井庭崇のConcept Walk

新しい視点・新しい方法をつくる思索の旅

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アンリ・ベルクソン『笑い』から考えるパターン・ランゲージのつくり込み

アンリ・ベルクソンの『笑い』を読んで、メインテーマの「笑い」や「可笑しさ」についてではない箇所で、とてもきになる箇所があった。

僕がパターン・ランゲージをつくり込むということや作家性ということで語っていることに関係することを、言葉にしてくれているところがあった。

正劇の芸術が他の芸術と同様の目的を持つと述べているところで、ベルクソンはこのようなことを書いている。

「この芸術は【個人的なもの】をつねに目指すと言える。画家がキャンバスに定着させるのは、ある場所である日のある時間に、二度と眼にすることがきない色彩と共に彼が見たものである。詩人が詠うのは、彼自身の、彼自身だけの心理状態であり、それは二度と現れない。劇作家がわれわれの眼前に描き出すのは、ひとつの魂の展開であり、感情と出来事によって編まれた生き生きとした連なりであり、つまり一度出現すれば二度と起こりえないものだ。この感情に一般的名称を与えても無駄だろう。なぜなら、別の魂においてはこれらの感情はもはや同じではないからだ。それらは【個人化されたもの】なのである。何よりもそれによって、これらの感情は芸術に属する。というのも、一般性、象徴、類型そのものは、こう言ってよければ、われわれの日常的知覚の通貨であるからだ。一体どこからこの点についての誤解が生じるのだろうか。
非常に異なった二つのもの、すなわち、対象の一般性と、われわれが対象について下す判断の一般性とを混同したというのがその理由である。ある感情が一般的に真実だからといって、それが一般的感情であるわけではない。」(p.149-150)


パターン・ランゲージをつくり込むとき、その内容の素となる「種」は確かに、マイニング・インタビューや自分たちの経験、文献に書いてあることなど、誰かの経験がもとになっている。しかし、それを探究し、掘り下げ、言葉に換えていくなかで、どのような表現にまとまるかは、そのつくり手に依存していると、僕は考えている。これは、同じ事実をみたとしても、作家によって、異なるノンフィクションの作品がつくられるというのと同様の事態だと思う。つまり、そこには、どこを切り取り、どう料理し、どう表現するかというところで「その作家らしさ」が不可避的に入る。「作家性」が反映されるのである。ひろく繰り返し見られるものを、ある一人もしくは数人の作家性(一般性ではない)によってまとめる。

これは、それをつくった作者について強調したいわけではなく、そのようにして生み出されたものでなければ、「力をもたない」と、僕は考えているということである。つまり、ある実践の知を、「状況」「問題」「解決」「結果」の形式で記述し、それに「名前」をつけたとしても、たしかにパターンの形式では書かれているが、それが目指している「名づけ得ぬ質」に向かう後押しをするのかというと、そうとは限らない。形式状は、パターン・ランゲージであっても、マニュアルやレシピに近い、「行為」が書かれているに過ぎないことが多い。そこには、それがもつべき世界観も、質感も備わっていない。

これは俳句を例にとるとわかりやすいかもしれない。人の心を動かし、世界の見え方を変えるような作品としての俳句は、質や世界観を備えている。5、7、5で書いたからといって、俳句になるわけではない。それは、単に、5文字、7文字、5文字で書かれた文章・フレーズに過ぎない。川柳にはなるかもしれないし、語呂は良いのでは覚えやすいものになるかもしれない(交通安全の標語のように)。同様に、パターン・ランゲージも、パターンの形式で書いたからといって、それが人を動かすような力をもつわけではないのである。

つまり、僕が本格的に関わる井庭研のプロジェクトでやっているようなパターン・ランゲージのつくり込みは、そのような力を宿す作業だと言える。ここでベルクソンが語っている芸術の世界である。パターン・ランゲージは、そのつくり込みを行ったメンバーが、そのとき、その場所でしか生み出せないものなのである。だから僕は、パターン・ランゲージは作家性が出る、と言うのである。

このことがわからない人にとっては、パターン・ランゲージは、おそらくマニュアルやレシピと変わらぬ便利なツールに過ぎないのであろう。実践ができれば、それでいいということなのだろう。それがある人の世界観になることはないし、ましてや多くの人の共有の世界観になるということもない、そういう道具主義的なレベルでのパターン・ランゲージを言っているに過ぎない。繰り返し現れる一般的な内容を、一般的な表現でまとめる。それでは、本当に力をもったものにはならない、僕はそう考えている。

それでは、そのようなつくり手に依存した作品は、個別的であって、他の人にとっては了解・共感不可能なものなのだろうか。いや、そうではない。

ベルクソンが語る次の箇所は、とても示唆的である。

「諸芸術はどれも特異だが、もし天才の刻印を担っていれば、最後には万人に受容されるだろう。なぜ人はそれを受け入れるのか。もしその分野において唯一のものであれば、いかなる徴しによってその芸術作品は真実だと認知されるのか。私が思うに、われわれがそれを真実だと認知するのは、真摯に物を見るよう芸術作品がわれわれに促すわれわれ自身に向けての努力によってである。この真摯さは伝達可能である。芸術家が見たものについては、われわれはそれをおそらく二度と見ることができない。少なくともまったく同様に見ることができない。けれども、芸術家が本気でそれを見たなら、ヴェールを取り去るために彼が傾けた努力は、模倣するようわれわれを急き立てる。彼の作品はひとつの模範であり、教えとして役立つ。この教えの効力に即してまさに作品の真理は評価される。だから、この真理は自身のうちに説得の力を、回心させる力そのものを含んでおり、それが真理を認知させる刻印となる。作品が偉大であればあるほど、そこに垣間見られる真理が深淵であればあるほど、作品の効果はより遅く現れるかもしれないが、それはまたより普遍的になるだろう。それゆえ、普遍性はここでは生じた効果のなかにあり、原因のなかにはない。」(p.150-151)


つまり、パターン・ランゲージをつくり込むときに、あれだけ真剣に、あれだけこだわり抜いて、内容や表現を磨いていくのは、それが「自身うちに説得の力」「回心させる力そのもの」を持たせるためである。つくり手たちのひとつの捉え方でしかないものが、多くの人の内側から効果を発揮するようなものになるのである。それはここで語られている芸術における特徴なのである。

僕は究極的には科学も同様だと考えているが、少なくとも、芸術とは、そういうものだと思っている。それゆえ、パターン・ランゲージをつくる力を磨くために、作家の創作論やエッセイ、インタビューをたくさん読んでいるのである。

61EnYij4QJL.jpg『笑い』(アンリ・ベルクソン, 合田正人, 平賀裕貴 訳, ちくま学芸文庫, 2016)
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書籍『私の脳で起こったこと:レビー小体型認知症からの復活』について

Higuchisan220.jpg今年出版された樋口 直美さんの『私の脳で起こったこと:レビー小体型認知症からの復活』を、改めてじっくり読み直した。

この本は、レビー小体型認知症とともに生きる樋口さんご自身の日々を綴った日記で構成されている。ご本人も日記を公開するということは最初ためらったのではないかと思われるが、日記だからこそ伝わってくるものが確かにある。誰にかに向けて書かれたものではなく、身の回りで起きた出来事の記録、自分から見た世界の様子、そして自分自身を勇気づけようとする言葉たち。そういう言葉がめくるページすべてに記されている。これを読むと、樋口さんのすぐ横で話を聞いているような、そして、自分のこととして生じてくるような、そういう気持ちになる。

本書を読んでいると、まず樋口さんに母や叔母のイメージが重なってくる。これは、樋口さんが僕よりも少し上の年齢の女性であるからなのだと思う(実際には僕の母はもっと上の代なのだけれども)。そして、妻、最後に自分自身に重なる。当惑しているとき、悩んでいるとき、元気になるとき、そういうひとつひとつのシーンにそういう身近な人が入れ替わり立ち替わり思い浮かぶ(本書には写真が一枚もないということが、こういうイメージを喚起することにつながっているのではないかと思う)。

この本は、とても貴重で重要な本だ。これはまず、レビー小体型認知症がどのような症状と気持ちをもたらすのかが、本人からみた視点で書かれている。だが、それだけにとどまらない。これは、樋口さんの探究の軌跡でもある。ほとんど知られていないレビー小体型認知症について自ら調べ、話し、学んできたそのプロセスが記されている。そして、強さと弱さ、迷いと決意というような心の矛盾・葛藤が、そのまま表現されているのも素晴らしいと思う。つまるところ、それは人間らしいということだ。一人の人の存在感を強く感じるのだ。

この本のサブタイトルに「復活」という言葉があって、本当によかった。この言葉がなかったら、本書の前半の方で、その大変な日々の記述にやられて、読み進めるのがつらくなってしまったかもしれない。僕は、先の方に光が見えているということを頼りにして、なんとか読み進めることができた。このことを考えても、このような光が見えないまま日々を過ごすということが、どれだけつらいことであり、強さが求められることなのかを、実感せざるをえない。

認知症に関心がある方はもちろん、とくに興味がないという人にも、生きるということを感じ・考えるために、ぜひ読んでもらいたい一冊である。

『私の脳で起こったこと:レビー小体型認知症からの復活』(樋口 直美, ブックマン社, 2015)
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『芸術と政治をめぐる対話』(エンデ × ボイス)がかなり刺激的だった

Ende16Book150.jpg 『芸術と政治をめぐる対話(エンデ全集16)』(岩波書店, 1996)を読んだ。ドイツのファンタジー作家であるミヒャエル・エンデと、同じくドイツの現代美術家・社会活動家であるヨーゼフ・ボイスが行なった1985年の対談である。二人ともすでに亡くなっていることもあり、かなり貴重な記録だといえる。これが(ドイツ語ではなく)日本語で読めるというのは、実にうれしいことだ。

二人の話は最初から最後までほとんどすれ違ったまま進むのであるが、それゆえ、それぞれの考えが何度も違うかたちで語られていて興味深い。

ボイスは、社会という芸術作品をみんなでつくりあげる「社会芸術」というものを提唱する。芸術はこれからかたちを変えて「社会」をも作品とする段階にくる。そして、それは誰か一部の人間によってつくられるのではなく、全員がそれに関わり、いわば「社会芸術家」になる(ならなければならない)。そう語る。

これに対してエンデは、芸術というものをもっと狭く———といっても、僕たちが知っている常識的な範囲で———捉える立場をとる。芸術は美の領域での創造である。そして、未来へのひとつのお手本やスケッチとなるようなものを具体的なレベルで描くこと、そして、それによって何かを伝えるのではなく経験してもらうことこそが芸術にとって大切なのだ、と語る。

このように、定義も方向性も違っているわけだが、僕はそのどちらにも共感を覚えた。いや、「共感」という言葉では、うまく言い表せていないかもしれない。だって、僕が考えてきたことや考えていることが、まさにそこに文字として書かれていたのだから。

しかも興味深いことに、この対談のやりとりを読んで、3年前の自分と今の自分が対話しているような錯覚さえ覚えた。大雑把にいうならば、3年前の自分がボイスで、今がエンデだ。(恐れ多いが…^^;)

この対談には、魅力的で力がある言葉が詰まっている。少し紹介したい。

「私に言わせれば、創造的であるというのは、要するに、人間的であるということにほかならない。」(エンデ:p.19)

僕の研究の根本的な問いは「創造的とはどういうことか」というものであるが、それは「人間的である」ことだ、と最近行き着いた。要素に還元はできない。全体性との関係でしか定義できない何か。その点について、エンデは、次のように語る。

「美の領域で創造的であるというのが、芸術家の特性なのです。では、美とはなにか、もちろんそれは ———ほかのその種の概念とおなじく———定義できない。美の概念に境界はない。つねに新しくつくりあげられるしかないわけです。真理とはなにか、その定義も不可能です。善とはなにか、その定義も不可能です。ユニバーサルな概念ですからね。全体にかかわる概念ですからね。私に言わせれば、美というものはつねに、———まあ、これも言葉にすぎないわけですが———心、頭、感覚の全体性がうちたてられる場所に成立するのです。いいかえれば、人間がもとの全体性にもどされた場所で、成立するのです。」(エンデ:p.22)

科学哲学史を紐解けばわかるように、近代科学では真・善・美という概念は科学の世界から追放されてしまっている。それは、デカルトの要素還元的な分析アプローチの影響である。全体は部分に分けて考えられるべきであり、全体性というのは探究の対象とはならないのだ。それでは、全体性とは何なんだろうか。

「全体性とはなにか、それも定義できません。定義できれば、全体性でなくなってしまうわけですから。全体性というのは、特定できないものです。」(エンデ:p.23)

このエンデの言葉からもわかるように、全体性ということを考え始めると、途端に神秘主義的になってしまう。あるいは、宗教的な世界観に入ってしまう。僕が興味があるのは、宗教にもオカルトにもいかずに、この全体性の問題にアプローチすることはできないか、ということである。オートポイエーシスのシステム理論等によって、あるいはパターン・ランゲージ等の方法によってアプローチすることはできないか。

僕にとって、ニクラス・ルーマンは、全体性に対して動的な自己生成プロセスの観点からアプローチした理論家であり、クリストファー・アレグザンダーは、真・善・美を備えた全体性をつくるための方法について探究した方法論者であった。これらを新しいかたちで結合・融合・進化させることが僕のやりたいことになる。


そして、最近ますます興味が出てきた、主観/客観の二分法への疑問についても、エンデは次のように語る。

「純粋な客観性というニュートン流の真理の基準は、核物理学によって、疑問視されたわけです。……こんにちでは真理の概念は、かつて知恵と呼ばれていたものに、どんどん接近しているのです。つまり、自分で経験し、自分の内部にもっているものだけを、あなたは外部ででも認識できるのです。昔の自然科学は、事実を矛盾なく記述することを要求していましたが、こんにちでは、だれもそんなことを信じちゃいない。世界を客観的な世界と、主観的な世界に引き裂くというイデオロギーを、私たちはちょうど克服しようとしているところなんです。」(エンデ:p.85)

主観/客観の二分法をイデオロギーであると言い切ってしまうあたりが心地よい。

さらに、なぜ創造性の問題が今なお学問の世界で置き去りにされているのか、それについてもエンデは明快に語っている。

「自然科学の思考は、本質的に因果関係の論理にもとづいています。因果関係の論理がなければ、精確な自然科学は存在しない。さて、ところが人間は、一番人間的である場所で、つまり創造の場で、因果の鎖に縛られてはいません。縛られていたら、自由な創造がなくなります。だから創造は、自然科学の思考ではたいてい見落とされるわけです。因果の鎖とは縁がないので、証明できませんからね。」(エンデ:p.89)

僕の「創造システム理論」も、ここで指摘されているように、因果関係では捉えられないということが前提となっている。だからこそ僕は、オートポイエティックな———因果関係ではなく生産関係のネットワークの———システムとして創造を捉えたいと考えているわけだ。


以上、エンデの言葉を中心に紹介してきたが、エンデだけに共感したわけではない。ボイスの言葉にも、ぐっとくる言葉は多々あった。芸術の価値と使命という文脈で、ボイスは次のように語っている。

「理解できるものなんて、うんざりするほどあるよ。もちろんそれも大切だけどさ。だが芸術にとっては、理解できないほうが、ずっといい。人びとのなかに力を、想像とか直観にたいする力を呼びさまし、さらに、それ以上のことをするわけだから。それが僕の方法なんだ。」(ボイス:p.150)

これまで教育や文章で、とにかく徹底した「わかりやすさ」を追究してきた僕は、最近「わからない」という状況をつくることの大切さについて考えている。ここでボイスが語っていることは、先日池上高志さんが「メディアがつくる違和感」というフォーラムで、「ある種のクレイジーネスが必要だ」とか「わからなさ・違和感を生む」と言ったことと重なる。

そして、世界を変えるということについて。エンデは、新しい芸術作品が存在するだけで世界はすでに変わっているんだという立場をとるのに対し、ボイスの方はもっと過激だ。司会者が話を現実に引き寄せようとしたところ……

「いや、ともかく突撃しておくことが、とても重要なことなんだよ。でないといつだって、敷居のむこう側を見ることは不可能ということになる。『こいつはまずい、こいつはまずい』って、みんな嘆く。だが僕は、嘆こうなんて思わない。可能性はひとつしかない。で、それはいまの現実にたいするポジティブな提案にほかならない。」(ボイス:p.17)

ここで言わんとしていることは、わかる気がする。そうでもしなければ、社会はいつまでたっても「想像の圏外」に到達できない。

ボイスの過激さと、エンデの静かな力。どちらをとるかではなく、その両方が必要なのだと思う。

それにしても、このような話が1985年にすでに語られていたというのがすごい。それと同時に、こうやって語られていたにも関わらず、依然として世界が変わっていないはなぜなのか? その点についても考えながら、自らの道をしっかりと切り拓いていこうと、決意を新たにした。

  • 『芸術と政治をめぐる対話(エンデ全集16)』(岩波書店, 1996)
  • Joseph Beuys, Michael Ende, KUNST UND POLITIK: Ein Gespräch, FIU-Verlag, 1989
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    『決断力』(羽生善治)に羽生さんの創造性を見る

    将棋棋士の羽生善治さんの『決断力』を読んだ。

    非常に示唆に富んだ本で、大変興味深く読ませてもらった。
     
    羽生さんがどういう人なのかがわかるとともに、将棋の世界がどういうものなのかも垣間見ることができた。そして、将棋を指すということについて、僕は何もわかっていなかったと思わざるを得なかった。将棋は無限の世界であるという羽生さんが、その世界にいかに向き合っているのか。その世界観が大変興味深い。また、コンピュータの登場が将棋の世界をどのように変えているのかについても面白かった。

    しかしながら、より興味深いのは、将棋を通じて育まれた彼の考え方が、将棋の世界のみならず、多くの物事に通じる普遍性をもっているということだ。まさに、個を突き詰めたゆえの普遍性だ。彼は将棋とスポーツには共通点があると語り、またビジネスや研究にも通ずるものがあるという。僕は、この羽生さんが語る「エクスパティーズ」(熟練)の本質に、ただただ頷くばかりであった。

    その普遍性を羽生さんも十分承知していて、それぞれの話題の後に必ず「将棋にかぎらず…」として、読者の携わる世界でも同様であることに言及している。このことが、本書が将棋好き以外の読者にも広く読まれてきた理由なのだろう。


    「棋士は指し手に自分を表現する。音楽家が音を通じ、画家が線や色彩によって自己を表現するのと同じだ。小説家が文章を書くのにも似ている。二十枚の駒を自分の手足のように使い、自分のイメージする理想の将棋を創りあげていく。ただ、将棋は二人で指すものなので、相手との駆け引きのなかで自分を表現していく。その意味では、相手は敵であると同時に作品の共同制作者であり、自分の個性を引き出してくれる人ともいえる。」(p.67)


    この部分で、将棋における「創造性」についてのイメージがぐっと広がった。

    これまで、僕のなかには、将棋は有限の配置の組合せのなかでの勝負だというイメージがあったが、その見方は将棋の本質を矮小化した見方であるということがわかった。その有限性はたしかに「神」の視点からは正しいかもしれないが、人間は神の位置にいるわけではない。あくまでも広大に広がる展開の一節点に立っているにすぎない。

    将棋が有限の局面の集合でしかないという見方は、まるで小説や詩が有限の文字の組合せに過ぎないと看做すようなものなのである。それでは、創造性という存在は無化されてしまう。もし小説や詩に創造性を見いだすならば、将棋にも創造性を見いだすことができるはずだ。僕はこの立場をとっているし、とりたいと思う。

    羽生さんのこの本には、そういった将棋の創造性についての彼の考え方が書かれているように、僕には思えた。これは僕の過剰な読み込みかもしれない。しかし、僕にとっては、この本はその点において、大変示唆に富む本であったことは間違いない。

    『決断力』(羽生善治, 角川oneテーマ21, 角川書店, 2005)
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    量子力学と社会思想:大澤真幸氏の新著『量子の社会哲学』

    今日書店をぶらぶらしていたら、『量子の社会哲学』というタイトルの本が目にとまった。なんと、著者は社会学者 大澤真幸ではないか! 早速購入して帰ってきた。今月(しかもつい先日)出たばかりの本のようだ。

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    『量子の社会哲学:革命は過去を救うと猫が言う』(大澤 真幸, 講談社, 2010)


    帯「量子力学と社会思想のミッシング・リンクを解く! 全知の神から無知の神へ!!」


    まだ読んでいないので内容については書けないが、とにかく、量子的世界観が社会思想・社会哲学においても本格的に議論される時代が間もなく到来するという印象をもった。

    物理学において古典力学から量子力学へのパラダイム・シフトが起きているにもかかわらず、僕らの日常感覚は社会科学はいまだに古典力学的なパラダイムから抜け出せていない。単なるメタファーとしてではなく、世界の根本的な捉え方の部分で、おそらく社会思想や社会科学に大きなインパクトをもつのではないか。僕自身、そう考えて5年ほどたった。

    そのような思いで、実は、SFCでは数年前から「量子的世界観」という授業を担当していたりもする(医学博士の内藤泰宏先生との共担:量子的な捉え方で内藤さんが生命を語り、僕が社会を語る)。井庭研でも『世界が変わる現代物理学』(竹内 薫, ちくま新書, 2004)や、『The Quantum Society: Mind, Physics and a New Social Vision』(Danah Zohar, Ian Marshall, William Morrow & Co, 1994)などを輪読してきた(エントリ「量子力学における「コト」的世界観と、オートポイエーシス」「『社会を越える社会学』(ジョン・アーリ)」、および「一緒に学ぶ仲間とともに。」 参照)。前者は世界の捉え方をわかりやすく説明してくれているが、社会との関係については書かれていない。後者は、社会の捉え方に量子的な考え方を取り入れているが、メタファーとして適用しているというニュアンスが強い。量子(力学)的な捉え方で社会を捉え直そうという野心的な著作は、これまでほとんどないと言ってよい。

    そのような状況のなか、あの大澤さんが『量子の社会哲学』なる本を出すということは、個人的に非常にワクワクする展開である。

    思えば、『自由を考える:9・11以降の現代思想』(東浩紀, 大澤真幸, NHK出版, 2003)で対談した東さんも、昨年『クォンタム・ファミリーズ』(東浩紀, 新潮社, 2009)というタイトルの小説を出版しているわけで、ここでも「クォンタム」(量子)の概念がキーとなっていた。『自由を考える』の対談ですでに「偶有性」の話が展開されていたので、振り返ってみれば、ここに到達するための伏線として捉えることさえできるかもしれない(この対談本も、当時井庭研で盛り上がった1冊であった)。

    これらの流れを機に、量子論を踏まえた社会思想・社会哲学の思索が日本で加速するのではないだろうか。量子論は東洋的な考え方にも通じるので、日本で論が深まるというのも、あながち的外れな展望ではないだろう。

    むろん、アラン・ケイの言葉 "The best way to predict the future is to invent it." が好きな僕としては、単に予想を述べるだけでなく、自分自身が考えを深め、論じていくことによって、その流れの一翼を担いたいと思っている。(SFCでの授業「量子的世界観」は隔年開講科目なので、次回は来年2011年度の開講。乞うご期待!)


    最後に、以前井庭研でつくった冊子『2008 Concept Book』の「量子的世界観」の章からイントロダクションの部分を抜粋しておくことにしたい。興味がある方は、ぜひConcept Bookの方も読んでみてほしい。

    量子力学がもたらす、世界の新しい捉え方

     現代物理学のひとつの最先端である「量子力学」(quantum mechanics) では、今までの科学の常識を覆してしまう全く新しい世界の捉え方が提示されています。従来の古典力学(ニュートン力学)では、初期状態が明らかになればその後の振る舞いを決定できるという「決定論」の世界観で物事が捉えられていましたが、量子力学では、全てが確率的に存在し、観測することによっても変化が生じてしまうという根源的な不確定性をもつものとして捉えます。その結果、確固たる不変的なモノを出発点として世界を捉えるのではなく、その内にゆらぎを抱え、モノとコトが入り交じっているような存在から世界を捉え直すという視点の転換をもたらしています。
     このような量子力学の世界観は、物理学のみならず、社会科学などの分野においても新しい視点を提供すると考えられます。現在の社会科学の基盤のひとつには、古典力学的な世界観があるのですが、その手本となった物理学においては、すでに量子力学の登場によってパラダイムシフトが起きています。従来の決定論では理解することが難しい「自由」や「創造性」を含む「社会」を対
    象とする学問は、このパラダイムから学ぶべきことが多いのではないでしょうか。もっと言うならば、21 世紀の社会科学は量子的な世界観にもとづかなければ展開し得ないと言ってもよいかもしれません。このような考えのもと、井庭研究会では、量子力学における考え方を、物理学の概念というよりは、一種の「世界観」と捉え、社会理解に活かすための取り組みを始めています。

    『2008 Concept Book』(井庭研究室 編著, 2008)より
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    「談」(特集:偶有性)

    今朝はなんだか、暗いうちから目が覚めてしまった。

    PCの画面を見る気にはなれなかったので、未明の読書タイム。

    先日本屋でたまたま見かけて買っておいた『談』No.87 (特集:偶有性)を読んだ。(まさに、偶有的に出会った本!)


    津田一郎さんと木本圭子さんの、カオスと時間についての対談が読みたくて買ったのだが、期待どおり、とても面白かった。

    僕が最近、カオスや数学、「動き」(ダイナミクス)に興味をもっているのは、まさにここで語られているような魅力を感じているから。


    そして、同じく収録されている今福龍太さんのインタビュー(アクシデントではなくインシデントから歴史を考えるという話)や、長沼毅さんのインタビュー(生命の記述と説明の話)も、かなり面白かった。

    これだけ分野が違う魅力的な方々を、ひとつのテーマのもとに取り上げた編集者の方、センスがいい。

    久々に、日本語で読んだ(日本語でしか読めない)面白いコンテンツだった。


    『談 Speak, Talk, and Think 2010 no.87』
    (編集・発行:たばこ総合研究センター[TASC] )

    特集:偶有性・・・アルスの起原

    今福龍太: 偶有性を呼び出す手法、反転可能性としての・・・
    長沼毅: 必然と偶然の、その間で生きるものは・・・
    津田一郎×木本圭子: <対談> 自然の内側にあるもの・・・なぜ、人々は、時間に魅了されるのか

    こちらに内容についての紹介あり → http://www.dan21.com/
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    『プチ哲学』(佐藤雅彦)

    Book-Puchi.jpg佐藤雅彦さんの『プチ哲学』を読んだ。

    『プチ哲学』(佐藤雅彦, 中公文庫, 中央公論新社, 2004)

    学習パターンプロジェクトのときに「かわいい!」と話題になったので、さっそく生協で買ってきたのだ。単行本のときから気になってはいたが、ようやく読めた。

    この本では、佐藤さんのかわいい絵による漫画と、それに関する「哲学」がセットになって提示されている。漫画では、佐藤さんらしいかわいい世界観と独特のリズムが表現されている。ちっちゃなキャラがちょこまかするような、ちっちゃな世界。『プチ哲学』は、まさにそんな世界で描く「プチ」哲学の本だ。

    内容については、ネタばれしちゃうので細かくは書かないけれど、僕が好きだったのは、「ひよこの誕生」と「かわいい勘違い」と「お昼寝の時間」。そして、漫画が意味もなくかわいい「立方体の寝かた」、「なるほど!!!」と唸った「中身当てクイズ」。これ以外にも、素敵なものがたくさんあるので、ぜひ実際に実物を読んでみてほしい。文庫版は安いし持ち運びやすいので、おすすめ。

    あと、ちょっとしたことなのだけど、僕がうまいと思ったのは、次のような構成になっているところ。各章は、「お話のタイトル」から始まり、「漫画」が入ったあと、「哲学の言葉」がくるという構成になっている。「漫画」→「哲学の言葉」はよくあるカタチだけれども、その前にちゃんと「お話のタイトル」を配置しているのがポイントだと思う。ふつうは、最初に「哲学の言葉」を持ってきがち。ふつうなら、そうしちゃう。でも、佐藤さんは、わくわくして漫画の世界に入れるように、ちゃんと「お話のタイトル」を最初にもってきている。これが「哲学の言葉」から入ってしまうと、「漫画」は「哲学」にぶらさがってしまう。そうではなく、この本では、「漫画」に「哲学」がぶらさがるかたちになっている。これだからこそ、教訓じみた感じがなく、漫画を読む感覚で読み進められるようになっている。さすが、佐藤さん。と思った。

    最後に、佐藤さんの言葉を引用したいと思う。

    「『考える』ということを、自分は何のためにやっているかというと、このパン! という瞬間に生まれる『!』の『喜び』のためにやっている、といっても過言ではない。自分の頭の中で、このパン! が一日一回でも来ると『生きている』感じがして嬉しい。」(p.154)

    心から同感する。僕がなんで研究活動を続けられるのかというと、この閃きの瞬間が本当に心地よいからなんだと思う。一般的なイメージでいうと、研究者というのは、なにやら小難しく考えることが好きな人だと思われているようだが、実はこのたまにくる閃きの瞬間が忘れられない人たちなのかもしれない。この閃きの瞬間こそ、研究の本質的な瞬間なんだと思う。そしてこのことは、研究以外の創造的な活動にも言えることだと思う。

    閃きの快感と達成感を燃料に、今日も僕らは走り続ける。ブーーン!  εεεεε micro-siro.gif
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    『ゼロ年代の想像力』(宇野常寛)

    book-zero.jpg若手評論家 宇野常寛さんの『ゼロ年代の想像力』を読んだ。

    『ゼロ年代の想像力』(宇野常寛, 早川書房, 2008)

    具体的な物語のところは飛ばし飛ばし読んだものの、一気に最後まで読んだ。文章もしっかりしていて読みやすく、期待の若手という感じだ。最近の批評と違って、僕でも知っている有名な漫画やドラマが取り上げられているので、その意味でも身近に感じた。

    僕は、個人や社会のもつ「想像力」に興味がある。いま書いている本にも想像力に関するものがあるので、書店でこの本を見たとき、まずタイトルに惹かれて手に取ってみた。すると、いきなり最初から、日本における批評の現状を鋭利な言葉でぶった切っていた。これはただごとではないな、と思った。

    「残念だが、二〇〇一年以降の世界の変化に対応した文化批評は国内には存在していない。それは現在、批評家と呼ばれるような人々が、この二〇〇一年以降の世界の変化に対応することができずに、もう十年近く、国内の『批評』は更新されずに、放置されていたのだ。」(p.12)

    「端的に本書の目的を説明しておく。まずは九〇年代の亡霊を祓い、亡霊たちを速やかに退場させること。次にゼロ年代の『いま』と正しく向き合うこと。そして最後に来るべき一〇年代の想像力のあり方を考えることである。」(p.12)

    宇野さんは、1978年生まれということで、僕よりも4歳下にあたる(この本で批判の対象となる東浩紀さんは1971年生まれ、つまり僕は二人の真ん中に位置する)。そういう下の世代が、上の世代が考えたり論じたりしていることは時代遅れだ、と指摘しているのを読むと、ドキっとする。自分はどうだろうか、と考えてしまう(もっとも、この本で指摘されている「時代遅れ」の考え方は、僕はとっていなかったが)。

    この本では、1990年代の「古い想像力」と、2000年代(つまりゼロ年代)の「新しい想像力」を比較しながら、時代がシフトしていることを描き出そうとしている。これは、物語作品の批評という点からだけでなく、社会論として読んでも興味深い。


    ■「古い想像力」と「新しい想像力」

    宇野さんが指摘する「古い想像力」と「新しい想像力」について、紹介しておこう。

    まず、「古い想像力」というのは、「九〇年代後半的な社会的自己実現への信頼低下を背景とする想像力」(p.15)である。そこでは、アイデンティティの拠り所が、「~する」「~した」という「行為」に結びつけられるのではなく、「~である」「~ではない」という「状態」に結びつけられる。そのため、問題に対する解決は、行為によって状況を変えることでなされるのではなく、自分の位置づけを解釈し直すことでなされる。この想像力のもとでは、「何が正しいことかわからない、誰も教えてくれない不透明な世の中で、他者と関わり、何かを成そうとすれば必然的に誤り、誰かを傷つけて、自分も傷つく」(p.16)ので、何も選択せず、社会にもコミットせず、引きこもる、という発想が生み出される。「古い想像力」とは、そのような考え方を指している。物語作品でいうならば、『新世紀エヴァンゲリオン』が、この「古い想像力」を代表する作品となる。

    宇野さんによると、二〇〇一年前後、この「引きこもり」的なモードは弱まっているという。それは、アメリカ同時多発テロ、小泉政権における構造改革、「格差社会」意識の浸透などによって、「引きこもっている」だけでは、生き残れないという感覚が出てきたことによる。「ある種の『サヴァイヴ感』とも言うべき感覚が社会に広く共有されはじめた」(p.18)のだ。これが「新しい想像力」である。この想像力を象徴する代表的な作品が『バトル・ロワイアル』だ。「社会が『何もしてくれない』ことは徐々に当たり前のこと、前提として受け入れられるようになり、その前提の上でどう生きていくのか」(p.20)が問題になってきたといえる。

    このような「古い想像力」から「新しい想像力」へのシフトに、日本の文化批評はまったく追いついていないというのが、この本の指摘だ。特に、現在の文化批評の代表的な存在である東浩紀への批判は手厳しい。

    「東浩紀の九〇年代における活動の集大成的な著作『動物化するポストモダン』(二〇〇一/講談社現代新書)は批評の世界を大きく切り開くと同時に、大きな思考停止をもたらしている。」(p.36)

    「『セカイ系』という言葉が発案されたのは二〇〇二年、インターネットのアニメ批評サイトでのことだったが、この時期既に『セカイ系』的想像力は時代遅れになりつつあったと言っていい。しかし『オタク第三世代』を中心に、消費者の急速な高齢化がはじまっていた美少女(ポルノ)ゲームや一部のライトノベルレーベルといった特定のジャンルでは、九〇年代的な想像力の残滓として『セカイ系』が生き残り続け、東浩紀はそれを『時代の先端の想像力』として紹介したのだ。そしてサブ・カルチャーに疎い批評の世界は、東浩紀の紹介を検証することなく受け入れ、かくして、既に耐用年数が切れた古いものが新しいものとして紹介され、本当に新しいものは紹介されず、この国の『批評』は完全に時代に追い抜かれたのである。」(p.31)

    こんなふうに、若手が登場するとき、上の世代への批判的立場として登場するというのは、この世界ではある意味常套手段であり、それによって論旨が明確になるという面があるが、それにしてもこの言葉の鋭さ・思い切りに、ドキっとさせられる。「わぁ、言っちゃった。すごいな。」という。

    本人たちは交流もあるようだし、謝辞でも東さんへの言及があるので、そういう意味では心配はないが、ぜひ今後も健全な「議論」の連鎖につながってほしいと思う。東さんがかつて上の世代とドンパチやったように、今度は、下の世代の論敵と、刺激的な議論がなされていくのを、一読者として読んでみたいという気持ちがある。

    それと同時に、宇野さんの次の本が楽しみだ。「敵」(批判する相手)が明確で、そこに上下差があると、新人登場の「物語」としてこれほどわかりやすいものはない。文脈が明確で、論が立てやすい。そして、チャンピオンへ挑む若手というのは、いつの時代もどんな分野でも、周囲の共感・応援が受けやすい。ほほえましく思われる。だけど、問題はその次だ。二度目も同じ手で行くわけにはいかない。さらに、今後チャンピオンと並んだとき、あるいは追い抜いたとき、倒すべきライバルがいない状況で、どのような論が展開できるのか。そこが本当の勝負どころであり、楽しみなところだ。登っているときは人は意外と強い。登りつめてしまったとき、そこからがきついのだ。その意味で、東さんも、宮台さんも、大澤さんも、大変なんだと思う。もはやそういう自分との戦いの領域に入っているからだ。それでも、本を書き続けている。このことが、僕にはとてもすごいことに思えてならない。


    ■断片化(島宇宙化)する社会のなかで

    最後に、「島宇宙化」し断片化した社会において、重要なのがコミュニケーションだ、という宇野さんの指摘を取り上げたい。だからこそコミュニケーションのあり方を考えるべきだ ――― これについては、僕も同感だ。この本では、そこから先はほとんど論じられていないが、ここから先が僕の研究に関係してくる。

    「私たちはたしかに自由を手に入れた。価値観を有し、同じ小さな物語を生きる人々を検索し、その島宇宙の中で信じたいものを信じて快適に生きていくことが可能のように思える。だが、インターネットは検索して、棲み分ける道具であると同時に、世界をつなぐ道具でもある。本来なら出会わなかったかもしれない小さな物語たちが、ウェブという同じ空間に並べられることで接してしまう。よりマクロな次元では小さな物語たちは棲み分ける一方で、ソーシャルネットワーキング・システムのコミュニティのように同じウェブという空間に並列されてしまう。そして異なる小さな物語が同じ空間に並列されることによって、それぞれの小さな物語はその正当性の獲得と自己保存のために、内側に対してはノイズを排除する力が働き、外側に対しては他の物語そのものを否定する力が働く。匿名掲示板、ブログサイトの『炎上』、『学校裏サイト』------小さな物語は他の小さな物語を排斥する排他的なコミュニティとして私たちが生きる世界のあらゆる場面を覆っているのだ。」(p.38)

    「自己像の承認を暴力的に要求するのではなく、コミュニケーションによってその共同体の中で相対的な位置を獲得することへ------大きな物語が失効し公共性が個人の生を意味づけない現在、私たちは個人的なコミュニケーションで意味を備給して生きるしかない。だが、これは同時に私たちが生きるこの社会は、すべてがコミュニケーションによって決定されるつつある、ということだ。そして、公共性が個人の生を意味づけない社会に生きる私たちは、コミュニケーションから逃れられない。」(p.316)

    「必要なのは、不可避の潮流に目をつぶり、背を向けて引きこもることではない。受け入れた上でその長所を生かし、短所を逆手にとって克服することだ。つまり、どのようなコミュニケーションこそがあり得る形なのか ――― それが現代を生きる私たちの課題として浮上してくる。」(p.317)


    現在、僕が執筆している本『「想像の圏外」を想像する』(共著)の視点に通じるものがある。僕らは、宇野さんのように物語作品との関係ではなく、それを社会現象と結びつけて考えているので、まさに上の指摘の点から僕らの論が始まるのだ。ただし、僕らの場合は、排他性によるネガティブな視点ではなく、リアルな社会におけるコミュニティ形成のあり方を考えている。実はこの本、ここ2年くらい断続的に書いていてなかなか終わらないのだが、この夏にはケリをつけたいと思っている。そういう意味で、僕より若い宇野さんの『ゼロ年代の想像力』から、刺激と元気をもらった気がする。
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    『社会を越える社会学』(ジョン・アーリ)

    Book-Ali.jpg井庭研の今学期最後の輪読文献は、ジョン・アーリの『社会を越える社会学』だった。井関さんの論文から始まり、『リキッド・モダニティ』などの社会論、メディア論、複雑系、量子力学の文献を読んできた今学期の総まとめとなるような文献だ。

    ジョン・アーリ, 『社会を越える社会学:移動・環境・シチズンシップ』, 法政大学出版局, 2006


    この本では、「移動」(モビリティ)という観点から、グローバリゼーション時代における新しい社会学のパラダイムの提唱が試みられている。特に「国民国家」内における「社会」を主な研究対象としていた従来の社会学に対し、より流動的で移動がベースとなった捉え方をしていこうという。その意味で、(国民国家内における)「社会」を越える社会学、というわけだ。

    「本書のねらいは、二十一世紀における一つの「学問分野」としての社会学に必要とされる研究カテゴリーを発展させることにある。本書は、ヒト、モノ、イメージ、情報、廃棄物の多種多様な移動について検討し、これらの移動相互の複雑な依存関係や、その社会的な帰結を研究対象にする〔新たな〕社会学の宣言をおこなう。」(p.1)

    「再構成された社会学の中心には、社会(ソサエティ)よりも移動(モビリティ)を据えるべきだ」(p.368)

    この本で、まず面白かったのが、「場所」についての次の指摘だ。

    「「場所」という単一の範疇は、すでに確立しているというよりはむしろ、主催者、ゲスト、建物、モノ、機械が特定の時刻に特定の場所で何らかのパフォーマンスをおこなうためにたまたま寄り集まるというような複雑なネットワークのなかで、その意味が示されることになる。そして場所はパーフォマンスのシステム、すなわち、他の諸組織や建物、モノや機械とのネットワーク化されたむすびつきを通して現実のものとなり、しかも意図せざる結果として安定的なものとなるようなシステムを介して(再)生産される。それゆえ、場所はダイナミックなもの――「動きの場」であり、ひんぱんに移動し、必ずしも一箇所に停泊しない船のようなもの――である。「新しい移動」パラダイムでは、場所それじたいが人間、非人間の行為主体からなるネットワークの内部で、遅いか早いか、遠距離か近距離かの違いはあれ、旅するものと考えられている。場所は関係のようなものであり、人、物材、イメージ、そしてそれらがおりなす差異のシステムの布置構成のようなものである。」(p.xiv)

    場所について考えるとき、まず物理的な場所についてイメージしがちであるが、ここで論じられているのは、社会的な関係性における「場所」である。物理的存在としての固定的な「場所」と、関係性のなかでの浮遊し、ゆらぐ「場所」 ――― 場所について考えるときには、この二重性について考えることが重要だと思う(この場所のもつ二重性については考えていることがあるので、それについてはまた今度書きたいと思う)。この二重性は、やはり「粒子」と「波」の性質を併せ持つ量子の話を思い起こさせる。

    興味深いのは、アーリ自身もこの本のなかで、移動パラダイムの社会学に関係するものとして、量子力学的な考え方を取り上げていることだ。以下のように、Zoharらの『The Quantum Society: Mind, Physics and a New Social Vision』(Danah Zohar, Ian Marshall, William Morrow & Co, 1994) が紹介されている。この本は、ちょうど今学期のサブゼミで読んだ文献だ。

    「ゾーハーとマーシャルが『量子的社会』という観念を練り上げている。絶対時間、絶対空間という固定したカテゴリー、相互作用する「ビリヤードの球」からなる剛体の不可入性、そして完全に決定論的な運動法則に基づく古典物理学に見られる、かつての確実性の世界が崩壊したとゾーハーらは述べる。それに代わるのが、「量子物理学の奇妙な世界、つまり空間、時間、物質の境界をものともしない奇怪な法則からなる不確定な世界」である(Zohar and Marshall 1994: 33)。さらにはゾーハーらは、波動/粒子の作用と社会生活の創発的性格との類似性を見いだしている。「量子的実在は……潜在的には、粒子のようでもあり波動のようでもある。粒子は単一体であり、空間的、時間的に定位され計測可能なもので、ある時点でどこかに存在する。波動は『非局所的』で、空間と時間を超えて拡がり、その瞬時的な作用は至るところに及ぶ。波動は同時にあらゆる方向に拡がり、他の波動と重合し一体となり、新たな実在(創発的な全体)を形成する(Zohar and Marshall 1994: 326)。本書では、「創発的な全体」を生み出しているように見える様なグローバルな「波動」をいくらか類推的に分析することを試みる。とはいえ他方では、「空間的、時間的に定位され計測可能」である無数の単体粒子、つまり人間と社会集団が確固として存在している。」(p.215)

    このように、この本では、アーリは関連する文献を数多く引用・参照しているが、あまり自身の独自の考え方や具体的な分析事例は書かれていない。そのため、この本は、アーリの主張・研究として読むというよりは、関連文献への索引として読むほうがいいかもしれない。そう考えれば、非常に広範な文献をカバーしているので便利だ。

    ただし、アーリはルーマンの理論に批判的な指摘をしているが、僕からするとその指摘は適切でないように思う。むしろ、アーリの議論は、ルーマンの社会システム理論で補強するとよいのではないかと思える。そういう意味で、この本を読むときには、アーリの評価をすべて鵜呑みにせず、実際にその文献を読んで、自分で関係付けをし直す、というのがよいだろう。

    この本の最後に、次のような記述がある。超領域的な研究を志向する僕らを勇気づけるので、少し長くなるが引用したい。

    「ドガンとパールは、社会科学の革新における「知の移動」の重要性を示している(Dogan and Pahre 1990)。彼らは二十世紀の社会科学についての広範な調査に基づきながら、革新は基本的に、学問分野の内部に凝り固まった学者からも、あるいはかなり一般的な「学際的研究」をおこなう学者からも生まれないということを明らかにしている。むしろ革新は、学問分野の境界を横断する学問的移動、つまり彼らが「創造的な境界性(マージナリティ)」と称するものを生み出すような移動によってもたらされる。社会科学において新しく生産的なハイブリッド性を生み出すのに役立つのがまさにこの境界性であり、それは、学問分野の中心から周縁へと移動し、その境界を横断していくような学者によってもたらされる。こうしたハイブリッド性は、制度化された下位分野(たとえば、医療社会学)や、よりインフォーマルなネットワーク(たとえば、歴史社会学)を構成することができる(Dogan and Pahre 1990: chap.21を参照)。この創造的な境界性は、複合的で、重層的で、離接的な移動過程、つまり学問分野/地理/社会の境界を横断して生じうる過程に起因する。知の移動は社会科学に適しているように思われる。」(p.368)

    この部分から僕は、分野にこだわらず自らの研究をすすめた結果、渡り歩いた領域が、創造的な境界性を生むのだ、というふうに理解した。システム理論、モデリング・シミュレーション技法、コラボレーション技法、パターン・ランゲージ、ネットワーク分析、経済物理学、量子力学などなど、これらは分野としてはかなりバラバラなものであるが、僕の中ではつながっている。もちろん、なんでもつながるわけではないから、内と外を分ける、境界線はある。それこそが、「創造的な境界性」の意味するところではないだろうか。DoganとPahreの文献を実際に読んで、さらに考えてみたい。
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    説明がうまくなるコツ (『シンプリシティの法則』, ジョン・マエダ)

    『シンプリシティの法則』(ジョン・マエダ, 東洋経済新報社, 2008)を読んで考えたことの続編だ。

    僕が今回、この本のなかで特にビビっと来たのは、以下の部分。「繰り返し」によってシンプリシティを獲得するという話だ。

    「数年前、私はスイスのタイポグラフィックデザインの大家、ヴォルフガング・ヴァインガルトをメイン州に訪ねた。当時彼が受け持っていた正規の夏期講座で講義をするためである。驚かされたのは、ヴァインガルトが毎年まったく同じ入門講義をすることだった。私の考えでは、同じことを繰り返し言うのは、価値のないことだった。そのため正直言うと、この大家に対する私の評価は下がりはじめていた。ところが、確か3度目の訪問の際に、こう気づいた。ヴァインガルトはまったく同じことを言っているにもかかわらず、言うたびにシンプルになっていると。基本の基本に焦点を合わせることによって、彼は自分が知っている何もかもを、伝えたいことの核心にまで煎じ詰めることができたのである。」(p.36)

    この点はとても同感であり、多くの人に伝えたいと思う点でもある。

    僕は基本的に話すことが苦手で下手なのだが、それでも内容によっては「説明がわかりやすい」といわれることがある。例えば、ルーマンの社会システム理論やカオスの説明などは、なかなか好評のようだ。実は、そのような説明は、何度も何度も説明しまくることによって得られたものだ。最初は言葉が足りなくてうまく説明できなかったり、冗長だったりした話が、徐々に洗練されていく。どのような言葉を選び、どのような順番で話し、どのような例を出せばよいのか。そして、どうすればその話題を面白く聞いてもらえるのか。そういうことを考えながら、何度も何度も話す。その最初のオーディエンス(被害者!?笑)になるのは、僕の近くにいるゼミ生だ。

    あるホットトピックについて何度も話していると、誰に話したのかがわからなくなり、すでに一度話している人にも、再び話してしまうということが起きる。その結果、「その話、このまえも聞きました。」といわれることが多い。また、直接その人に向かって話していなくても、同じ場所にいる他の人に話しているのを聞いて、「(また同じ話だ・・・)」と内心思いながら、その話を何度も耳にするなんてこともあるだろう。でも、一度、次のことを考えてみてほしい。僕は、誰に話したかを忘れるほど多くの人に、何度も何度もその話をしているのだ。 もちろん僕が忘れっぽいというのも関係しているが、それを割り引いても、考える価値がある事実だと思う。

    学生の場合、先生の近くにいる人ほど、先生のそのときのホットなトピックを何度も聞くことになる。もし、先生が熱くなっている話を1度しか聞いたことがないという場合は、それくらいの密度でしか接していないという表れでもある。僕も学生時代に竹中先生や武藤先生の同じ話を何度も何度も聞いたものだ。きっとこのように何度も聞くことで、ようやく先生の言いたいことの真意に近づいていけるのだと思う。人間は繰り返しインプットしないと、頭にきちんと入らないのだから。

    もし同じ話を聞くチャンスがあったら、今度は意識して聞いてみるとよい。よくよく聞いてみると、説明の仕方が微妙に違っているはずだ。相手によって説明のレベルや例示を変えている場合もあるし、説明が若干進化しているはずだ。うまくいっていれば、余計な部分を省き、新しい言葉に置き換えられたりして、徐々にシンプルになっているはずだ。これはまさに、上記の引用の部分の話にほかならない。


    さて、ここで言いたいのは、「だから、僕の話を何度も我慢して聞きなさい!」ということではない。話すことが仕事の僕らも、何度も何度も話すことで話が洗練されていく、ということを知ってほしいのだ。みんなだって、もっともっと話さないといけない。それが言いたい。

    ゼミで研究発表をすると、内容や言葉があいまいなまま発表がなされることがある。これはおそらく、誰にも話していない状態で発表しているに違いない。自分で話していることを自分でもあまり深く理解できていないし、その説明がどのように伝わるのかがイメージできていない。言葉の選び方に迷いがあり、それゆえ曖昧でわかりにくものになってしまう。これでは研究内容の議論にまで至らず、聞いている方も内容の理解をすることで精一杯になってしまう。そういう発表はいただけない。先にほかのゼミ生に何度も話し、話を洗練させてから、発表の場に臨むべきだ。

    話すことが得意な人も苦手な人も、どんどん相手をみつけて、何度も何度も話をしてみる。ゼミ生はそのための仲間なのだから、活用しない手はない。僕の個人指導を受けているわけではなく、研究のコミュニティに所属しているわけなので、何度も自分の研究について話すチャンスがあるわけだ。

    この鉄則は、文章を書く際にも同じだ。論文や計画書を書くときには、そこに書く予定の内容を何度も何度も話すことが重要だ。準備段階でひきこもっていては、本番でうまく話せるわけがない。完全主義者は、ひとりで完全なところまでもっていこうとするかもしれないが、真の完全主義者は、事前にたくさん話し、本番で完全な話をする人のことかもしれない。

    同じことを繰り返し言うのはばつが悪いこともある。あなたが人目を気にするならなおさらだ―――たいていの人は人目を気にするものだが。しかし、恥ずかしがる必要はない。反復はうまく機能するし、みんなそうしているのだから。合衆国大統領をはじめとする指導者たちも例外ではない。・・・」(p.37)

    恥ずかしがらずに、何度も何度も話してみよう!
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