アンリ・ベルクソン『笑い』から考えるパターン・ランゲージのつくり込み
アンリ・ベルクソンの『笑い』を読んで、メインテーマの「笑い」や「可笑しさ」についてではない箇所で、とてもきになる箇所があった。
僕がパターン・ランゲージをつくり込むということや作家性ということで語っていることに関係することを、言葉にしてくれているところがあった。
正劇の芸術が他の芸術と同様の目的を持つと述べているところで、ベルクソンはこのようなことを書いている。
パターン・ランゲージをつくり込むとき、その内容の素となる「種」は確かに、マイニング・インタビューや自分たちの経験、文献に書いてあることなど、誰かの経験がもとになっている。しかし、それを探究し、掘り下げ、言葉に換えていくなかで、どのような表現にまとまるかは、そのつくり手に依存していると、僕は考えている。これは、同じ事実をみたとしても、作家によって、異なるノンフィクションの作品がつくられるというのと同様の事態だと思う。つまり、そこには、どこを切り取り、どう料理し、どう表現するかというところで「その作家らしさ」が不可避的に入る。「作家性」が反映されるのである。ひろく繰り返し見られるものを、ある一人もしくは数人の作家性(一般性ではない)によってまとめる。
これは、それをつくった作者について強調したいわけではなく、そのようにして生み出されたものでなければ、「力をもたない」と、僕は考えているということである。つまり、ある実践の知を、「状況」「問題」「解決」「結果」の形式で記述し、それに「名前」をつけたとしても、たしかにパターンの形式では書かれているが、それが目指している「名づけ得ぬ質」に向かう後押しをするのかというと、そうとは限らない。形式状は、パターン・ランゲージであっても、マニュアルやレシピに近い、「行為」が書かれているに過ぎないことが多い。そこには、それがもつべき世界観も、質感も備わっていない。
これは俳句を例にとるとわかりやすいかもしれない。人の心を動かし、世界の見え方を変えるような作品としての俳句は、質や世界観を備えている。5、7、5で書いたからといって、俳句になるわけではない。それは、単に、5文字、7文字、5文字で書かれた文章・フレーズに過ぎない。川柳にはなるかもしれないし、語呂は良いのでは覚えやすいものになるかもしれない(交通安全の標語のように)。同様に、パターン・ランゲージも、パターンの形式で書いたからといって、それが人を動かすような力をもつわけではないのである。
つまり、僕が本格的に関わる井庭研のプロジェクトでやっているようなパターン・ランゲージのつくり込みは、そのような力を宿す作業だと言える。ここでベルクソンが語っている芸術の世界である。パターン・ランゲージは、そのつくり込みを行ったメンバーが、そのとき、その場所でしか生み出せないものなのである。だから僕は、パターン・ランゲージは作家性が出る、と言うのである。
このことがわからない人にとっては、パターン・ランゲージは、おそらくマニュアルやレシピと変わらぬ便利なツールに過ぎないのであろう。実践ができれば、それでいいということなのだろう。それがある人の世界観になることはないし、ましてや多くの人の共有の世界観になるということもない、そういう道具主義的なレベルでのパターン・ランゲージを言っているに過ぎない。繰り返し現れる一般的な内容を、一般的な表現でまとめる。それでは、本当に力をもったものにはならない、僕はそう考えている。
それでは、そのようなつくり手に依存した作品は、個別的であって、他の人にとっては了解・共感不可能なものなのだろうか。いや、そうではない。
ベルクソンが語る次の箇所は、とても示唆的である。
つまり、パターン・ランゲージをつくり込むときに、あれだけ真剣に、あれだけこだわり抜いて、内容や表現を磨いていくのは、それが「自身うちに説得の力」「回心させる力そのもの」を持たせるためである。つくり手たちのひとつの捉え方でしかないものが、多くの人の内側から効果を発揮するようなものになるのである。それはここで語られている芸術における特徴なのである。
僕は究極的には科学も同様だと考えているが、少なくとも、芸術とは、そういうものだと思っている。それゆえ、パターン・ランゲージをつくる力を磨くために、作家の創作論やエッセイ、インタビューをたくさん読んでいるのである。
『笑い』(アンリ・ベルクソン, 合田正人, 平賀裕貴 訳, ちくま学芸文庫, 2016)
僕がパターン・ランゲージをつくり込むということや作家性ということで語っていることに関係することを、言葉にしてくれているところがあった。
正劇の芸術が他の芸術と同様の目的を持つと述べているところで、ベルクソンはこのようなことを書いている。
「この芸術は【個人的なもの】をつねに目指すと言える。画家がキャンバスに定着させるのは、ある場所である日のある時間に、二度と眼にすることがきない色彩と共に彼が見たものである。詩人が詠うのは、彼自身の、彼自身だけの心理状態であり、それは二度と現れない。劇作家がわれわれの眼前に描き出すのは、ひとつの魂の展開であり、感情と出来事によって編まれた生き生きとした連なりであり、つまり一度出現すれば二度と起こりえないものだ。この感情に一般的名称を与えても無駄だろう。なぜなら、別の魂においてはこれらの感情はもはや同じではないからだ。それらは【個人化されたもの】なのである。何よりもそれによって、これらの感情は芸術に属する。というのも、一般性、象徴、類型そのものは、こう言ってよければ、われわれの日常的知覚の通貨であるからだ。一体どこからこの点についての誤解が生じるのだろうか。
非常に異なった二つのもの、すなわち、対象の一般性と、われわれが対象について下す判断の一般性とを混同したというのがその理由である。ある感情が一般的に真実だからといって、それが一般的感情であるわけではない。」(p.149-150)
パターン・ランゲージをつくり込むとき、その内容の素となる「種」は確かに、マイニング・インタビューや自分たちの経験、文献に書いてあることなど、誰かの経験がもとになっている。しかし、それを探究し、掘り下げ、言葉に換えていくなかで、どのような表現にまとまるかは、そのつくり手に依存していると、僕は考えている。これは、同じ事実をみたとしても、作家によって、異なるノンフィクションの作品がつくられるというのと同様の事態だと思う。つまり、そこには、どこを切り取り、どう料理し、どう表現するかというところで「その作家らしさ」が不可避的に入る。「作家性」が反映されるのである。ひろく繰り返し見られるものを、ある一人もしくは数人の作家性(一般性ではない)によってまとめる。
これは、それをつくった作者について強調したいわけではなく、そのようにして生み出されたものでなければ、「力をもたない」と、僕は考えているということである。つまり、ある実践の知を、「状況」「問題」「解決」「結果」の形式で記述し、それに「名前」をつけたとしても、たしかにパターンの形式では書かれているが、それが目指している「名づけ得ぬ質」に向かう後押しをするのかというと、そうとは限らない。形式状は、パターン・ランゲージであっても、マニュアルやレシピに近い、「行為」が書かれているに過ぎないことが多い。そこには、それがもつべき世界観も、質感も備わっていない。
これは俳句を例にとるとわかりやすいかもしれない。人の心を動かし、世界の見え方を変えるような作品としての俳句は、質や世界観を備えている。5、7、5で書いたからといって、俳句になるわけではない。それは、単に、5文字、7文字、5文字で書かれた文章・フレーズに過ぎない。川柳にはなるかもしれないし、語呂は良いのでは覚えやすいものになるかもしれない(交通安全の標語のように)。同様に、パターン・ランゲージも、パターンの形式で書いたからといって、それが人を動かすような力をもつわけではないのである。
つまり、僕が本格的に関わる井庭研のプロジェクトでやっているようなパターン・ランゲージのつくり込みは、そのような力を宿す作業だと言える。ここでベルクソンが語っている芸術の世界である。パターン・ランゲージは、そのつくり込みを行ったメンバーが、そのとき、その場所でしか生み出せないものなのである。だから僕は、パターン・ランゲージは作家性が出る、と言うのである。
このことがわからない人にとっては、パターン・ランゲージは、おそらくマニュアルやレシピと変わらぬ便利なツールに過ぎないのであろう。実践ができれば、それでいいということなのだろう。それがある人の世界観になることはないし、ましてや多くの人の共有の世界観になるということもない、そういう道具主義的なレベルでのパターン・ランゲージを言っているに過ぎない。繰り返し現れる一般的な内容を、一般的な表現でまとめる。それでは、本当に力をもったものにはならない、僕はそう考えている。
それでは、そのようなつくり手に依存した作品は、個別的であって、他の人にとっては了解・共感不可能なものなのだろうか。いや、そうではない。
ベルクソンが語る次の箇所は、とても示唆的である。
「諸芸術はどれも特異だが、もし天才の刻印を担っていれば、最後には万人に受容されるだろう。なぜ人はそれを受け入れるのか。もしその分野において唯一のものであれば、いかなる徴しによってその芸術作品は真実だと認知されるのか。私が思うに、われわれがそれを真実だと認知するのは、真摯に物を見るよう芸術作品がわれわれに促すわれわれ自身に向けての努力によってである。この真摯さは伝達可能である。芸術家が見たものについては、われわれはそれをおそらく二度と見ることができない。少なくともまったく同様に見ることができない。けれども、芸術家が本気でそれを見たなら、ヴェールを取り去るために彼が傾けた努力は、模倣するようわれわれを急き立てる。彼の作品はひとつの模範であり、教えとして役立つ。この教えの効力に即してまさに作品の真理は評価される。だから、この真理は自身のうちに説得の力を、回心させる力そのものを含んでおり、それが真理を認知させる刻印となる。作品が偉大であればあるほど、そこに垣間見られる真理が深淵であればあるほど、作品の効果はより遅く現れるかもしれないが、それはまたより普遍的になるだろう。それゆえ、普遍性はここでは生じた効果のなかにあり、原因のなかにはない。」(p.150-151)
つまり、パターン・ランゲージをつくり込むときに、あれだけ真剣に、あれだけこだわり抜いて、内容や表現を磨いていくのは、それが「自身うちに説得の力」「回心させる力そのもの」を持たせるためである。つくり手たちのひとつの捉え方でしかないものが、多くの人の内側から効果を発揮するようなものになるのである。それはここで語られている芸術における特徴なのである。
僕は究極的には科学も同様だと考えているが、少なくとも、芸術とは、そういうものだと思っている。それゆえ、パターン・ランゲージをつくる力を磨くために、作家の創作論やエッセイ、インタビューをたくさん読んでいるのである。
『笑い』(アンリ・ベルクソン, 合田正人, 平賀裕貴 訳, ちくま学芸文庫, 2016)
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