井庭崇のConcept Walk

新しい視点・新しい方法をつくる思索の旅

純粋経験、行為的直観、ポイエシスへの興味:佐伯啓思『西田幾多郎』を読んで

僕の研究・実践と、日本の哲学である西田幾多郎の思想との関係を考えたいと思っているので、まずは手始めに、本人の著作ではなく、それを取り扱っている本から読んでみようと思い、佐伯啓思さんの『西田幾多郎:無私の思想と日本人』を読んだ。

この本は、本人も、「もとよりこれは西田哲学の解説書ではなく、私自身の関心と西田哲学を交差させた評論的エッセイです」(p.255)と言っているように、西田幾多郎の入門書というよりも、西田幾多郎の話を取り上げ、それと絡めながら佐伯啓思さんの考えを述べている本である。

なので、まずは西田幾多郎の人物や概念を勉強するというよりも、どこがどう面白いと思われ、どう活かされているのかを知りたいと思っているので(きわめてプラグマティックなスタンスである)、その目的に合う本であった。

西田の「純粋経験」「行為的直観」「ポイエシス」などの概念がどのようなものなのか、ぜひ原著にあたってみたいと思った(こういう本での解説は著者の解釈のフィルターを通ったうえでの説明なので、それがそのまま原義だと思うべきではないため)。

まず、おなじみのこういう話題から。

「西洋思想では、この「私」という「主体」は決定的に重要なもので、「私」という「主体」が自然に働きかけて、自然をコントロールしたり、社会に働きかけて理想社会を実現したりしようとする。」(p.58)

「しかし、日本の思想には、どこか、「私」を消し去り、無化してゆく方向が色濃くただよっています。「主体」というものを打ち出さないのです。これは、言語的にいえば、日本語では、しばしば主語を省略したり、主語を重視しない、という点にもあらわれてくるでしょう。和歌や俳句でも通常、主語はありません。一場の情景と、その場に溶け込んだ詠み手の感情が一体化して切り詰められた言葉に乗せられるのです。むしろ、私を消し去ったところに、自然と一体となったある情感や真実を享受されると考える。」(p.59)


西田は、体験そのものである「純粋経験」を振り返るときに初めて「私」というものが出てくるという。「私」が「経験」するのではなく、「経験」が「私」を生みだすのです。経験があるからこそ、それを反省的に理解して、そこに「私」がでてくるわけです。

「個人あって経験があるのではなく、経験あって個人あるのである」(『善の研究』)というわけです。」(p.57)

「「私」という主体や自己意識があって、行為を組み立てるのではなく、ただ行為のなかに自分が表現されているだけ、と考えている。」(p.103)


この、「私」が主体として先行するのではなく、「経験」がそのままあり、「行為」をすることに付随して「私」が出てくるということだという発想は、パターン・ランゲージで行為が支援され実践されることで、自分らしさが出てくるという僕たちの考えに通じるものがあると感じた。

さらに、心的システムの作為による創造ではない「無我の創造」や、ティク・ナット・ハン師が言う「対象と一体になる」という話に通じる話も出てきた。

「西田は「物となって考え、物となって行う」といいました。そしてそれをまた「行為的直観」ともいいました。」(p.98)

「西田のいう直観は、・・・何ものかに憑かれ、それこそ突き動かされ、そこにもはや「私」は「我」の意識が入る余地がないような行為のなかでこそ、人は行為や存在の意味を直観として把握する、ということなのです。」(p.99)

「たとえば画家が、絵具をもって「ひまわり」という対象(もの)に向かい、キャンバスにある「形」を生みだす。この時、絵になるべき「ひまわり」の図像があらかじめ頭に描かれているのではない。彼は、ただ「ひまわり」に触発され、それに肉薄しようと「私」など消し去って、ただひたすら絵筆を動かしているのです。しかし動かすことでまた「ひまわり」が直観されてくるのです。ここでは「描く」という行為と「もの」の本質直観は決して切り離された別々のものではない。その場合に、重要なことに、このような行為的直観にあっては、まずは自我を消し去り、無化しなければなりません。対象と自分を一体化しなければなりません。
 それが「ものになる」ということです。その時に、いわば意識の見えない奥底にある「鏡」(無の場所)に、その「もの」の本質が映し出されてくるのです。「もの」を映し出すということは、また、「もの」を通して「私」を映し出すことなのです。」(p.102)


そして、次のような話がでてくるということで、西田幾多郎の『日本文化の問題』という本も、僕は読むべきだと思った。

「ここで西田が強調していることは、日本文化の核心とは、己を空しくし、無私や無我にたって事物に当たる精神だというのです。己を無にして「物となって見、物となって行う」ということです。私心も作為も意図も排し、ただ現実に向き合い、あたかも自己を一個の物であるかのように、己を現実に差出し、やるべき働きを行う。・・・たとえば、次のようにいう。

「私は日本文化の特色と云うのは………何処までも自己自身を否定して物となる、物となって見、物となって行うと云うにあるのではないかと思う。己を空うしえ物を見る、自己が物の中に没する、無心とか自然法爾とか云うことが、我々日本人の強い憧憬の境地であると思う。……日本精神の真髄は、物に於て、事に於て一となると云うことでなければならない」

自己を否定し、私を排し、無心になって、対象と自己を一体にする。自分自身が物となる、こうしたことは芸術活動などを考えればわかりやすいことだし、あるいは、一幅の絵を見、茶碗をめで、桜に感動するといたいかにも日本的な美的な文化を取りだせばよくわかることでしょう。」(p.172)


そして、西田幾多郎は「ポイエーシス」ということを言っているので、オートポイエーシスや創造実践ということを扱っている僕としては、そのあたりのつながりも考えていきたいところだ。

「「個性」をもった「私」という「個物」は、ただ生まれてそのままで「私」でもなければ「個性的」でもありません。人は生まれたままで個性的なのではない。それは「ポイエシス(制作)」においてこの世界へ働きかけ、創造的力点となることによって初めて「私」となる。」(p.193)

「西田は次のように書いています。

「我々は我々の自己の底に、深く反省すればする程、創造的世界の創造的力点となると云う所に、我々の真の自己があるのであり、我々の自己が、かあかる意味に於いて個物的となればなる程、真の自己となると云うことができる」(「国家理由の問題」)」(p.194)


世界のなかで、主体としての「私」がまずあって、その「私」が世界とどう関わるのかではなく、経験があり、そのなかあで「私」がどう生じるのか、という発想を、もう少し勉強してしっかり理解し、関係を考えていきたい。

『西田幾多郎:無私の思想と日本人』(佐伯啓思, 新潮社, 2014)

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