井庭崇のConcept Walk

新しい視点・新しい方法をつくる思索の旅

東洋からの貢献、空、ナチュラル・ウィズダム:『ブッダの夢』を読んで

河合 隼雄さんと中沢 新一さんの対談本『ブッダの夢』、最高に面白かった。

僕が目指しているパターン・ランゲージとは何かということを考えるためにも、とても勉強になり、かなり共感する魅力的な言葉たちに出会うことができた。

まずは、本書の冒頭の問題意識にところで語られている、中沢さんの以下の発言。

「仏教はふつうにいうところの宗教ではない。それは言ってみれば『知恵』なのである。」(中沢, p.9)

「東アジアの端っこの列島に生きてきた日本人が、なにか独創的な仕事で人類に貢献することができるとしたら、それはこのけっして体系をなさない、そして日常や実用からはなれることのない『知恵』の倉庫から出発して、つつましいけれども深い願いをこめたさまざまな『道』をつくりだすことしかないだろう、とぼくは思ってきた。仏教はそういう日本人がなにかの独自性をもった創造を行おうとするときに、いつも羅針盤のような役目を果たしてきてくれたのだった。僕たちの時代の新しい『知恵』のかたちを生み出していかなければならない。」(中沢, p.10)

僕はパターン・ランゲージの研究をしながら、その提唱者であるクリストファー・アレグザンダーが東洋的な考え方に影響されてつくった思想や理論、方法というものを、日本人である僕(たち)はどのように発展させ、返すことができるだろうか、ということを常々考えてきた(海外研究者から15 Propertiesについて日本人の視点から見るとどうなのかと問われてうまく答えられなかった経験もある)。知恵としての仏教という視点によって、というのは、まさに、共感するところである。最近の僕の関心にドンピシャで、それを言語化してくれているというような文章だった。

この本のなかでは中沢さんが仏教にはまる経緯について語られている部分があるのだが、そこで、二元論に対する第三の道というか、能動と受動の間の「中動」のような、中間に関する話が出てきた。

「あるとき、たまたま読んだ本に禅の悟りについて書いてあった。そこには禅というのは、悟りは自力だ自力だと言うけど、自力じゃないんだとある。禅の悟りというのは、卵の中に雛がいるようなもので、雛が、もう孵化しようかというときに、中から黄色い嘴【くちばし】で、卵をツンツンツンツンとやるんです。そうすると、その気配を察知した親鳥が、上からツンツンって硬い嘴でつついてくれる。その二つのリズムが合体したとき、すっと割れるんだ、悟りというのもそういうもんなんだ、ということを言っておりますね。それを読んで、自力と他力には、ちょうど中間点があるんだなというのを感じたんです。そこで自分の求めているのはこういう、中間なんだと思いました。」(中沢, p.22)

「僕が決定的に仏教に転向したのは、構造主義がきっかけになっています。レヴィ=ストロースやラカンを読んで、自分が仏教徒であることを自覚しました。・・・ただ、キリスト教の自力と浄土真宗が教えている他力思想のちょうどうまい中間点があるかもしれない。それはどこにあるのだろうという探究が始まったのが二十代の後半くらいで、それから僕は、本格的にチベット人のところに行き出したんです。」(中沢, p.23)

僕が探究しているのも、まさにこの中動の領域である。中沢新一さんは、こういうことにずいぶん早くから気づき、取り組んでいたんだなぁ、と、やはりもっと本を読んでみたいと思った。そして、いずれ、僕の方も考えがまとまったら、ぜひ一度お話ししてみたいものだ。

なお、この流れで、河合隼雄さんも、中動の話をしている。

「中間点という言い方をすると、僕の場合の中間点は、治すと治るの中間点ですね。」(河合, p.24)

僕が無我の創造で論じていることにも通じるし、「支援する」と「する」の間になるパターン・ランゲージによる支援にも通じる話である。やはり、中動態は熱い。

他にも、「名づけ得ぬ質」とパターン・ランゲージの関係に重なるような内容も語られていた。次の文は、河合さんの発言と、それを受けての中沢さんの反応である。

「僕がいま考えているのは、・・・たとえば僕がこのコップのことを言いたいんだったら、このコップを言葉で記述するのではなくて、僕の言葉に乗った人は、その調子で行けばコップに当たるとか、そういう言葉の使い方がありはしないかと考えて入るわけです。つまり、そのことを直接には表現できないので、この線を無限にたどればそこに行きつくというような、方向と運動を与えるような言葉の使い方はできないだろうか。そういう言語の使用法というのはまったく違いますね。精神分析における言葉と。」(河合, p.40)

「先生は今、ほのとに唯識【ゆいしき】の思想に近づいている……。心の分析の究極に、たんなる「無」じゃなくて、「充実した空【くう】」を出現させようってわけですから」(中沢, p.46)


河合さんができないかと言っている言語の使用法こそ、パターン・ランゲージが目指しているものではないかと思う。つまり、「名づけ得ぬ質」そのものは言語化できないが、それへと至るパターンを言語化するという発想である。それにしても「名づけ得ぬ質」を「充実した空【くう】」と捉えるのは、とても魅力的である。

マレー・ゲルマンの『クォークとジャガー』の本が取り上げられ、複雑系の話になる。複雑系科学出身の僕としては、胸熱な話である。そこから西田哲学の話に行き、宗教の話になる。この組み合わせも抜群に魅力的だ。

「散文は複雑系を追求し、科学が単純系を追求し、単純と複雑の結合を詩が描く。そして、西田哲学はどこにあるかというと、この詩というものの延長になると思います。あるいは詩の直前にあるかもしれません。これは概念という単純系によって複雑系の世界の本質を描き切ろうとするわけですね。だから「絶対矛盾の自己同一」とかいろんな言い方をする。・・・宗教というのは、その先にあるものだと思いますね。宗教というのは、複雑系の底の底まで行った時、それがきわめて単純なものであることを見出して、同時に科学を探究していった時に、それはもっとも複雑なものを生み出し得ることを同時に捉える視点です。だから、詩的な思考法と宗教の思考法は、同じ方向性を向いている。・・・たぶん宗教と科学は、この意味で言うと、対立などはしないんじゃないか。新しい科学の形として、詩的言語の方向へ向かい、ヴィトゲンシュタインが言ったように、あるいはアインシュタインが考えたように、科学は芸術に近づいていきます。単純系と複雑系をひとつのところへ絶対矛盾の自己同一化させてしまうようなものはつくり得る。」(中沢, p.76-77)


この本にこういうふうに複雑系の話が出てくるあたりに、もと映像(映画)クリエイターで、最初は複雑系の研究をしていた僕が、なぜパターン・ランゲージを研究していて、なぜいま仏教と神話に興味があるのか、ということがよくわかる。その意味で、アプローチや軸足は違うけれども、中沢さんはかなり僕の先行探究者であると言える。

この本に出てくる箱庭療法の話も面白いのであるが、僕の関心でいうと、箱庭療法と芸術作品の関係についての質問に対しての河合さんは次の答えが、とても興味深いので取り上げたい。

「芸作作品の場合とほとんど似ています。しかし、芸術家と呼ばれている人は、自分の内的体験が、他の人とつながるということが、どこか念頭にあるでしょうね。自分自身ももちろん、これと同じようなプロセスで癒されているわけだけれども、それが他の人に対しても意味のあるものとして提示できるという才能がなかったら芸術家になれないですね。」(河合, p.120)


この話は、まさに、村上春樹が、小説を書くことは自分の癒しであるとともに、意識の地下に潜って、読者に通ずる水脈まで突き抜けるという話に通じていると思う。

その流れで、箱庭療法では、人生の空虚を分離していくんだという話になり、その箱庭療法で行なっていることを、宗教に重ねて、中沢さんはこのように語っていた。とても面白い。

「ちゃんとした宗教を通過していくというのは、日常の人生の空虚感を抱えて、それを意識して自分の内部から分離できるかにかかっているように思います。」(中沢, p.123)

「禅宗なんかが、悟りと言っているのがそれだと思います。禅は人生の空虚をどうやって分離していくかという、「わざ」を教えている。「空」が、自分の目や鼻から出入りしている、そういうふうにして、自分はあるということを知ることです。ですから、悟りを得るといっても、完全解脱【げだつ】とか、絶対幸福の中に移ってしまうのは、まだ宗教としては未熟な、途中のものだと思います。宗教はそれをこえていく必要がある。自分の抱える空虚をちゃんと心の中で分離して、距離をうまくつくりだすことができれば、それで人間ができることとしては十分なんだということしか禅は言ってない。しかしそれが言えるということが宗教の究極なんじゃないかしら。」(中沢, p.124)

なるほど、「禅は人生の空虚をどうやって分離していくかという、「わざ」を教えている」のか。興味深い視点を得た。

他にも、チベットの土着のボン教の話から、ナチュラル・ウィズダム(Natural Wisdom)という話が出てくることろがある。

「宗教というのは、宗教としての極点を登りつめたら、ナチュラル・ウィズダム(Natural Wisdom)みたいなものに向かって自分を開いていくものだと思うのです。だから、宗教の体系とか哲学とか、とにかく極めるだけ極めちゃったら、もうそれは全部捨てて、解体して、自分もナチュラル・ウィズダムのほうに開いていくものだという考えですね。ボン教の人たちを見ていると、ナチュラル・ウィズダムを出発点にして、宗教に行かないんですよね。仏教のような宗教へ行かない。それが、アメリカ・インディアンの世界観とよく通じています。」(中沢, p.133)

「ナチュラル・ウィズダムに、ちょっとだけ体系化の手を加えるんだけど、その体系化は神話のレベルぐらいにとどめといて、けっしてきちんとした宗教をつくらないんです。・・・現代のアメリカ人はそのインディアンの世界に、精神的な遍歴の果てに辿りつこうとしている。宗教とか国家とか文明とかを辿り尽くして、極限まで来て、さあここからどちらか別のところへ向かわなきゃいけないという時、そういうものを解体して、放棄していく方向へ行こうとしている。その向こうにナチュラル・ウィズダムみたいなものが開けているんだろうなと、僕は感じとれるんです。」(中沢, p.133-134)


このことと、パターン・ランゲージが普遍知ではなく、日常的な実践の人々の知恵を言語化していることや、僕が井庭研の看板を最近「Natural & Creative Living Lab」とたのは、偶然の一致ではない。Naturalは、単に自然が好きとかそういうレベルのものではない。生きるということや生命に通じるレベルでのNatualである。

最後に、神話世界を構成する神話以外の要素についての話も興味深かった。儀礼や巡礼、踊り、詩などは、神話では伝えきれない、神話からはこぼれてしまう大切なことを共有するためのものだという話。

「神話には、とにかくある論理があって、世界観や論理を組み立てていくけれども、そこからこぼれちゃう経験があって、それを全部拾い集めてくるのが儀礼じゃないか。だから神話と儀礼を対立させるなんていうのはだいたい間違った考え方で、神話も儀礼もいっっしょくたになった人間の経験の領域があるんだ。現代人は、それを小説のような物語でやったり、映画で解消しようとしている。・・・神話はそれだけが自立しているのではなくて、神話では語れないものがある、夕日の輝きそのものを取り出す語りであったり、踊りであったり、あるいは詩のようなものだったりするものが、神話を取り囲んでいる。そういうものの全部で、神話世界は構成されているんだという考えですね……」(中沢, p.140)

これも、パターン・ランゲージを神話的な何かとして見るべきではないか、と感じている僕にとっては、発見的な内容であった。パターン・ランゲージが神話そのものとの機能的な等価性を言う以外の可能性についての視野が開けた。

『仏教が好き!』もそうだが、中沢 新一さんと河合 隼雄さんの対談は、めちゃくちゃ面白い。もうこういう対談が聞けないのだと思うと、残念極まりない。もっとお二人の対談を聞きたかったし、その後の展開も見てみたかった。

『ブッダの夢―河合隼雄と中沢新一の対話』(河合 隼雄, 中沢 新一, 朝日新聞社, 2001)
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