自信を持っている者にも、不安を感じている者にもきつい環境だったようだ。

作家のジェイ・ウィリアムズは、そこは「毒蛇の巣窟」であったと語っている。

そこで彼女は、「自信がなく、麻痺した状態」で学生時代の二年間を過ごしたという。それもすべて、エングルが意図した状況だった。「私たちは、学生を叩き、または説得し、震え上がらせて、駆け出しの作家が自分の作品に対して抱く幻想を振り払う。そこから知恵というものが生まれるからだ」とエングルは語っている。(p.141)

ワークショップの講評会では、「作家たちは集中砲火を浴びている兵士のように頭を下げ、黙って話を聞いてから、その場を立ち去った。自分自身と、自分の作品が、集中砲火を浴びるんだ。強烈だったよ」とドハーティは語る。(p.141)

これらの話からもわかるように、かなり強烈な場だったようだ。僕らがパターン・ランゲージで行っているライターズ・ワークショップも、もちろん初心者にはドキドキして緊張する場ではあるが、ここまで厳しい雰囲気ではない。このあたりは、ソフトウェア分野の明るくオープンな雰囲気がうまい具合にブレンドされて進化したと言えるかもしれない。

今回初めて創作の世界でのライターズ・ワークショップの話を読んだのだが、非常に興味深かった。もっと歴史と形態について知りたいと思った。


そして、この本の重要な部分としてやはり触れなければならないのは、「身を粉にして小説を書く」人生を送ったカーヴァーの創作人生についてである。

カーヴァーは、一九八三年に「パリス・レビュー」のインタビューで、自分の人生の物語をフィクションに変換するためには、「並外れた大胆さと、非常に高い技術と豊かな想像力をそなえていなければならない。そして、自分の秘密をばらす覚悟が必要だ。自分の知っていることについて書けとくりかえし言われてきたけど、たしかに自分の秘密ほどよく知っていることはない」と語った。(p.269)

レナード・マイケルズは、カーヴァー(レイ)が妻のメアリアンとの生活のなかでいかにして小説を生み出してきたのかについて、次のように語っている。

カーヴァーの小説を真似して書くことはできるけど、彼と同じところで生まれ育って、彼の身近な人たちの話をずっと聞いていたのでなければ、本当の意味でカーヴァーのような小説を書くことはできない。彼がかかわり、一緒に暮らしている人々はみんな、ある意味では彼の小説への参加者だった。メアリアンはものすごく大量の題材を彼とともにくぐり抜けてきたんだと思う。そして彼女とレイは、それらの小説のための代価として、彼らの人生そのものを支払ったのだろうと僕は思う (p.294)

この言葉は、僕にとって非常に発見的だった。「彼がかかわり、一緒に暮らしている人々はみんな、ある意味では彼の小説への参加者だった」という部分と、「それらの小説のための代価として、彼らの人生そのものを支払った」という部分が、である。普通とは異なる見方であるが、それは真実であると思った。そして、僕も同じように、僕のつくり出すもののために、僕とかかわりのある人たちは「参加」し、僕らはその「人生」を対価として差し出している。対価として支払う度合いの違いこそあれ、人はそうやってつくっている。そうやって生きている。

この視点の転換は、リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』を読んだときと同じような衝撃があった。ドーキンスは、生物が遺伝子をもっているのではなく、遺伝子が生物をヴィークルとして自らが残るようにさせているのだ、という視点の転換をもたらした。もちろん遺伝子が意思や知能を持っているという意味ではなく、物事の主と従の関係は、僕らが当たり前と思っているほど単純には決められないのだ、という話だ。

これまでも、僕は、作品をつくる人が作品につくらされているという関係になるという話を、宮崎駿の言葉などを引用しながら語ってきたが、それはひとつひとつの作品に対してのことであった。上述のマイケルズの言葉は、それを超える範囲においても、同様のことが言えるのだ、ということである。これはすごい。

レイモンド・カーヴァーは、のちにアイオワでワークショップをもつことになるのだけれども、そのときの学生ダン・ドメネクは、「レイが書くことを愛していることが、僕には魅力的だった」(p.386)と語っている。そして、「書くことについて語るときは、彼は情熱的で、独断的だった」(p.387)と。この部分は、自分の経験に照らしてもよくわかる。


作品集『ベスト・アメリカン・ショート・ストーリーズ』の前書きで、カーヴァーは「幸運」について語っている。

ごくまれに、雷が落ちる。<中略>雷に打たれるのは、あなたの友人であるか、かつて友人だった男性または女性かもしれない。その人は酒を飲み過ぎているかもしれないし、まったく飲まないかもしれない。その人は、あなたといっしょに出席したパーティーのあとで、誰かの奥さんと、あるいは旦那さんと、あるいは姉か妹と姿を消したかもしれない。教室の後ろのほうに座って、何かについてひとことも意見を述べなかった若い作家かもしれない。とろいやつだ、とあなたは思っただろう。その作家がトップテンの候補者に選ばれる日が来るとは、誰も想像しなかっただろう。(p.653)

ここで書かれている「酒飲み、禁酒家、女たらし、とろいやつ」というのは、レイ自身が一度はなったことがあった。重要なのは、このあとに続く「雷に打たれる人」についての部分である。カーヴァーは言う。

だがそれは、一生懸命に努力して、書くという行為が人生のほとんどすべてのものより重要で、呼吸をすること、衣食住、愛と神に並ぶほど大事だと思っている人にしか起こらないことだ(p.653)

その通りだと思う。この指摘は真実を射抜いている。常にそれに取り組み、考え、悩み、もがいている人にしか雷は落ちないのである。

まえがきの結びにカーヴァーは、ここにあるのは、「短編小説にしかできないやり方で、かたちを与えられ、目に見えるようになった美にほかならない」ことを読者が発見するように願っている、と書いた。(p.654)

「○○にしかできないやり方で、かたちを与えられ、目に見えるようになった美」!なんてかっこいい考え・言い方だろうか。僕もそういうものを自分の分野でつくりたい、そう思った。


最後に本書の最後に寄せられている村上春樹の「解説――身を粉にして小説を書くこと」のなかの言葉を少し取り上げたい。

カーヴァーはいわば「自分の身を粉にして」小説を書いた人だ。その挽き臼にかけるマテリアルのひとつひとつを、彼は自分の身の内からもぎとっていった。そこにはもちろん痛みがあった。時にはまわりの人々を痛めつけることもあったが、その痛みはだいたいにおいて彼自身に戻ってきた。彼にとって生きるということはそのまま小説を書くことであり、小説を書くというのはそのまま人生を生きることだった。(p.735)

レイモンド・カーヴァーの「生きざま」(あまり好きではない言葉だが、ここにはたぶん相応しい)には、小説家であるというのが本質的にどういうことなのかが、きわめて率直に示唆されていると僕には思える。それは、「何かを書き続けるというのは、自分から何かを削り取り続けるということなのだ」という事実である。僕らはその削り取られたぶんを、どこかからもってきた何かで必死に埋めていかなければならない。(p.736)

ここで語られていることは、僕には、村上春樹自身のことにも重なって見える。ただしひとつ違うのは、カーヴァーは様々なものに依存することでそれを埋めようとしたが、村上はそれを自分なりの方法で心身を鍛え、書き続けようとしているということではないだろうか。村上春樹が日々走り、心身を鍛えながら、創作と重ねて行くのは、まさにそのためだろう。僕も自分なりのスタイルを確立していきたい。それがあっとうい間に擦り減ってしまわずに、つくり続けるために必要なことなのだ。

そして、人生というものは死との関係のなかで考えられなければならない。人の生は誰でも限られており、作家も同様に、つくり続ける人生にも終わりが来る。レイモンド・カーヴァーが亡くなったのは、五十歳のときだった。そのとき、四十歳を目前にしていた村上は次のように感じたという。

彼をこうして失ったことは本当に残念な、悲しい出来事ではあるけれど、五十歳まで生きて、これだけ多くの価値ある作品を書き上げ、それをあとに残して静かに世を去るというのは、ひとつの素晴らしい達成であり、美しい人生のあり方かもしれない、と。そのときの僕には―――実に愚かしいことだが―――五十歳というのはずっと先の方に控えている人生の立派な節目のように思えたのだ。(p.726)

しかし、実際に自分が五十歳になったときに、そのように考えたことを反省したという。

僕自身のことを語らせていただければ、五十歳を迎えた時点では僕は小説家として、自分が書きたいことの―――あるいは書けるはずだと感じていることの―――まだ半分も書いていなかった。「もしこんなところで自分が病を得て、死ななくてはならないのだとしたら、悔しくてたまらないだろうな」とつくづく思った。文字通り死んでも死にきれない気持ちだ。
 僕は五十歳というポイントを越えてから、長編小説だけに限っても『海辺のカフカ』を書き、『1Q84』を書き、『色彩を持たない多﨑つくると、彼の巡礼の年』を書いた。その他にもいくつかの短編小説集と中編小説を書いた。もし作品目録からそれらの作品群がまとめて削除されるとしたら、それは(他の人がどのように考えるかはもちろんわからないが)僕としてはとても耐えがたいことだ。それらの作品は今では僕という人間の、欠くことのできない血肉の一部になっているのだから。一人の作家が死ぬというのは、ひとつの命のみならず、来るべき作品目録を抱えたままこの世から消えて行くことを意味するのだ。(p.727)

いま四十歳という位置にいる僕にとって、この村上春樹の言葉から得られるものは大きい。

僕も目の前のことに必死になりながらも、このことを常に考えながら生きていきたい。

自分が限りある人生のなかで、世界にどのような作品・成果をどれだけ残せるだろうか、と。
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Creative Reading:『小説、世界の奏でる音楽』(保坂 和志)

今回は、保坂和志さんの「小説をめぐって」の三部作の最終巻である『小説、世界の奏でる音楽』(保坂 和志, 中公文庫, 中央公論新社, 2012)を取り上げたい。

Hosaka3.jpg『小説、世界の奏でる音楽』(保坂 和志, 中公文庫, 中央公論新社, 2012)


この三部作を通じて、小説家・小島信夫さんの話がたくさん出てくるのであるが、次のエピソードで語られていることは、実に興味深い。

そのとき話がはじまってすぐに私がちょうどそのときに読んでいたメルロ=ポンティの『見えるものと見えないもの』のページを開いて、
「ソナタ奏者の演奏がソナタたりえるのはソナタに奉仕しているからだ。」
という意味のことが書いてある箇所を小島さんに見せて、
「小島先生の小説が小説たりえているのは、先生が小説に奉仕しているからなんだと思う。」
と言ったら、
「そんなことを誰の前でも軽々しく言ったらいけない。みんな小説を自分一人の力で書いていると思っているんだから。」
と小島さんが答えた (p.121)

この部分を読んで、もしかしたら僕のつくるパターン・ランゲージがパターン・ランゲージたりえるのは、パターン・ランゲージに奉仕しているから、と言えるのではないか、と感じた。そして、よいパターン・ランゲージを書けないで悩んでいる人は、もしかしたら、自分がつくっているものをどうするかに頭を悩ませているばかりで、パターン・ランゲージというもの・方法に奉仕していないからかもしれない。

僕は、そのときどきのテーマのパターン・ランゲージをつくりながら、同時に、パターン・ランゲージとは何なのか、どのようにパターン・ランゲージをつくることができるのかについて絶えず考えている。そして、パターン・ランゲージをより知ってもらったり、活用されたりするためにはどうすればいいかも考えている。これを先ほどの「奉仕」という言葉で表現するならば、奉仕していると言うことができるのではないか。

成果だけでなく、同時にそのつくり方もつくることの重要性は、僕もこれまで考えていたけれども、「奉仕」ということは考えていなかった。でも、これ、とても大切なことだと思う。


ハイデガーを取り上げた章で、次のようなことが書かれている。

人間が芸術を作るのではなく、芸術によって人間が作るようにしむけられる。とはいっても、ただ子どもが大人に言われるままにわけもわからず何かをするような仕方ではなく、覚悟をもってその困難に進み入ってゆく (p.248)

このことは、宮崎駿が、映画をつくっているはずが映画の奴隷になってつくらされる、ということを言っているのと重なるし、僕自身が本気で何かをつくっているときの経験とも重なる。パターン・ランゲージをつくっているときも、パターン・ランゲージの記述が、まるでパズルのピースがぴったりはまるように、適切かつ生成力をもつようにつくっていく。

別の箇所で紹介されているモーツァルトの話も興味深い。

モーツァルトのてがみは言う―――構想は心の中に全体として姿をみせる。(p.301)


全体のイメージがどこからかやってくる。ある瞬間に気がつくと、それはすでにそこにある。全体をさまざまな角度からしらべ、必要なディテールを発見するのは、ゆっくり進行するプロセスであるのがふつうである。時間をかけることが問題なのではない。ディテールが全体の機械的な分割にとどまらず、相対的に独立した運動をもつことによって、逆に全体はディテールの集合から独立した次元を獲得する。こうして、はじめにあらわれた全体のイメージを超えることが必要なのだ。このことなしには、作曲は実行にあたいしない、ゆめみるだけで充分なものになってしまう。(p.301)

ここには、全体と部分の関係がつくる過程でどのように変容していくのかが書かれていると思う。全体は部分の寄せ集めではない。部分は全体によって規定されるのだ。しかし、最初からそのすべてがどこかからやってくるのではない。全体がまず先にあり、それが実際に存在できるように部分(上述の言葉でいうと「ディテール」)をつくり込んでいく。完成のイメージはあいまいであるが全体が先にあるのであるが、実際につくることができるのは部分=ディテールでしかない。しかし、部分=ディテールを集めたものが全体なのではなく、全体は全体として存在する。まだ正式なかたちを伴っていない段階から、それは全体なのである。

そして、そのようにつくられた小説にはリアリティが宿る。ただし、現在の事実にもとづくというよりも、それはもっともらしく、自分の未来に実際に起きそうであると感じるという意味でのリアリティである。

小説はリアリティがあるからおもしろいのではなく、おもしろい小説には何らかのリアリティがある。この関係を間違ってはいけない。(p.84)

パターン・ランゲージも、似たようなことを言えるだろう。リアリティがあるから「共感」できるのではなく、「共感」できるからリアリティがでる(を感じることができる)、と。

そして、それは新しい価値を提示する。


小説を書くということは社会全体に流布している価値とは別の価値による領土を作ることだ。(p.328)

これはパターン・ランゲージにも言える。パターン・ランゲージをつくるということは社会全体にすでにあるような価値とは別の価値の領土をつくることなのだ。例えば、プレゼンテーションが伝達だと思われているときに、伝達ではなく創造である、と捉えることや、認知症になるということは、家族と過ごす時間が増えたり、いろいろな挑戦をする機会を思い切って増やすことができるという意味で、「新しい旅」だと捉えることができる、というような、普通と異なる価値の領土をつくるということである。

そして、この別の価値というものを、作家はあらかじめ明確に理解しているわけではない。書く・つくることで、それが見えてくるのである。いや、それを見るために書く・つくるのである。

小説家は「いま書きはじめてこの話が小説として成立するのか」という先が保証されない時間の中で文章を書いている。
家を建てるのだったら、まず土台をしっかり作り、次に柱を立てて、その次に屋根を骨組みを作って、という順番があるけれど、小説を書くというのはとりあえず柱を一本立て、その柱を一本立てたことが同時に土台を少し作ることにも屋根を少し作ることにもなるような、手順が保証されていない作業であって、とりあえず立ててみた柱がダメそうなら、別のところに柱を立てるか、それより短い柱にしてみるかというような試行錯誤なのだ (p.412)

これは、創造的な過程の本質だと思う。そして、それが井庭研でやっていることや、SFCで僕らが教えられ・実際にやってきたことはまさにこういうことである。いわゆる一般教養から始めて基礎から積み上げる大学教育ではなく、いきなり柱を立て、その柱の下の基礎だけを同時につくっていくような学び方。これがSFCが25年間やってきたことだと思う。

そして、おそらく、パターン・ランゲージが支援しようとしているのも、そういうことだろう。アレグザンダーが、住民が建築生産のプロセスに参加できるようになるための方法としてパターン・ランゲージを考案したことからもわかるように、しっかりした基礎と自分自身の膨大な経験に基づくのとは異なるやり方で、いきなり柱をつくろうとしても全体として高い質が実現できるような方法を目指して、パターン・ランゲージがつくられたのである。

パターン・ランゲージを読むことによって全体性を感じとり、その上で部分=ディテールをつくるために個々のパターンが寄与する。アレグザンダーの実践は道半ばで終わってしまった感があるのは事実であり、その試みの続きは、僕ら後継者が続けるべきことだろう。
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Creative Reading:『小説の誕生』(保坂 和志)

前回に続き、保坂和志さんの「小説をめぐって」の三部作の二作目にあたる『小説の誕生』(保坂 和志, 中公文庫, 中央公論新社, 2011)から気になる部分を抜き出して考えたい。

Hosaka2.jpg『小説の誕生』(保坂 和志, 中公文庫, 中央公論新社, 2011)


本書でも、「小説的思考とは何か? 小説が生成する瞬間とはどういうものか? 小説的に世界を考えるとどうなるのか?」ということが問われている。

評論的思考は俯瞰し一望するタイプのものだけれど、小説的思考は森の奥へ奥へと勇気を持って突き進むものだ。その先に何があるのか?なんて関係ない。突き進むという行為自体に意味がある。というか、小説を書くとはひたすら突き進む行為そのもので、それは人生であり、この世界に生きることに等しい。人生や世界は決してその外に出て俯瞰することはできない。(p.14)

興味深いのは、この小説論自体が、小説的に奥へ奥へと進むように書かれているということだ。

小説論は評論でなく小説の変種だから、私は毎回、最初の数行を書いたらその運動に任せて、考えを前に進めることだけを実践した。(p.4)

そのような小説的な書き方で、小説について考えているのが、この『小説の誕生』という本、そして、この「小説をめぐって」の三部作なのである。このような再帰的なかたちの取り組みは、まさに僕らがパターン・ランゲージをつくるためのパターン・ランゲージをつくっているのと同じような構造になっている。

前回取り上げた『小説の自由』でも書かれていたことだが、文体は文章の表面的な特徴を言うのではなく、それを生み出す奥にあるものである。

小説における文体とは書かれる要素の種類と量とその順番などのことであって、センテンスの長-短、言葉使いの硬-軟などの表面的なことではない。それら表面的なことだけにとらわれる文体観は、小説を形式と内容に分ける考え方に基づいた発想なのだが、小説においては形式と内容という二分法は意味がない。表面的なものだけをみて文体と考える発想は詩から移入されたものだろう。散文は韻文ではない。散文は韻文と別のメカニズムによって作られていくこのだから、小説は散文としての独自の意識を持つ必要がある。小説にとって必要なのはひたすら散文という意識だけなのではないかと私は思う。(p.34)

この詩の捉え方が、詩人の側から見てどう思うのかは僕はわからないが、「形式」と「内容」に分けるという発想がそもそも違うという指摘は興味深い。(小説・散文における)文体というのはそれらの二分法的な区分では捉えられないというわけである。そして、散文であるパターン・ランゲージの文章もまた、「形式」と「内容」は不可分だということになる。

それでは改めて、小説を書くということは、どういうことなのだろうか。

小説とは小説家の中にあるイメージというか何か言葉にならないものを、人物の動きや情景や出来事の連鎖によって読者の中に作り出そうとする表現行為のことだ。だから小説は言葉によって書かれているものではあるけれど、音楽や絵画と同じように、言葉によっては再現することができない。(p.66)

小説は、音楽や絵画と異なり、言葉で表現されるので、まるで「言葉にならない何か」を言葉で記述できたかのように思えてしまう。しかし、それは誤解であって、音楽や絵画と同じように、そこに文字として書かれていることが、表現したかったそのものではない。その文字を追うことで立ち現れてくる世界こそが、小説によって表現したいことなのだ。だから、現前性ということが問題になるのである。

文章は事実を書けばそれが事実としてそのまま読者に伝わるようなものではない。(p.303)

書かれた文字を逐一追っていく読者の行為にとって、書かれていることが読みながら生起するように書かなければならない・・・そうしなければ読者はそれを経験せず、ただ事後報告として読むだけだ。(p.303)

同様のことが、パターンの文章を仕上げるときにも言える、と僕は思う。パターンには、よりよい方向に進むための秘訣のようなものが言葉で表現される。しかし、そこに書いてある言葉そのものを共有したいというよりは、その記述が生むより感覚的なものを共有したいために文章にしている。

いま引用した部分の書き方を踏襲するならば、「事後報告としてのパターン」は、読んでいて、過去にあったことを文字として読んでいるに過ぎない。しかし、パターンを読んだときに自分のことであると感じさせたり、今もしくはこれから起きると感じさせる(思わせるのというよりも感じさせる)ことができるかどうかが、パターンの文章の命である。この違いを意識しているか、それを書き分けることができるのかが、パターンを仕上げたときのクオリティに大きく違いを生む。

だからこそ、パターン・ランゲージを読むということは、ある面では小説や哲学を読むということに近いのである。

哲学とは結論を読むものではなくて思考のプロセスを読むものだ。結論というのはプロセスそのものの中にあるとしか言えない。小説になるともっとプロセスしかない。音楽を聞くときに「結論は何か?」と考えないのと同じようなものだとでも言えばいいだろうか。音楽でも絵でもそれをいいと思っている人は言葉を必要としていない。音楽や絵の前で言葉を必要とする人はそれをどう受容していいかわからない人たちだ。(p.61)

音楽を聴くときに「結論は何か?」を考えない、というたとえは実にわかりやすい。パターン・ランゲージもそれを「感じる」ときには、小説や哲学を読み、音楽を聴くようなことに近い。そうやって読むことで、パターン・ランゲージが生成しようとする世界を感じて味わうことができる。(パターン・ランゲージは、その上で、後から個々のパターンを実践に活かすことができるような形態でまとめられている。)

それぞれの小説は、世界を立ち上げるという意味で、ひとつのまとまりをもった(閉じている)ものであるが、他方で、現実世界に対して「開かれている」。

小説は現実の世界に対して閉じてはいけない。それは考えることを放棄して【ただ作品を書く】ことでしかない。世界がどういうものであるかを考えるための方法や道具を作り出すのが小説で、世界とは自分の働きかけに応えてくれないものであるという前提で生き、それでも世界に働きつづけるにはどうしたらいいのかを考えるために小説がある、というのが私の小説観だ。(p.40)

フィクションのリアリティとは、現実でそれが説明されることでなく、それが現実を説明する原型になることだ。
現実の中にそれを置いてみて、どんなに荒唐無稽に見えることであっても、フィクションの中で読者の気持ちを掻き立てられればそれは何らかのリアリティを持っているはずで、そのリアリティが現実をそれまでと違った風に見えるようにする。(p.481)

つまり、小説は現実世界とは関係のない架空の世界の話として終わるわけではなく、それが現実世界の見方をも変容させていく。小説家が小説を書きながら自分自身が変わっていくように、読者もまた、小説を読みながら変わっていくのである。

文学というのはどれだけ絶望的な状況を書いても、この世界を肯定しようとしていなければならない、というのが私の文学観だ。息苦しい状況をひたすら息苦しく書いたり、悲惨なことをただ悲惨に書いたりするのは、文学を文学たらしめる何かが欠けている。私は「世界はいいものだ」「人間は素晴らしい」と書かなければいけないと言っているのではない。・・・『音の静寂 静寂の音』で高橋悠治が書いている、
「人間であることのくるしみをくるしみとしながらも
くるしみがそのままでそこからの解放でもあるような音楽」
という意味で、世界を肯定しようとする強い意志がなければならない。小説―――広く芸術一般――ーを世界に向かって開くことができるのは、この意志なのだと思う。(p.317)

世界を肯定する。その気持ち、よくわかる。パターン・ランゲージは現在よりもよりよい状況を生もうとして書かれる。しかし、それは世界の否定ではない。世界を肯定しているからこそ、パターン・ランゲージを書き、よりよい状況になると信じているのである。もし世界を肯定しようという意志がないのであれば、パターン・ランゲージなど書くこともなく、絶望に打ちひがれたり、やけになって破滅的な行動をとるかもしれない。パターン・ランゲージをつくるというのは、世界を肯定しようという意志の表れなのである。
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Creative Reading:『小説の自由』(保坂 和志)

年末年始に保坂和志さんの「小説をめぐって」の三部作、『小説の自由』『小説の誕生』『小説、世界の奏でる音楽』を読んだ。とても面白かった。

もちろんそのままの内容も面白いのだが、僕の場合は「パターン・ランゲージを編み上げることは、小説を書くことに似ている」ということを、なんとか言葉にしたいと思いながら読んでいたので、その意味での面白さもある。絶えず小説の話をパターン・ランゲージのこととして読み替えながら読んだのだ。

重要な箇所がたくさんありすぎてすべては取り上げられないが、そのなかでも、パターン・ランゲージをつくるということを考えるときに、とても重要だと思う部分を引用しながら考えていきたい(保坂さんも、これらの三部作では、とにかくたくさん文献を引用しまくり、そこで考えることをどんどん展開していくという書き方をしているので、その本をさらに引用しながら僕の考えを進めることも、ある意味正当化されるだろう)。

まず、今回は『小説の自由』(保坂 和志, 中公文庫, 中央公論新社, 2010)から始めたい。

Hosaka1.jpg『小説の自由』(保坂 和志, 中公文庫, 中央公論新社, 2010)


この本では(そして三部作全体でも)、小説とは何なのかということが問われている。

小説とはまず、作者や主人公の意見を開陳することではなく、視線の運動、感覚の運動を文字によって作り出すことなのだ。作者の意見・思想・感慨の類いはどうなるのかといえば、その運動の中にある。(p.73-74)

言葉遣いやセンテンスの長短やテンポは、いったん書き上げた段階でいくらでも直すことができるけれど、文章に込められた要素 ――― つまり情景に込められた要素 ――― はそういうわけにはいかない。小説にはいったん書き上げたあとに修正可能な要素と不可能な要素があり、修正不可能な要素が小説世界を作る、というか作者の意図をこえて小説を【どこかに連れていく】。それが小説における表現=現前性で、文字とは抽象化されたものなのだから、見た目の印象は小説にとっての現前性ではなく、韻文にあるような響きも小説にとっての現前性ではなく、文字によって抽象として入力された言葉が読み手の視覚や聴覚を運動させるときにはじめて現前性が起こる。(p.88)


それゆえ、

小説は読んでいる時間の中にしかない。(p.89)

のである。しかも、作者も読者と同じように、初めて文字になったものを読むことでその現前性に触れることになるという。

あたり前のことを言うようだが、文章というのは実際に文字で書いた状態を目で読まないかぎり感触が確かめられない。それは書いた一行一行から来る現前性の問題で、直前に書いた文を読むとき作者は読者と同じく、はじめてその文を読む。文がまだ頭の中にしかないときには、そこにある要素の現前性の感触を作者自身得られていない。(p.287)

だからこそ、自分で書いた論文やパターンを、何度も読み直して、そこに確かな手応えがあるかどうかを何度も確認しなければならないのである。他の人の書いた論文を何度も赤入れするとき、よく感じる疑問は、その書き手が本当にそれを「読み直して」いるだろうか、ということだ。

こういうと、「もちろん何度も読み直していますよ」と答えるだろうが、ここで問うているのは、本当の意味で「読み直している」のかということである。ただ文字面を目で追い、なでるように見ているだけで、そこで気にしているのは文章が表現として成り立っているか、頭のなかで考えていたことと一致しているか、ということではないか。「読み直す」ということは、それでは足りないのである。

小説とは書き手と文字として書かれたものとの休みないかけひきの産物なのだ。(p.152)

書かれた文章は書き手のイメージの写しではない。(p.153)

書かれた文章は書き手のイメージの写しではなくて、書き手は半分は書かれた文章からその先を書くヒントを得る。という意味での「かけひき」だ。(p.154)

自分が書いたものは、自分の頭のなかにそこに書かれたことに対応する内容がすでにある。ところが、読者のように「読み直す」ということは、その頭にある内容を知らない振りをして、初めて読む人になりきって文章を読むということである。そして、その内容を飲み込み、理解し、味わうということを実際に行うことである。これは、単に文字面を表現のレベルでなでているのとは違う。その文章に初めて出会い、初めて読み、初めて理解するということなのである。自分で書いた文章であるにもかかわらず!

小説とは、絵画や彫刻や音楽や映画や演劇やダンスや詩や……それらと同じく芸術なのだから、運動が不可欠な要素としてある。ただ、詩も含めてここに列挙したすべてと小説が違っているのは、小説の運動が、字面という視覚的なものや言葉の響きという聴覚的なものなど、感覚的身体的な、即物的な次元を頼りと刷ることができず、すべての文字が頭の中で処理されるその過程で生まれるということだ。(p.319-320)

小説家が頭のなかにイメージをもっていて、そしてそれに対応するものを書いたとしても、言葉は言葉の運動性があるので、単なるイメージのコピーにはならない。そのイメージと無関係であるとは言わないが、文章の側には文章の側の流れや質感が生じる。そうなると、作者は、書いたあとに、それを読み直すことで初めてその文章から立ち上がる情景や世界を感じられるのである。そして、読み直したときに初めて、その言葉たちに世界を立ち上げる力があるのか、質を感じさせる力があるのかが実感されるのである。

小説を書くことは、自分がいま書いている小説を注意深く読むことなのだ。小説家はどんな読者よりも注意深く、自分がいま書いている小説を読んでいる。(p.191)

しかも、「読み直す」ということは、実際にすでに書いた部分の文章を読んでいるだけでなく、その内容・展開を何度も「読む」。

小説家には、自分がいま書いている小説のことだけが頭にある。だから仮に小説家Aが一日二時間しか机に向かわないとしても、小説家Bが二日に一度しか机に向かわないとしても、小説家は小説を書いているかぎり、いま書いている小説のことを考え続けている。机から離れていても最近何日間かで書いた分 ――― だいたい二〇〜三〇枚だろうか ――― の情景や会話が頭の中にあって、それゆえ小説家は自分が書いた原稿を【繰り返し読んでいる】。(p.192)

何度もその世界がリピートされる。絶えずその世界を何度も何度も頭のなかで「読み直す」。これは、パターン・ランゲージを編み上げているときに、僕が必ずやっていることでもある。

私が小説家であることを知ると、純朴な人たちは「自分が考えていることを人に伝わるように書くって難しいですよね」と言うのだけれど、自分が考えていることがすでに形となっているのなら書くことはたいして難しくない。そうではなくて、「自分が考えようとしていることが、どういうことなのか自分自身でもよくわかっていない」ことを書くから、書くことは難しい。(p.358)

パターン・ランゲージをつくるのが大変なのも同じ理由だ。個々のパターンが何を言うべきかが、よくわかっていないからこそ、それを書くことで理解しようとしている。そして、パターン・ランゲージ全体で何を表そうとしているのかも、つくっている段階ではよくわからない。よくわからないからこそ、何度も読み直し、何度も書き直すなかで、それをつかもうと努力するのである。

「書く」というのは「文字を使って書く」ことだ。文字というのは人間の外にあって人間と別の原理によって動く体系であって、火を使ったり、道具を製作して使ったり、楽器を演奏したり、動物を飼育したり、植物を育てたり、数学を使ったり、三段論法などの論理的思考法を持ったり、家を建てたり、船で海に乗り出したり、車輪を持ったり、水車という動力を使うようになったり、蒸気機関を発明したり、電話を発明したり、パソコンを使うようになったりするのと同じように、人間と別の原理によって動くものによって人間もまた動かされることで、それらひとつひとつを自分のものとするたびに人間はそれ以前の人間とは別の思考の仕方や世界との別の関わり方をするようになった。(p.359)

この「人間と別の原理で動く」ということが大切だ。

考えることは文字なしで頭の中だけでもできる。しかし頭の中だけでは論旨をゆっくりと進めることしかできない。頭の中だけの考える作業としてたぶん最も向いているのは、要素を記憶しておいて、それらが思わぬ結合をして、大転換でも小さな転換でもいいが、とにかく“転換”をともなったインスピレーションが生まれるのを待つことだ。
それに対して書くことは転換はあまり期待できないが、論を短時間に進めることができる。頭の中で訪れるインスピレーションが、「頭の中」といいつつ、風が窓を叩く音など、案外、ちょっとした外からの刺激が必要なのに対して、書いて考えるときには外からの刺激なしに進めていくことができる。断片だった考えや、書かなければ頭をよぎっただけでそれが熟すのはまだしばらく先になったようなことが、書くことで集められ、留め置かれて、それらが先に進められる。(p.362)

保坂さんのかっこいい表現でいうならば、「書くことは前に進むこと」(p.375)なのである。

文字を使って確認するように書いていくことで、自然と先が用意されたり、確認のつもりで書いていることが・・・すでに先のこと、一種の答えのようなものだったりする。書くというのはそういうことだ。あたり前のように感じる人が多いかもしれないが、これは書くことの大変な特性で、小説と哲学はこの特性によって小説が小説たりえ、哲学が哲学たりえることになる。小説も哲学も、数学の計算のように最後の答えだけが問題なわけではなくて、答えようとする道筋、もっと言ってしまえば、世界に対する不可解さを問いの形にまでするところにしかその仕事はない。不可解さが、整った問いの形をとることができたとしたら、たぶんもうあんまり答える必要はないのだ。(p.362-263)

このことをパターン・ランゲージで考えるとどうなるだろうか。パターン・ランゲージの目的は、そのパターン・ランゲージで記述されているデザイン・実践をすることによって実現できる「質」(名づけ得ぬ質)を生み出すことである。個々のパターンは、そのための手段に過ぎない。なので、パターン・ランゲージを状況における問題に陥らないための解決策(秘訣・ヒント)を単に共有・示唆するためのものだと思っていては、大切なことを見落としているということになる。パターン・ランゲージ(全体)が目指していることは、それらのパターンで示されている解決策たちを実践することによって生成される「質」を実現することである。

そう考えると、個々のパターンの記述を読むということは、その質へと至る道を進んでいくようなものである。つまり、個々のパターンを理解しながら、理想的な状態の質を感じることが重要であるといえる。その意味で、小説同様に、パターン・ランゲージも「答え」を得るために読むのではなく、そのプロセスこそが大切だと言えるのかもしれない。

小説は、・・・その小説の中で特異な思考の組み立ての手順が実現されることであって、それによって、その小説が書かれる前には読者が考えていなかった問いやこの世界に対する不可解さが浮かび上がってくる。それらは【小説を通じて】実現されるのであって、【小説の外から】持ち込んでくるのではない。(p.393)

ある小説が、その小説が書かれる前から社会の中でじゅうぶんに認知されている問題を、社会と同じ視点から書いても、問題の質的転換は起こらず、すでに用意されている問題が強化されたり、固定されたりするだけだ。(p.393)

僕がパターン・ランゲージをつくるときにも同じようなことを考える。僕らがつくった学びのパターン・ランゲージ「ラーニング・パターン」は、つくることによる学びである「Creative Learning」という視点を生んだし、プレゼンテーション・パターンは、「プレゼンテーションは伝達ではなく創造である」という「Creative Presentation」という捉え方を生んだ。認知症のパターン・ランゲージは、認知症になった後の生活を「新しい旅」だと捉えよう、という視点を生み出した。

これらは、始めからそう考えてつくっていったわけではなく、パターンを書き、パターン・ランゲージを編み上げていく段階で見えてきたものである。つくるなかで生まれたのである。こういう質的転換が起きたパターン・ランゲージは、やはり、僕からするとよいパターン・ランゲージであると感じる。

小説が外から持ち込むのは、意味や問いではなくて、風景や音や人物の口調や動作の方法だ。(p.394)

まさに、個々のパターンにおける解決やアクションは、インタビューや自分たちの経験から得たものたちで、いわば「外から」持ち込まれる。しかし、それらのパターンが集まって、パターン・ランゲージ全体としてどのような質を生むのか、ということは、外から持ち込まれるのではない(強引に持ち込むことができないわけではないが、それをやると全体の”生命”を殺してしまい、記号にはなっても質にはならない)。

小説、音楽、絵画、彫刻、写真、芝居、映画……これらすべての表現形態は、手段として、文字とか音とか色とか線とか具体的なものしか使えないのだけれど、それを作る側にも受けとめる側にも具体性をこえたものが開かれ、それが開かれなければ何も生まれない。
その抽象性だけを強調してしまうと、安易な宗教性に陥ってしまうだろうし、作る側は作品にただ“念をこめる”わけでは全然なくて、具体的な作業をつづけてひたすら具体的な物を作るわけだけれど、その具体物によって具体性をこえたものを開こうとしている。(p.232)

この「その具体物によって具体性をこえたものを開こうとしている」というのは、実にかっこいい表現であるが、単に表現がかっこいいだけでなく、本質を捉えている。パターン・ランゲージの内容をただ理解するだけというのは残念なことであって、それが生成する質に向かっていく力を込めることが重要なのである。では、それはどのように「力」を生むのだろうか。

「文体」について書かれている以下の部分が、関係するかもしれない。

小説における文体とは、センテンスの長-短、言葉づかいの硬-軟など、物理的に簡単に測定できるようなもののことではない。(p.334)

散文は韻文とは違うのだ。

韻文は、言葉のリズムであったり響きであったり、言葉の音楽的=物質的な要素を基盤にしていて、意味は音楽性のあとからくるか、音楽性と同時に音楽性に乗って生まれてくるのだが、散文は音楽的要素を基盤としない。(p.334)

それでは散文では何が文体=語り口になるのだろうか。

小説と哲学書は散文で書かれているといってもやっぱりある密度を持っている。その密度によって、読み進めるうちに作品固有のテンポを読者が共有するようになって、読みはじめの段階よりも著者が書いていることの輪郭がはっきりして理解が容易になったり、昂揚したりするわけだけれど、散文における“固有のテンポ”とは音楽性でなく、”思考の癖”とか、”思考を組み立てていく手順のパターン”のようなもののことだ。(p.335)

このことは、実によくわかる。例えば、ルーマンにはルーマンらしい”思考を組み立てていく手順のパターン”があり、アレグザンダーならアレグアンダーらしい”思考を組み立てていく手順のパターン”がある。そしてそれが文章に表れている。彼らに影響を受けて、彼らのような「文体」で論考を書こうと思っても、言葉づかいなどを真似るだけでは、似たようなものにはならないだろう。そうではなく、文章の表現に裏で関係している”思考を組み立てていく手順のパターン”を真似なければならないのである。

このように、表面的な表現ではなく、その表現を生む(生成する)背後にある「パターン」を抽出し、そこを真似できるようにする。これがパターン・ランゲージで目指していることである。単に、結果としての表現を真似するためのものではない。人間行為のパターン・ランゲージ(パターン・ランゲージ3.0)では、ここでいう「表現」というのは「行為」(action)と置き換えられる。つまり、パターン・ランゲージ3.0は、結果としての行為を真似するためのものではなく、その行為を生む(生成する)背後にある「パターン」を抽出し、そこのレベルから参考にできるようにすることが目指されているのだ。

全体を読み終わってから書くのが筋だと思われるかもしれないが、読み終わると遠のいてしまう高揚感が小説にはある。
小説でも哲学書でも、それを楽しんだり理解したりするために、読んでいるあいだにいろいろなことを自然と思い出したり強引に思い出したりしているもので、読み終わるとそれの何分の一かしか残っていない。(p.109)

こういうことがパターン・ランゲージを読むときにもある。ただし、小説と違うのは、パターン・ランゲージにはパターン名というインデックスが残る。読んだときに一度通過した部分部分を、パターン名というインデックスで思い出すことができる。パターン名の重要性は、この点にあるといえる。

パターン・ランゲージ全体のなかに個々のパターンがある。そして、それに名前がついている。これは決して、逆ではない。つまり、バラバラのパターンが集まってパターン・ランゲージになるのではない。それではバラバラなものが寄せ集められたにすぎないのであって、全体性を生むことはない。パターン・ランゲージ全体が、パターンをもつのである。この点はとても重要である。

パターン・ランゲージをつくっているとき、個々のパターンを書いていた段階から、あるとき、視点を変えて、(未だ見ぬ)パターン・ランゲージ全体からの視点に切り替えて、それに合うように個々のパターンを書き換えたり並べ替えたりするときが来る。これが僕が仕上げるとき「魔法がかかる」といわれる作業で起きている視点の変化である。部分を見ていた段階から、全体をみて、それに合うように部分を用意する、という視点の切り替えである。これができないと、パターンはバラバラのままで編み上げたようにはならず、寄せ集めにしかならないのである。

この本でも、「小説は部分の集積ではない」という節で、この点について述べられている。

小説というものを部分の集積だと考えている人がいるけれど、小説は部分の集積ではなくて何よりもまず全体として小説家に与えられる。もっと実感に即していうと、“全体”でなく、“全体の予感”とか“全体の気配”とかそういう、おぼつかなくておぼろげな感じなのだが、それでもやっぱり全体であって、絶対に部分ではない。これはもちろん、音楽、絵画、彫刻、映画……すべての表現にあてはまること…(p.237)

小説家本人としてもよくわかっていない何かが浮かんできて、それは小説家本人もまったく全体像をつかめてはいないのだけど、それはなんだか動かしがたいものであって、人物も物語も時代も場所も選択の余地があるものではない。構想の段階でも書きはじめてからでも、小説家は人物、物語、時代、場所……等をいろいろいじって書き直すわけだけれど、それは作り手の自由裁量として、「より面白くする」ためにいじったり置き換えたりしているのではなくて、「それしかない」と感じられるものが見えていないから、いじらざるをえないということなのだ。実際の作業としては、一行一行文字を埋めていくことだから、部分の「積み上げ」をしているように見えてしまいがちだけれど、“全体”がさきにあったうえでの”部分”であって、それは、積み上げられたり足し算されたりしていく“部分”とは全然違う。(p.237)

まさにこのあたりが、パターン・ランゲージを編み上げることが、小説を書くことに似ているという部分である。ここで、「パターン・ランゲージを編み上げることは、小説を書くことに似ている」ということは、パターン・ランゲージが小説と同じであることを主張しているのではない。しかも、パターン・ランゲージをつくる全行程が、小説を書く全行程と同じであると言っているのでもない。そうではなく、パターン・ランゲージをつくる全行程のなかの「編み上げる」ことで仕上げる部分が、小説を書くことに似ていると言っているのだ。

僕がパターン・ランゲージ編み上げるときの感覚は、小説家が小説を書くときに、「こうしてやろう」という作為ではなく、小説世界のなかで自然に流れるように動くのをイメージして、それを書いてく感覚に近い。

たとえば小説と小説家の関係は、羊の群れと牧羊犬のようなものだ。何十頭かの羊たちが気ままに草を食べながら移動しているその群れを、評論家は能力が高い牧羊犬がきちんと誘導しているように読むのだが、小説家自身は出来の悪い牧羊犬でいたいと思っている。(p.190)

小説家の能力を優秀な牧羊犬のように群れを制御する能力と思っているかぎり、小説の外枠しかわからない。羊の群れを制御=抑制する能力で小説が書けるのなら、小説家は一日一〇枚、一年で三〇〇〇枚は書ける。羊の群れの気ままな移動に身を任せようとするからこそ、小説家は一年で一〇〇〇枚が書けない。(p.193)

小説家が小説を書くときに確かなものがあるとしたらそれは何を指すのか。それは、事前の構想にしたがって羊の群れを制御=抑制することではなくて、羊の群れの気ままな動きに身を任せることなのだ。それは【一見】最も不確かなやり方に思われるが、小説家と小説の関係ではそれが最も確かなやり方となる。(p.207)

これと同じことは、村上春樹やスティーヴン・キング、宮崎駿など、多くの作家が同様のことを言っている。自分の作為で物語が進むのではなく、物語が自ら展開しようとする、それを私は追っているだけだ、と。はたしてそれは、どういうことなのだろうか。本書は、そのあたりについて重要な指摘がなされている、本書のタイトルにもなっている「小説の自由」、つまり、小説を書くときにおける「自由」とはどういうことか、という話である。

羊の群れに任せて書いて、うまくいかないと思ったら破り捨てて書き直せばいいのだ。小説は人前でするコンサートではないのだから、何度でも書き直してうまくいったテイクだけを残していけばいい。
ここで「うまくいく」というのは、登場人物たちがそれぞれの個性をじゅうぶんに発揮することであり、その情景にある風景や物などの要素が小説の流れを事前の青写真をこえて引っぱっていくことだ。小説がうまくいかないのは、登場人物たちが勝手なことをやったり言ったりするからではなく、お行儀よく作者の青写真の範囲内で振る舞ってしまうからだ。
作者に必要なことは登場人物たちが勝手に振る舞える場を与えることなのだ。それは大変なことだからしょっちゅう失敗する。しかし失敗したら書き直せばいい。小説を書くことは工場労働と違うのだから、時間も労力もいくら無駄にしても誰からも文句は言われない。(p.209)

登場人物たちに思いっきり勝手なことをさせると言っても、一番大まかな輪郭なり流れなり ――― これはそれぞれの小説家に固有のイメージのような体感のような何とも言葉にしがたいものなのだが ――― 小説の全体を決めている何かがあって、それが非常に緩やかなレベルで、人物や出来事や風景という書かれるすべてを統制しているから、本当の本当に収拾がつかない滅茶苦茶バラバラにはならないものなのだ。(p.211)

「勝手」という言葉にはすでに悪い響きがこめられてしまっているが・・・「勝手なこと」をしていいとなると、人間は悪いこと、ろくでもないことをすると決まっているのだろうか。小学校で「勝手にしていいよ」と言ったら、その途端にワーッと大騒ぎになるだろう。けれど、その状態は一時間かせいぜい二時間しかつづかないだろう。そこにファーブルがいたら、彼は騒ぎから抜け出して校庭の隅で虫を見ているだろう。本が好きな子は本を読み出し。ほとんどの男の子はきっとサッカーか野球をはじめるだろう。(p.212)

だから「小説の中で登場人物たちに思いっきり勝手なことをさせる」というのは、小学校の教室で子どもたちがワーッと大騒ぎすることではなく、その次にくるファーブルが虫の観察に没頭している状態のことなのだから、きっと小説は【何か】に向かって進むだろう。その【何か】とは作品ごとに個別にあらわれるもののことだから、いまここで具体的にこういうものだと言うことはできない。その【何か】は作品を書きはじめる前に作者として考えていることをこえる広がりを持っている。(p.213)

また、このことを、保坂さんは本書の別のところで、次のように端的にまとめている。

小説の中で登場人物たちに「勝手なこと」をやらせたり言わせたりすることを私は“悪”を為さしめることだと思っていない。それはサッカー選手がフィールドで【自由に】動き回るというときの「自由」と同じ意味だと思っている。「自由」とは最大に力を発揮することだ。それは無秩序な動きでは実現しない。(p.248)

登場人物は、それぞれ、自分のパターンに従って、自由に行為する。

作者は、何かの行為を登場人物に「させる」のではなく、登場人物自体が自ずからそう行為する。

自由であるから、そう行為することが可能なのだ。

これが「小説(を書くとき)の自由」なのである。


『小説の自由』(保坂 和志, 中公文庫, 中央公論新社, 2010)
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パターン・ランゲージを編み上げることは、小説を書くことに似ている。

なぜここ数年「小説を書く」ということにずっと興味がある。それは、僕もそろそろ小説を書きたいなぁと思っているからではない。そうではなく、パターン・ランゲージを編み上げることが、小説を書くことに似ていると感じているからである。いくつものパターンを組み合わせ、ひとつの全体としてのパターン・ランゲージを仕上げるときにやっていることが、小説を書くことに似ていると感じるのである。これは、直観的に感じているということであって、まだ論理的に説明できるレベルにはないが。

僕は小説を書いたことがあるわけではないし(自作映画のストーリーのようなものはいくつか書いたことがあるけれども、それらは小説ではない)、パターン・ランゲージは小説ではない。しかしながら、小説家が「小説を書く」ということについて語っているものを読むと、自分がパターン・ランゲージを仕上げるときに行っていることに近いと感じるのである。


井庭研でパターン・ランゲージをつくるとき、僕は、映画で言う「プロデューサー」(製作総指揮)のような立場をとる場合と、「ディレクター」(監督)のような立場をとる場合の二種類がある。

プロデューサーとして関わったのは、Generative Beauty Patternsやチェンジ・メイキング・パターン、パーソナル・カルチャー・パターンなどである。プロデューサー的に関わるというのは、あくまでも、作品としてのパターン・ランゲージは、学生メンバーのリーダーのセンスでまとめあげてもらい、僕はその環境を整えたり、それを世の中に出す手助けをすることを行う。

ディレクターとしてつくった、ラーニング・パターン、プレゼンテーション・パターン、コラボレーション・パターン、旅のことば(認知症とともによりよく生きるためのヒント)である。パターン・ランゲージ作成プロジェクトでにディレクターをするときには、チームでつくってきた作品の細部に至るまで、しっかりと自分のセンスに照らして仕上げていく。具体的に言うと、すべての文章に手を入れ、すべてのイラストに手を入れる。もちろん、それまでにもずっと指示や要望を伝えてきてはいるけれども、すべてのパターンのすべての項目のすべての文を自分の手で書き直す。

この段階で、それまでのものから一気にクオリティが上がる。単にパターンの集まりであることを超え、ひとつのランゲージとして世界観をもつものになる。井庭研メンバーはそれを「先生が魔法をかけた」という言い方で表現をしている。たしかに、僕の感覚としても、ひとつひとつのパターンに命を吹き込んでいくという感じなので、「魔法」という表現はまんざら間違った表現ではないと思う。


さて、パターン・ランゲージを編み上げることと、小説を書くことはどう似ているのか。

パターン・ランゲージには小説の主人公のような登場人物はいないし、話の展開もない。パターンごとに区切られた秘訣の記述が集まったものだ。それがどう小説を書くことに似ているのだろうか。

まず最初に断っておきたいのは、「パターン・ランゲージが小説に似ている」と言っているのではない、ということだ。パターン・ランゲージと小説はまったく異なる表現である。パターン・ランゲージは小説ではないし、小説はパターン・ランゲージではない。そうではなく、「パターン・ランゲージを編み上げる」ということが「小説を書く」ということに似ていると言っているのである。

また、「(個々の)パターンを書く」ことが小説を書くことと似ていると言っているのでもない。個々のパターンは、インタビューや自分たちの経験から掘り起こして書いていく。なので、個々のパターンを書くことは小説を書くこととは異なるプロセスで行われる。ここで言いたいのは、「(個々の)パターンを書く」ことがではなく、「パターン・ランゲージを編み上げる」ということが「小説を書く」ということに似ているということである。

「パターン・ランゲージを編み上げる」というのは、すでに、個々のパターンの状況・問題・解決の記述があり、パターン名があり、それらがたくさん書き上がった状態から、互いに関係し合うひとつの全体にまとめ上げる作業のことである。このとき、パターン・ランゲージのパターンが冊子に収録されるということが重要になる。

僕らは、パターン・ランゲージを冊子に収録するときに、前から読んで読めるような順番でパターンを並べる。前から読み進めたときに、「飛んだ」感じがせず自然な流れになるように、それぞれのパターンの内容を踏まえながら収録順番を決めていく。そして、その収録順番に応じて、パターンの通し番号がつけられる。そのため、パターンとパターンがどのような関係にあるのかを見定め、そういう順番に並べていく。そして、その順番に合うように、パターンの内容を修正する。

パターン群をパターン・ランゲージに編み上げるというのは、部分を単に連結して組み立てるという作業ではなく、全体を想定しながら部分をつないでいき、そしてそれらがつくる全体を確認しながら、個々の部分を修正・調整していく、という、往ったり来たりのプロセスとなる。

そのとき、自然な感じというのは何かというと、そのパターンの「奥」にある世界で出来事がうまく流れるかどうか、ということである。パターン・ランゲージというものは、読者がパターンを読んで、自分の世界(生活)で実践してみることが期待されてつくられている。つまり、読者がパターンの冊子を前から読んでいくなかで、自分の世界の流れに照らして、イメージしやすいように書かれなければならない。もちろん、読者は多様な状況のなかでパターンを適用するので、その状況や流れを一意には決めることができない。そうであったとしても、より多くの人が自然な流れであると感じる並べ方はあるのであって、それを模索するわけである。

パターンの「奥」というのは、僕がパターンの順番を考えているときの感覚は、パターンの記述の「奥」に照射された世界での流れをつかもうとしていることから、そう表現した。ここでの「奥」の世界では、おぼろげながら登場人物がいて、その人たちが、そのパターンを読んでいたり、実践していたりする。『旅のことば』であれば、認知症のご本人や、家族が、そこには登場する。そして、日々の生活をしている状況を思い描く。

パターンの「奥」の世界の登場人物たちは、僕の意図を超えて、自由に動き回っている。そして、このパターンを読んだとき、どう感じるだろうか、どういう行動をとるだろうか、このパターンを実践した人が、次にこのパターンを実践しているのというのは、自然な流れだろうか。このパターンの次にこのパターンを読んだとして、まさにこれが必要だと思うだろうか。そういうことを何度も何度もシミュレーションする。これは、まさにパターンの奥にある世界の「物語」をつくり動かしているということである。

このときの感覚が、小説家が「小説を書く」ということについて語っていることにかなり近いと感じるのである。最終的に僕らは、パターン・ランゲージを作品とし、思い描いた物語たちはすべて背景に退いてしまう。というよりは、物語世界は最終的に消えゆく運命にあり、パターン・ランゲージにはその痕跡や残り香のようなものしか残らない。ここが、作品としてのパターン・ランゲージと小説の大きな違いとなる。


このような感覚は、コラボレーション・パターンで少し感じ始め、『旅のことば』でかなり実感し、意識できた。その意味で、僕のこれまでのパターン・ランゲージ作成の経験のなかで、『旅のことば』は別格というか、新しい展開の始まりであると思っている。


そのようなわけで、ここ数年、「小説を書く」ということについて本を読みまくっている。なんとかこの感覚を言葉にしたいと考え、読みながら考え、読みながら考えを繰り返している。これからも、Creative Reading(創造的読書)でいろいろな本を取り上げ、その力を借りながら、なんとか言葉で表現することを試みたい。
パターン・ランゲージ | - | -

Creative Reading:『ナチュラル・ナビゲーション』(T・グーリー)

昨年、書店でたまたま見つけた本がとても素敵で、素晴らしい出会いとなった。そこに書いてあることが魅力的なだけでなく、僕がパターン・ランゲージについて感じていたことや、しっかり語っていかなければならないと感じていたことを、見事に言語化してくれていた。

NaturalNavi.jpg『ナチュラル・ナビゲーション:道具を使わずに旅をする方法』(トリスタン・グーリー, 紀伊國屋書店, 2013)

Tristan Gooley, The Natural Navigator: The Art of Reading Nature’s Own Signposts, Virgin Books, 2010/2014


道具を使わずに、自然を感じ、そこに潜む意味を読んで旅をする。それがナチュラル・ナビゲーションであり、そうやって旅をする人をナチュラル・ナビゲーターという。

本書の多くの部分が、具体的に太陽や夜空、植物や地形の読み方に費やされているのだが、僕は特にプロローグから始まる冒頭部分にすごく共感し、とても気に入った。

著者は、ナチュラル・ナビゲーションに対して、単なる実践的な手段ということを超える意味を見出している。自然と関わり、自然を味わうためのものだと捉えているのだ。「ナチュラル・ナビゲーションの技能は、絶滅の危機にあるのに加え、現代社会でははなはだしく誤解されていることに気づいた」という。

かつては人々にとって生きていくための実践的な道具だったとしても、いまこの技能を現代にも通じる芸術的技法だと考える者は見当たらない。しかしそれこそが私の考えだった。ナチュラル・ナビゲーションは、芸術として扱われたときに最も美しく、力強く輝きを放つ ――― 人間の根源的な能力であって、単なる歴史のひとこまだとか、サバイバル知識と片付けていいものではない。

ここで「芸術」と書かれているが、おそらく「art」のことであり「技芸」と訳してよいだろう。

「ナチュラル・ナビゲーションが陥りがちなのは、サバイバル技術と同一視されることだ」と言い、「サバイバルテクニックとして自然事象を使って方位を定める方法からは、本来ナチュラル・ナビゲーションが持っている豊かな魅力のほとんどがそぎおとされてしまっている」。

そうではなく、ナチュラル・ナビゲーションはもっと豊かなものなのだ。著者は自らの経験を振り返りこう言う。

旅のなかでわたしが一番熱くなれるのは、つながっているという感覚、自分を取り巻く世界との触れ合いの部分だった

旅を続ける自分を取り巻く自然を理解すること、わたしの未来はむしろそのほうにあった。

「方角を知る方法が、いくつかの『コツ』という形で教えられることもあるが、自然の事象を使ってお手軽に方位を割り出そうとすると、自然との確かな絆を感じる機会を失う恐れがある。方位を知ることと、方位を解ることとは微妙に異なるーーー自然界を深く理解せずとも、自然の事物を手がかりにものの数秒で方位を見つけだすことは可能なのだ。方位を解るためには、自分たちが移動している世界を根源から理解しなければならない。自然の事象を利用して方位を導き出そうとする目的が、自分の経験を深めることであるなら、方法を駆使するよりも、その方法がなぜ使えるのかを理解する方が重要だ。それがサバイバル・ナビゲーションとナチュラル・ナビゲーションのそもそもの違いなのである。」

つまり、著者が大切だと言っているのは、目的を達成するために自然界の情報を利用するということではなく、自然を深く理解するということ、そして自然とのつながりを感じることなのである。

パターン・ランゲージをつくるときにも、僕も同じことを大切だと考えている。僕らの経験や知識を言語化するというよりも、いま捉えようとしている物事をより深く理解し、その世界を味わっているという感覚がある。つくるときには、確実にそうだ。

そして、そうやってつくられたパターン・ランゲージをどうやって「使う」というときも、単になにかのアクションを実践できる、ということではなく(それはきっかけとして重要だとしても)、そのパターン・ランゲージが捉えている世界観(物事の捉え方)で、世界を見てみること、体験してみることの方が重要なのだ。

『旅のことば』で「認知症とともによりよく生きる」ためのパターン・ランゲージをつくったが、あの本に書かれている個々の工夫を共有することは重要だが、それよりももっと大切なのは、あのパターン・ランゲージで捉えた世界観を共有するということなのだ。

その意味で、僕は中埜博さんが「パターン・ランゲージは物語である」ということを言った意味を今はよく理解できるし(以前はその真意をつかめていなかったと今となっては思う)、ひとつの世界観の表現・提示なのだ。

この点が、個々のパターンを実践してみるデザイン・ワークショップではなく、パターンを用いた対話ワークショップの方に僕が惹かれている理由でもある。

ナチュラル・ナビゲーションについて読みながら、すべてパターン・ランゲージの話として共感した。『The Nature of Order』にも通じるものがあると思う。

素敵な本との出会いに感謝!


『ナチュラル・ナビゲーション:道具を使わずに旅をする方法』(トリスタン・グーリー, 紀伊國屋書店, 2013)
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Creative Reading:『物書きのたしなみ』(吉行淳之介)

年末に読んだ本のなかに、『物書きのたしなみ』(吉行淳之介, 実業之日本社, 2014, 原著1988)がある。

その本に収録されている「私の文章修業」というエッセイに、次のような文章が登場する。

言うまでもないことだろうが、文章というものはそれだけが宙に浮いて存在しているわけではなく、内容があっての文章である。地面の下に根があって、茎が出て、それから花が咲くようなものである。その花を文章にたとえれば、根と茎の問題が片付かなくては、花は存在できないわけである。
 そこが厄介なところで、おまけに一つの作品ができ上ると、いったんすべてが取り払われて、地面だけになってしまい、またゼロからはじめなくてはならない。その上、その土地の養分はすべて前に咲いた花が使い切ってしまっているので、まず肥料の工夫からはじまる(土壌と根と茎が十分なかたちで揃えば、おのずから立派な花が咲くとおもっていいのだが、やはりその花の様相を整えることが必要である。ここではじめていわゆる「文章」が独立した問題として出てくる。・・・下部構造がしっかりさえしていれば、花の整え方はその人の個性に属することで、かなり歪んだ花のかたちでもその人にとってはそれでいいわけである)。(p.36)


何かをつくるということを、植物をメタファーとして捉えるということは、しばしばある。それでも、この文章に僕が惹かれたのは、まさに最近、庭でいろいろな植物を育てているからだろう。ひとつ作品ができあがると、すべてが取り払われて養分のない地面だけになるという感覚は、作品をつくる(本や論文を書く)という経験にも、植物を育てる経験にも完全に当てはまる。

もっと言えば、一緒に研究をしてきた学生たちが力をつけたころに巣立っていく、というのも同じような感覚だ。なんだ、結局、僕がやっていることは同じようなことなのだな、とこの文章を読んで、はたと気がついた。

そして、学問の潮流、いま生きている時代、ひとつひとつの研究テーマの探究期間、大学の年度、プロジェクトの活動期間、季節、毎週の授業 ――― このような幾重にもなる重層的なリズムのなかで、絶えず自分と周囲が更新されていく、そういう生活・人生を生きているのだなと感じた。


現在、このような仕事・生活をしているのは、20年前は想像もしていなかった。大学院の修士に上がるときにも、修飾するつもりでいたので、博士に進学することも、ましてや大学で研究・教育をすることになることは想定していなかったからである。大学生のころから「学問を究めたい」と考えて勉強をしてきたわけではないのだ。

そのあたりは、本書の「文学を志す」というエッセイに書かれていることと重なる。吉行は次のように始めた。

文学を志すという明確な姿勢を取ったことがあったかどうか思い出してみると、少なくともいわゆる作家になる以前にはなかったようだ。(p.71)


そして、自身の遍歴を語った上で、次のようにまとめている。

いろいろの偶然が重なって、現在作家というものになっている。そして、そのことに、このごろでは宿命のようなものを感じている。これまでは滓が沈殿して自然発生的に作品を書いていた傾向が強かったが、ようやくいくぶん自分の方向というものが分かりかかってきた。作家として死ぬまで書いてゆくほかなさそうだ、という抜きさきならなぬ気持ちもでてきた。ここで、あらためて、文学を志したいとおもう。(p.78)


この気持ち、なんだかわかる。しかし、おそらく10年前には、この気持ちは今ほどはわからなかっただろう。でも、今はよくわかる。

そして、この後に続いて「方向が分かると同時に、自分の限界も分かってきた」ということが書かれているが、それも最近実感するところだ。自分に限界の枠をはめたくはないと常々思っているが、現実問題として「自分の限界」を感じることがしばしばある。35歳を過ぎるというのはそういうことだ、と昔誰かが言っていたのを思い出す。


あらためて、(新しい)学問を志したいとおもう。



Monokaki.jpg『物書きのたしなみ』(吉行淳之介, 実業之日本社, 2014, 原著1988)
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Creative Reading:『天才たちの日課』(メイソン・カリー)

一昨日、書店で出会った『天才たちの日課: クリエイティブな人々の必ずしもクリエイティブでない日々』は、いままさに僕が求めていた本だった。

最近「書く」ということにまつわるパターン・ランゲージをつくり始めていて、これには作家たちがどのような生活を送っていたのかということが含まれる。この本には、小説家、詩人、作曲家、思想家など、なんと 161人の創作生活のスタイルが紹介されている。1人あたり1ページ〜3ページくらいで、伝記やインタビューからの引用も多い。

ふだん自分の好きな作家のエッセイや伝記は読んでも、なかなか幅広く情報を収集するのは難しい。そのとき、本書のような文献は、その幅を広げてくれるので本当に助かる。しかも、1人あたりの記述が短く、創作生活のスタイルだけに注目して書かれているため、共通点がつかみやすい。

この本を読んで、まず感じたのは次のことである。

それは、午前中に書いている(つくっている)人がとても多いということだ。午前中の方が、身体が疲れておらず頭が冴えているということと、いろいろな邪魔が入りにくいからだという。たいてい朝起きてコーヒーを淹れて、書斎にこもってドアを締めて書く。多くの人が、午前中のその時間を死守していた(朝食や昼食をどの時間にとるのかは、家族・子どもの有無など他の要因によっても影響されているようだ)。


例えば、19世紀イギリスの小説家アンソニー・トロロープは、「毎朝五時半に机に向かうこと、そして自分を厳しく律することが私の習慣だった」(p.50)と語っている。こうして、「一日に普通の小説本の十ページ以上書くことができ、それを十ヵ月間続けると、一年で三巻シリーズの小説が三作できあがる」というわけである。

トーマス・マンも、朝に書く人であった。

九時に書斎に入ってドアを閉めると、来客があっても電話があっても、家族が呼んでもいっさい応じない。子どもたちは九時から正午まではぜったいに物音をたてないように厳しくしつけられた。その時間がマンのおもな執筆時間だった。その時間帯に頭脳がもっとも活発に働くため、そのあいだに仕事をすませてしまおうと、自分自身に大きなプレッシャーをかけていた。(p.63-64)


その結果、正午までにできなかったことは、翌日にまわし、また翌日の午前中に続きを書くのだという。

アーネスト・ヘミングウェイも同じように朝書く人であった。彼は言う。

取りかかっているのが長編であれ短編であれ、毎朝、夜が明けたらできるだけ早く書きはじめるようにしている。だれにも邪魔されないし、最初は涼しかったり寒かったりするが、仕事に取りかかって書いているうちにあたたかくなってくる。まずは前に書いた部分を読む。いつも次がどうなるかわかっているところで書くのをやめるから、そこから続きが書ける。そして、まだ元気が残っていて、次がどうなるかわかっているところまで書いてやめる。そのあと、がんばって生きのびて、翌日になったらまた書きはじめる。朝六時から始めて、そう、正午くらいまで、もっと早く終わるときもある。(p.84)


このように午前中(昼すぎまで)に執筆をするという作家には、ウィリアム・フォークナー、村上春樹、ヘンリー・ジェイムズ、マヤ・アンジェロー、リチャード・ライト、フラナリー・オコナー、チャールズ・ディケンズ、スティーヴン・キング、バーナード・マラマッド、ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ、ウィラ・キャザーがいる。また、心理学者で精神医学者のカール・ユングも、午前中に2時間集中して執筆したという。

ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテは、朝に取り組む意義を次のように述べている。

いま私は『ファウスト』の第二部に取り組んでいるが、書けるのは早朝だけだ。その時間帯なら、睡眠によって気力が回復しているし、日々のつまらない問題にまだ煩わされていないからだ。(p.230)


午前中に執筆している人たちは、午後には散歩に出かけたり、人に会ったり、手紙を書いたり、午前中に手書きで書いた原稿をタイプライターで打ち込んだりする。散歩を日課としている人がとても多かった。結構長い散歩をする人が多く、そうでない場合も複数回散歩に出かける人もいる。そして、昼寝をしている人も思った以上に多かった。

文章を直したりする(校正)のは、この午後の仕事に入るようだ。そして、昼や午後からワインやウィスキーなどのお酒を飲む人も多い。そして、お酒を飲みながら夕食を楽しみ、読書をしたりして、早めにベッドに入り眠る。

ウィラ・キャザーは、次のように語る。

私にとっては、午前中が書くのにいちばんいい時間なんです。ほかの時間帯には家事をしたり、セントラルパークを散歩したり、コンサートに行ったり、友人のやっているなにかを見にいったりします。いつも体調が万全になるように、元気でいるように、心掛けていますよ。書くためには、歌うのと同じくらい健康でいないといけないから。(p.298)


作家たちの一日のスケジュールのなかで他に印象的だったのは、手紙を書く(返事を書く)時間帯だ。いま、僕らは日々(電子)メールを読み書きする時間が結構あるわけだが、昔の人も手紙を書くのに長い時間を費やしていた。ここで注目すべきなのは、そのような手紙を書くことを、午後にやっているということである。

僕は、ふだん朝一で仕事のはじめにメールをチェックしているが、もしかしたらこれは創作との両立という意味ではあまりよくない習慣なのかもしれない。午前中は一人の世界にこもり、書き下ろしの執筆に集中する時間とする方がよいかもしれないと感じた(もちろん、執筆以外の仕事との兼ね合いもあるので、時期によっては難しいだろうけれども)。


さて、話を作品の執筆に戻すと、午前中だけでなく、昼食の後に再び書くという人たちもいる。ジャン・ポール・サルトルは、「午前中に三時間、夕方に三時間、それが私の唯一の決まりだ」(p.148)と語っている。

詩人のW・H・オーデンは、午前七時から十一時半までのいちばん頭が冴えている時間に執筆した後、昼食後も再開し、夕方まで仕事をしたという。セーレン・キルケゴールも、午前中に執筆し、長い散歩の後、また執筆を再開し夜まで書いた。シモーヌ・ド・ボーヴォワールも、「まずお茶を飲んで、十時ごろに仕事を始めて、一時まで続ける。そのあと友人と会って、五時にまた仕事に戻って、九時まで。」執筆した。

伝記作家エドマンド・ウィルソンは、9時から書き始め、途中仕事机で昼食を食べ、そのまま午後3時か4時まで書いたというし、ジョイス・キャロル・オーツは、朝八時くらいから午後一時まで執筆し、昼食と休憩のあとまた4時から7時ごろまで執筆をしたという。

どの場合も、集中して執筆できるのは2・3時間程度だということで、その時間を数セット(1〜3セット)、それぞれの生活のなかで確保している、ということのようだ。チャック・クロースは次のように語っている。

一度に三時間以上働いたら、ほんとに調子が狂ってくるんだ。だから、理想は三時間働いて、昼食をとって、また三時間働き、そのあと休憩。夜にまた仕事を再開できることもあるけど、基本的にはそれは意味がない。ある時点を超えるとミスが増えて、翌日はそれを修正するのに時間がかかってしまう。(p.102)


若いころ一日中執筆していたヘンリー・ミラーは、歳をとるにつれて午後の執筆はしない方がよいと考えるようになったという。午前中にしっかり2・3時間集中する方がよいことがわかったのだという。同様にジョン・チーヴァーも若い頃は、午前と午後の両方に執筆をしていたが、後には午前中だけに書くようになったという。

アンソニー・トロロープは次のように語る。

文筆家として生きてきた者 ――― 日々、文学的労働に従事している者 ――― ならだれでも、人間が執筆をするのに適した時間は一日せいぜい三時間であるという私の意見に賛同するだろう。しかし、文筆家はその三時間のあいだ、途切れることなく仕事ができるよう、訓練すべきである。つまり、ペンをかじったり、目の前の壁をみつめたりすることなく、自分の考えを表現する言葉が見つかるように、おのれの頭を鍛えなければならない。(p.51)


詩人のフィリップ・ラーキンは、「二時間以上やると、堂々めぐりに陥ってしまうから、そこで二十四時間あいだを開けたほうがずっといい。そのあいだに潜在意識かなにかが閉塞状態を打ち破ってくれて、また先へ進むことができるようになるんだ」(p.198)と語っている。

マーティン・エイミスも、次のように言う。

みんな僕をコツコツきちょうめんにやる人間だと思っているけど、自分では短時間のアルバイトをしているような感じなんだ。じっさい、十一時から一時まで休みなく書けたら、それでもう一日の仕事としてはじゅうぶん。そのあとは本を読んだり、テニスやスヌーカーをしたりしていい。二時間。たいていの作家は二時間集中して書けたら、じゅうぶん満足すると思う (p.180)


もちろん、作家のなかには夜に執筆するという夜型の人もいる。書くこと以外の勤務仕事や授業・教室をもっている人たちや、夜に書くことが習慣になっている人たちだ。フランツ・カフカやマルセル・プルースト、ギュスターヴ・フローベル、ジョルジュ・サンド、オノレ・ド・バルザックなどである。

しかし、そういう人はたいてい、昼ころまで寝ていたり、なかなか寝つけないということで薬を飲んでいたりと、つらそうな面も感じられる。他の作家のなかには、若い頃夜型だった人でも、歳をとるにつれ、朝型に切り替える人がいるのもよくわかる。

例えば黒人女性で初めてノーベル文学賞を受賞したトニ・モリソンは、最初は夜に書いていたが、後に「日が暮れるとあまり頭がまわらなくて、いいアイデアも思いつかない」ために、早朝書くことに切り替えたという。

作家はみな工夫して、自分がつながりたい場所へ近づこうとする。自分がメッセンジャーになれる場所、執筆という神秘的なプロセスにたずさわることができる場所に。私の場合、太陽の光がそのプロセスの開始のシグナルなの。その光のなかにいることじゃなくて、光が届く前にそこにいること。それでスイッチが入るの。ある意味でね (p.100)

朝早く起きて書くということがこういうことなのだと考えると、なかなか素敵だ。


本書で取り上げられている人たちのなかには、インスピレーションを信じている人は思いのほか少ない。その理由を、チャック・クロースが端的に述べてくれている。「インスピレーションが湧いたら描くというのはアマチュアの考えで、僕らプロはただ時間になったら仕事に取りかかるだけ」(p.103)だと。

その代わり、多くの人が、日々の生活における習慣を重視していた。ヘンリー・ミラーは次のように語る。

優れた洞察力が働く瞬間瞬間を維持するには、厳しく自己管理をして、規律ある生活を送らなければならない (p.86)


そのような毎日の繰り返しの重要性について、村上春樹は「繰り返すこと自体が重要になってくるんです。一種の催眠状態というか、自分に催眠術をかけて、より深い精神状態にもっていく」(p.97)のだと言う。

ジョン・アップダイクも次のように語る。

書かないことはあまりにも楽なので、それに慣れてしまうと、もう二度と書けなくなってしまうから。だから決まった習慣を守るようにしている (p.292)


だからこそ、「一日に少なくとも三時間は、いま取り組んでいる新作のために時間を割くようにしている」という。そして、「しっかりと習慣を守ること、それが最後までやり遂げるコツだ」という。

「書く」ということと、書き続けるための「習慣」というものは、相互に高め合う関係にある。書き続けることが唯一書くことを可能にする。この円環的な営みのなかに入り、それを続ける努力をしなければ、作品をつくり続けることはできない。

ここで、ドイツの詩人で哲学者のフリードリヒ・シラーの言葉を肝に銘じたい。

我々は貴重な財産 ――― 時間 ――― を軽んじてきた。時間の使い方を工夫することによって、我々は自分をすばらしい存在に変えることができる (p.232)

そのとき、どのような時間の使い方をするか、そして、どのような習慣をつくるのかは、自分次第だ。

絶対的な方法などない。・・・きちんと規律が守られてさえいれば、どんなやり方で書こうがかまわない。もし規律が守れないような人間なら、どんな呪術的行為も効き目がないだろう。秘訣は時間を ――― 盗むのではなく ――― 作ること。あとは書くだけだ。 (p.351)

これは、バーナード・マラマッドの言葉である。

そして、多作で知られるジョイス・キャロル・オーツの次の言葉も、私たちを勇気づけてくれる。

書いて書いて書きまくり、書きなおす。そうやってまる一日かかって、たったの一ページしか書けなかったとしても、一ページは一ページで、それが積み重なっていくの (p.101)


さらに、ジョゼフ・ヘラーの次の言葉も。

一日に一ページか二ページを週に五日間続ければ、一年で三百ページになる。それでじゅうぶんだよ (p.204)


毎日、コツコツと書き続けることが、なにより大切なのだ。

「書く」ことと、書き続ける「習慣」、この二つの円環的構造を立ち上げることが、書く生活でもっとも大切なことなのだということを、僕は本書から学ぶことができた。


DailyRituals.jpg『天才たちの日課: クリエイティブな人々の必ずしもクリエイティブでない日々』(メイソン・カリー, フィルムアート社, 2014)

Mason Currey, DAILY RITUALS: How Artists Work, Knopf, 2013
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Creative Reading:『知的生産の技術』(梅棹忠夫)

最近「パターンの種」をカードに手書きで書くことにしたので、梅棹忠夫の『知的生産の技術』を読み直してた。

いま、「読み直して」と書いたが、ずいぶん前から持ってはいたが(しかも間違って何回か買ってしまった)、実はあまりきちんと読んでいなかったようだ。おそらく読むときのこちらの視点が定まらなかったために、面白く読めなかったのだろう。

今回は、自分のパターン・ランゲージのつくり方(特にカードの話)と重ねて読んだので、かなり面白く読むことができた。

まずなんといっても、この本を再読してもっとも興味深かったのは、ノート(のちにカード)に何を書くのかという部分である。僕も20年近く小さなノート(メモ帳)を持ち歩き、ことあるごとにメモをとってきたが、本書で明言されているのは、そのときどきの「発見」を「文章」として書くということであった。

わたしたちが「手帳」に書いたのは、「発見」である。まいにちの経験のなかで、なにかの意味で、これはおもしろいとおもった現象を記述するのである。あるいは、自分の着想を記録するのである。(p.25)

心おぼえのために、みじかい単語やフレーズをかいておくというのではなく、ちゃんとした文章でかくのである。(p.25)

「発見の手帳」の原理は、・・・なにごとも、徹底的に文章にして、かいてしまうのである。(p.26)


文章にするのは、実際問題、結構難しいのではないだろうか。それはどのように実践しているのだろうか。

「発見」には、一種特別の発見感覚がともなっているものである。・・・「発見」は、できることなら即刻その場で文章にしてしまう。もし、できない場合には、その文章の「みだし」だけでも、その場でかく。あとで時間をみつけて、その内容を肉づけして、文章を完成する。みだしだけかいて、何日もおいておくと、「発見」は色あせて、しおれてしまうものである。「発見」には、いつでも多少とも感動がともなっているものだ。その感動がさめやらぬうちに、文章にしてしまわなければ、永久にかけなくなってしまうものである。(p29)


まず「発見」に特化するというのは、とてもよい。持ち歩いているノートには、僕はいつもいろんなもの(発見も含む)を書いているので、ここは違った点。あと、文章ではなく、フレーズや図などでかなり適当なメモを取っていた。実際に今後、僕がノートに文章で書くのかは別として、こういう実践をしていたのだ、ということが興味深い。

「発見の手帳」をたゆまずつづけたことは、観察を正確にし、思考を精密にするうえに、ひじょうによい訓練法であったと、あたしはおもっている。(p.27)


このことは、いまでいうならば、文章でなくても、スケッチでも図示でもよいだろう。とにかく、発見を自分なりの表現で書いていくということである。そして、ここから、ノートではなくカードに書くということに発展した、という話が出てくる。

じっさいをいうと、わたしはいまでは、ここにしるしたとおりの形の「発見の手帳」は、もうつかっていない。いまでは、その機能をカードで代行させているからである。「発見の手帳」における一ページ一項目の原則とか、索引つくりによる整理などの方法が、そのまま進展してカード・システムにつながったのである。(p.32)

「発見の手帳」も、ずっとまえからカードにかわっているので、いまでは、「発見のカード」というべきであったかもしれない。(p.37)


京大型カードは、12.8cm×18.2cmのB6判である。たしかに発見を文章として書くには、そのくらいのサイズがよいかもしれない。僕はパターンの種をメモする目的なので、A6判にしているけれども(A6判のメリットは、パソコンで作成したカードをA4に4カード分印刷して裁断すれば、同じサイズにできるということである)。

ということで、カードの話になると、僕が「パターンの種」をカードに文章で書いているのは、まさにこの「発見のカード」そのものだと気づいた。僕はこれを読んで始めたわけではないので、40年ほど前にすでに梅棹忠夫が実践していたのだと知り、心強く思った。しかも、40年前どころか、もっと昔にそういうことをやっていた人がいるらしい。

カードを「発見の手帳」ふうにつかった元祖は、新井白石であるらしい。この一八世紀の文化人は、ふところにいつでもカードの束をしのばせていて、何かをおもいつくと、すぐにかきつけた。カードはもちろん和紙であり、かく道具はもちろんん矢立だけれど、原理的には今とまったくおなじである。(p.47)


このような発見のカードは、分類して貯蔵することが目的ではない。それを用いて知的生産を行うためにある。カードは知的生産の道具なのである。

カードの操作のなかで、いちばん重要なことは、くみかえ操作である。知識と知識とを、いろいろにくみかえてみる。あるいはならべかえてみる。そうするとしばしば、一見なんの関係もないようにみえるカードとカードのあいだに、おもいもかけぬ関連が存在することに気がつくものである。そのときには、すぐにその発見もカード化しよう。そのうちにまた、おなじ材料からでも、くみかえによって、さらにあたらしい発見がもたらされる。これは、知識の単なる集積作業ではない。それは一種の知的創造作業なのである。カードは、蓄積の装置というよりはむしろ、創造の装置なのだ。(p.58)


カードを「創造の装置」として使う。そうそう、まさにこれだ。「パターンの種」を書いたものを、後にKJ法でまとめていくので、そういうことのために使うのである。僕のパターン・ランゲージの作成では、パターンの種を、もともとは手書きで付箋(ポストイット)に書いていたものを、パソコンでA6(A4を4分割)で書くようになり、そして、同じA6サイズの手書きのカードに書くことにした。どの場合も、パターンの種をパターンへと昇華させるために創造的に使うためのものだ。

本書のなかには、知的生産の道具としてのカードに対して、反感や不信感があったという話が書かれている。それに対する考えは、道具一般に言えることであるので、当然、創造・実践の道具としてのパターン・ランゲージにもそのまま言える。

道具はしょせん道具である。道具はつかうものであって、道具につかわれてはつまらない。道具をつかいこなすためには、その道具の構造や性能をよくわきまえて、ちょうど適合する場面でそれをつかわなければならない。どんな場面でもそれをつかえる万能の道具というものはない。また、道具というものは、つかいかたに習熟しなければ効果がない。道具の形をみただけで、ばかにすることもないのである。おそろしく簡素な形の道具でも、つかいなれればまことに役にたつ。(p.62)


これは、道具としてのパターン・ランゲージにも言えるだろう。パターン・ランゲージはしょせん道具である。パターン・ランゲージはつかうものであって、パターン・ランゲージにつかわれてはつまらない、と。そして、そのためには、パターン・ランゲージをどのように使えばよいのかを習熟する必要がある。そして、実は、ここにまた熟達の領域があるのであり、パターン・ランゲージを使いこなすためのパターン・ランゲージというものが再帰的に登場することになる。

本書『知的生産の技術』には、冒頭に以下のようなくだりがある。

学校では、ものごとをおしえすぎるといった。それとまったく矛盾するようだが、いっぽうでは、学校というものは、ひどく「おしえおしみ」をするところでもある。ある点では、ほんとうにおしえてもらいたいことを、ちっともおしえてくれないのである。どういうことをおしえすぎて、どういう点をおしえおしみするか。かんたんにいえば、知識はおしえるけれど、知識の獲得のしかたは、あまりおしえてくれないのである。(p.2)


これはその通りであり、だからこそ、僕らは学びのパターンを共有するための「ラーニング・パターン」をつくった。そして、もっと広く捉えると、人間行為のパターン・ランゲージ(パターン・ランゲージ3.0)というのは、本書でいうような「知的生産の技術」を共有するための方法であると言うこともできる。

そして、梅棹は言う。

この本は、いわゆるハウ・ツーものではない。この本をよんで、たちまち知的生産の技術がマスターできる、などとかんがえてもらっては、こまる。研究のしかたや、勉強のコツがかいてある、とおもわれてもこまる。そういうことは、自分でかんがえてください。この本の役わりは、議論のタネをまいて、刺戟剤を提供するだけである。(p.20)

知的生産の技術について、いちばん【かんじん】な点はなにかといえば、おそらくは、それについて、いろいろとかんがえてみること、そして、それを実行してみることだろう。たえざる自己変革と自己訓練が必要なのである。(p.20)


パターン・ランゲージも読んだだけでそれをマスターしたことにはならない。そのパターンをどうしたら自分で実践できるのかを考え、それを実際に試し、そこから学び、自分なりにチューニングしていく。そういうことが不可欠である。パターン・ランゲージの使い方にも秘訣があり、習熟が必要となるのである。

そうなると、先に引用した「知識はおしえるけれど、知識の獲得のしかたは、あまりおしえてくれない」という話は、そこで話を終えることはできないということに気づく。「知識の獲得のしかたをどのように獲得するのか」という問題は未解決のままだからだ。そのとき「自己変革と自己訓練が必要」だというのは正しいが、本当は、話をそこで終わることはできないだろう。ここは、僕らに残された宿題だと感じる。

その宿題は、僕はパターン・ランゲージでいけるのではないかと思っている。パターン・ランゲージ(3.0=人間行為)は、「知識の獲得のしかたをどのように獲得するのか」ということもまたパターン・ランゲージで記述・支援することによって、学習の階層を超えて機能する可能性がある。グレゴリー・ベイトソンの学習I、学習II、学習IIIのどのレベルでも、パターン・ランゲージ(3.0)は対象とし得る。そこに、パターン・ランゲージが、従来の(個別レベルを想定した)方法論とは違うポテンシャルをもっているのだと、僕には感じられるのである。このあたりは、今後もっと詰めて考えていきたい。


最後に、本書の「読書」の章に「創造的読書」ということが書かれていた。僕がこれまで、本から刺激を受けて新しい発見や発想にむすびつけていく読み方を、井庭研流の「Creative 〜」のひとつとして「Creative Reading(創造的読書)」と読んできたが(まさにこのブログのカテゴリーがそうであるように)、ここにすでに書かれていた。40年前にすでに書かれていたとは!この本のすごさを改めて実感した瞬間であった。

読書においてだいじなのは、著者の思想を正確に理解するとともに、それによって自分の思想を開発し、育成することなのだ。・・・本の著者に対しては、ややすまないような気もするが、こういうやりかたは、いわば本をダシにして、自分のかってなかんがえを開発し、そだててゆくというやりかたである。・・・このやりかたなら、読書はひとつの創造的行為となる。著者との関係でいえば、追随的読書あるいは批判的読書に対して、これは創造的読書とよんではいけないだろうか。(p.114-115)


今後も、このようなCreative Reading = 創造的読書を続けていきたい。
そして、40年前には発想・実践されていなかった新しい方法で、「知的生産の技術」をアップデートしたい。そう思い、お気に入りの1冊になった。


Chiteki.jpg『知的生産の技術』(梅棹忠夫, 岩波新書, 岩波書店, 1969)
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Creative Reading:『探求の共同体』(マシュー・リップマン)

マシュー・リップマンの『探求の共同体:考えるための教室』を読んだ。

本書のテーマは「探求の共同体」であり、「教室を探求の共同体に変える」ということについて論じられている。

「教室を探求の共同体に変える」ことは、いかにして可能なのか。リップマンは、「あるときには紙と鉛筆で練習問題を繰り返し、次には自由に遊ばせるといった、厳格な時間と無計画な時間とを交代して行うだけでは解決は訪れない」という。そうではなく、「計画性と創造性の両方を育むような方法を発見すること」が重要だと指摘する。つまり、教科学習と総合的なプロジェクト学習を交代して行うのでは、だめだというわけである。

ジョン・デューイが述べたように 「反省的に考える習慣を作る【方法】は、【興味】を引き起こし、興味を導く【条件】を整えることにある。つまり、経験されたものの間に連関を作り出すことである。それが、未来のさまざまな場面で【示唆】を促し、考えの連続に【連関】を与える問題と目標を作る」 のである。連続性を欠くカリキュラムは、経験の連続性をなんとか学ぼうとしている子どもたちにとっては、なんの模範にもならない。子どもは何が起きているのかを知る鋭い感覚を持っている。しかし、自分で物事を連続的にとらえる方法を、いつも理解できているわけではない。(p.12)


ここでリップマンは、物語のような教科書の重要性を指摘するが、僕の実践でいうならば、それこそが井庭研で行っている研究(探究)プロジェクトということになる。実際に何かを「つくる」ことを通じて学ぶという、「つくることによる学び」の実践である。

例えば、今年の例で言うならば、認知症の方がどのような工夫をして前向きに生きているのかをまとめたパターン・ランゲージをつくるプロジェクトは、それをつくる過程で、認知症のことについても、インタビューの仕方についても、文章の書き方も、表現の仕上げ方も、ビジュアル化の秘訣も、冊子のデザインについても、パターン・ランゲージとは何かや、パターン・ランゲージをつくるときには何が大切なのか、ということすべてが学びとなる。そこには、国語や美術や歴史という区分はない。ひとつながりの経験のなかに、学ぶべきことがいろいろなかたち、いろいろなタイミングで登場する。

リップマンは、探求の共同体で起きることを、以下のように紹介している。

生徒たちが敬意を持ちつつ互いに意見を聞き、互いの意見を生かしながら、理由が見当たらない意見に質問し合うことで理由を見いだし、それまでの話から推論して補い合い、互いの前提を明らかにするということである。探求の共同体は、既存の学問の領域の中に閉じ込められずに、探求が誘う場所へと進み続ける。対話は論理に従おうとし、ヨットが向かい風を斜めに受けてジグザグに前に向かうように、真っ直ぐにではなく進んでいく。しかしそうしているうちに、その対話の流れは、思考の流れに似てくるのである。結果、参加者はその流れを内面化し、その対話の【手順】に似た【動き】の中で考えるようになる。つまり、その対話の流れこそが思考であると考えるようになっていくのだ。(p.22)


まさに、井庭研のプロジェクトで起きていることそのものである。

そして、興味深いのは、「その対話の流れは、思考の流れに似てくる」という指摘である。そして、参加者は「その対話の流れこそが思考であると考えるようになっていく」という。これが、コラボレーションによる創造である。僕に言わせれば、その「コラボレーションによる創造」と「思考における創造」は、単にアナロジカルに似ているというのではなく、創造の観点からみるとそれらは同じ過程である。そのことを直接的に指摘するのが、僕の「創造システム理論」である。

それはどういうことかを、以下の引用を出発点として考えてみたい。

探求のテーマとなった事柄については、私たちはもはやそれまでの信念を持ち続けることができない。一度探求が始まれば、信念をいったん保留させるような証拠が提示され、探求が締めくくられるまでは、何事も疑ってかかることが行われなければならないからだ。探求を進める中でたえず自己修正を繰り返し、それがいろいろな形で落ち着くことによって、むやみな懐疑主義に陥る土壌も徐々になくなっていくだろう。あるテーマについての探求の終わりに、問いが解決されて結論に至ることで、また探求の結果、再構築され、さらに練り上げられた新たな信念を持つこともできるようになるだろう。(p.60-61)


ここが、本書のベースとなっているチャールズ・S・パースのいう「探求」(探究:inquiry)と、僕の「創造システム理論」が重なる部分である。創造システム理論では、何かをつくるとき、何らかの発見(気づき:discovery)が連鎖的に続いていく。ここでいう発見というのは、「科学的発見」や「発明」というような「大きな発見」(Discovery)というよりは、そのプロセスにおける小さな気づき(discovery, finding)のことを指している。どのような大発見も、その過程においては、小さな発見(気づき)が無数生じている。それらの発見は、あらゆる発見が起き得るのではなく、その当該の創造に関わる発見だけが、その創造において意味をもつ。それをシステム理論的に捉えるならば、創造は発見の連鎖であり、その発見は現在進行形の創造の要素として生じるという意味で「オートポイエティック」(autopoietic)であるというのが、創造システム理論で主張していることの本質である。発見の連鎖が創造プロセスの本質であるが、その発見は現行の創造に依存している。この円環的な関係を表すシステム理論の概念が「オートポイエーシス」(autopoiesis)なのである。

システム理論の性質上、どうしても、一般的な創造を語らざるを得ず、それゆえに説明が抽象的になりわかりにくくなるのであるが、上述のリップマンのような説明を介することで、少しは理解がしやすくなるかもしれない。まず、「探求」は、いまはない何らかの結論に至るということであるから、僕の言う意味での「創造」と同義である。それゆえ、上述の「探求」は「創造」と読み替えて読むことができると考えよう。ある「探求」(創造)が始まると、絶えず「疑念」(問い)が生じ、それらの疑念が次々に「解決」されていく(問いに対する答えが発見されていく)。これが発見の連鎖ということで描きたい創造プロセスの姿である。

さて、本書のテーマは探求であり、それは創造性に関わるので、創造的な思考についての考察も多い。なかでも、橋渡し、転移、翻訳などで求められる「アナロジーを用いた推論能力」についての次の指摘はとても重要だ。

このようなスキルは、科学的領域だけでなく、芸術や人文学の領域でも必要となるものであり、創造的スキルの中では最も包括的なものであり、分析的スキルの中では最も想像力を用いるものである。異なった体系間の翻訳やその中での知識やスキルの転移には、創意工夫に富む、柔軟な知性が必要とされる。そうした知性を育てるには、今私たちがたとえば算数の教育に注ぐのと同じだけの熱心さでアナロジーを用いた推論能力を育む実践に取り組む必要があるだろう。(p.74)


この部分が重要なのは、単に「柔軟な知性」の重要性を指摘しているからではない。そういうことは、これまでにもたくさん論じられてきた。そうではなく、「算数の教育に注ぐのと同じだけの熱心さでアナロジーを用いた推論能力を育む実践に取り組む必要がある」という主張なのである。いまの個別教科・個別分野の勉強と同じくらいの熱心さで、アナロジーによる推論を実践するような教育が必要であるという話なのだ。知っての通り、現在の学校教育では、このような実践はなされていない。

興味深いことに、井庭研ではまさにこういうことを日々実践している。ばらばらな出所の様々な経験たちに類似性を見いだしてパターンとして抽出したり、分野を超えてパターン・ランゲージの方法が活用しようと試みたりしているなかで、まさにアナロジーによる推論を日々実践しているのである。新しいテーマのパターン・ランゲージのプロジェクトを始めるときには、建築について書かれたアレグザンダーの著作を読みながら、学びやプレゼンテーションやコラボレーション、生き方などの話として読み替えてみる、というようなこともする。つまり、リップマンが言うような「算数の教育に注ぐのと同じだけの熱心さでアナロジーを用いた推論能力を育む実践に取り組む」ためには、「自分たちなりのパターン・ランゲージをつくる」という教育がひとつの手段として有力だと考えることができるだろう。

リップマンは「探求の共同体」では、「探求の方法」を「暫定的にではあるが受け入れることが求められる」と指摘する。この点はとても重要な点である。

一般的な知識伝授型の教育実践から、新しい探求型の教育実践に目を向ければ、複数の実体的な信念を「知識」と偽って教え込む必要がないことに気づく。その代わりに、生徒たちは探求の方法を暫定的にではあるが受け入れることが求められる。これは、探求の共同体のメンバーとして受け入れられるため手続きなのである。(p.58)


例えば、井庭研でパターン・ランゲージをつくるというプロジェクトで探求するのであれば、「パターン・ランゲージをつくる」という「探求の方法」を「暫定的にではあるが受け入れ」なければならない。それを受け入れられないのであれば、プロジェクトにおいて探求することはできなくなる。方法は(暫定的に)受け入れなければならない。それが「探求の共同体のメンバーとして受け入れられるため手続き」なのである。

もちろん、このことは、方法について考えたり反省したりすることを否定しているわけではない。「方法」というものは万能ではないので、その限界や副作用について考えることは重要なことである。しかも、「方法」は固定的ではなく、絶えずつくり直される。実践のなかで「方法」がつくり直されていく。そのようなことも、方法を受け入れているからこそできるのであって、方法を受け入れなければ何も始まらない。

重要なのは、自分が採用している「方法」に自覚的になることである。「暫定的に受け入れている」ことを心のどこかに置いておき、実践しているときも、その方法をどのようにしたらよりよく実践できるのかを考えることが大切である。

さらに、リップマンは創造的思考について、次のようにも語っている。この点も、パターン・ランゲージとの関係を考えると実に興味深い。

創造的思考にとって重要なのは、経験と想像力が相互に浸透し合うことではないかと私は考えている。経験との結びつきなしには、想像力は簡単に見当違いの方向にいってしまうし、想像力との結びつきなしには、経験は容易に退屈で、平凡なものになる。しかし、両者がメタファーやアナロジーという形で結びつく場合には、思いがけない幅で存在している新たな可能性の扉を開けることができる。(p.81)


ここで指摘されている「経験」と「想像力」という区分と関係づけでいくならば、パターン・ランゲージは「想像力」の側の支援をする。パターン・ランゲージを「経験」の代替と捉える人がいるが、それは間違いである。パターン・ランゲージは経験の代わりはできない。ただし、自分にその経験がないことを知り、それがどのような経験でありそうかを想像できるという意味で、それは「想像力」の側に位置している。

ただし、興味深いのは、その想像力の側に位置するパターン・ランゲージは、(自分ではなく)他者の「経験」に基づいている。「経験との結びつきなしには、想像力は簡単に見当違いの方向にいってしまう」のであるが、パターン・ランゲージは(他者の)「経験」とは結びついているから、想像力が見当違いの方向にいってしまうことを防ぐ。例えば、よいコラボレーションを経験した人の経験がパターン・ランゲージになっていれば、それを知ることでよいコラボレーションとはどういうことかの想像が、少なくとも誰かがどこかで実践しているようなものの範囲でイメージできるようになる。

そして、パターン・ランゲージは「想像力との結びつきなしには、経験は容易に退屈で、平凡なものになる」ことにも関係する。パターン・ランゲージ ――― 例えば、ラーニング・パターンやコラボレーション・パターン ――― を用いた対話ワークショップをすると、みんな、これまでほとんど注目してこなかった自分の経験が、実は他の人には経験されていない貴重な経験であることを知る、ということがある。自分にとって当たり前の経験が、実は、よい学びやよいコラボレーションに結びついているんだということを感じる。パターン・ランゲージにはそういう効果もある。

しかも、パターン・ランゲージは「経験」と「想像力」を論理でしっかりと結び付けるわけではない。まさに「メタファーやアナロジーという形で結びつく」ように、両者をつなぐ。それゆえ、「思いがけない幅で存在している新たな可能性の扉を開ける」ことを可能とするのである。

このようにパターン・ランゲージは、創造的な思考を支援する。しかしながら、パターン・ランゲージを創造性とは逆方向に捉える人が少なからずいる。つまり、「パターンに縛られる」という感覚をもつ人がいるのである。それがなぜなのかを考えるとき、本書の以下の部分は参考になる。

こうした問題解決のための思考の手続きは日常の私たちの実践の中から取り出された【記述的】なものであるが、それが一旦科学的な探求と結びつけられるやいなや、【規範的】なものとなり、いつも間には【このようである/このようであった】から【このようでなければならない】への移行が起こる。(p.41)


パターン・ランゲージは、紹介・導入の仕方を考えなければ、いつもこの問題が生じる。何かのパターン・ランゲージを読んだとき ――― 例えばラーニング・パターンを読んだとき ――― この通りにしなければならないと感じる人は、「パターン・ランゲージが創造性を支援する」ということは信じられないだろう。むしろ、強制的に枠にはめられるような印象をもつかもしれない。ヒントであると捉えられなければ、パターン・ランゲージは「はめられる型」だと捉えられてしまう。その点は、紹介・導入の際にかなり気をつけなければならない。相当に注意をした方がよい。

パターン・ランゲージ、特に、人間行為のデザインを支援するパターン・ランゲージ3.0は、自らの行為を「組み立てる」ことを可能とする。つまり、複数のパターンを操作可能にし、暗黙的に行っている行為を捉え直し(反省的に考える)、自らの行為を自ら選択して実践することを可能にする。

リップマンがデューイを取り上げて語る、以下の部分は、まさにパターン・ランゲージが目指していることと重なっている。

『思考の方法』の中で、デューイは単なる思考と反省的思考と呼びうるものとを区別している。反省的思考という言葉によって、デューイは、自らの原因や帰結に対して意識的であるような思考を指し示している。ある考えがどこからやってきたか ――― まさにこの条件のもと、その考えは思考となりうること ――― を知ることによって、私たちは知的硬直から解放されるのであり、知的な自由の源泉であるところの代替可能な選択肢の中から選択を行い、それに基づいて行動する力を得るのである。(p.42-43)


パターン・ランゲージの個々のパターンは、「知的な自由の源泉であるところの代替可能な選択肢」なのであり、それらのパターンを活用することで「行動する力を得る」のである。そして、「状況」「問題」「解決」「結果」を示唆するパターンによって、「自らの原因や帰結に対して意識的であるような思考」を可能とし、人びとが「知的硬直から解放される」ことを支援するのである。

そのためにもやはり、既存のパターンを使うのではなく、自らもパターンをつくり、パターン・ランゲージ群の創造の連鎖に入ることが本質的に重要となるのではないだろうか。


このリップマンの『探求の共同体』は、この他にも、たくさん創造的な刺激をもたらしてくれた。教育や創造性について興味がある人には、おすすめしたい1冊である。


ThinkingInEducation220.jpg『探求の共同体:考えるための教室』(マシュー・リップマン, 玉川大学出版部, 2014)
Matthew Lipman, “Thinking in Education”, 2nd ed, Cambridge University Press, 2003
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