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1.遅れてきたパーソニアン
社会学者としてのアイデンティティすら喪失ぎみの“ぼく”にとって、なぜ、いまになって、タルコット・パーソンズを語ることに意味があるのだろうか。やや遅れてきたパーソニアンとして、だからこそ、そうあろうと過剰に適応したのが70年代だった。だが、パーソニアンとしての誇りをもって80年代の前半までをしっかりと生きてきたのに、いまパーソンズの社会学的な貢献を語ることに、ぼくはなぜある時代錯誤感をもつのだろうか。そのズレの感覚を解読することは、パーソニアンとしてのアイデンティティにつつまれて幸福だった頃の自分を再解釈することになるし、あるいはそれ以上に“パーソニアン”としていつかはやらなければならない使命なのだろう。
フォロアーは、いつも時代の状況の読みに敏感でなければならない。フォロアーは、リーダーのように自分からものごとを想像するパワーがない以上、誰に従えばよいか、という状況の読みにかんしてだけは、鋭い感覚をもたなければならない。そうしないかぎり、フォロアーは単なる弱者(無能者)として、時代の流れから追放されるだけである。有能なフォロアー(?)は、時として能力はあっても意固地で時代の要求に鈍感なゆえに置き去りにされるリーダー以上に、社会の大きな流れの生成に重要な役割をはたすはずである。もしもフォロアーの行動が、その読みによって、大きな流れを生成するきっかけとなったり、また大きな流れを動かす結果をもたらすならば、フォロアーの読みと行動は無視しえないはずである。そのような意味で、フォロアーはその社会的役割にある価値を付与されるのである。
パーソンズという偉大なリーダー(ある時は教祖のように!)のもとで、パーソニアンたちが、構造機能主義の思想と理論のセットにたいして、フォロアーとしてどのような役割をはたしたのか。それは、パーソンズの理論と時代精神との関係を解読することになるはずである。有能なパーソニアンであるためには、パーソンズの貢献と限界を、理論的な枠組ばかりでなく、時代状況との関連で直感的に理解するセンスが大切である。
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