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2.ロールプレイは、もはやかわらざるをえないのか?
ジェンダー関係の中でもっとも目に見えやすいのは「男らしさと女らしさ」をめぐる役割の関係である。それは、家族の中では男性が生産労働者(外にでて、給料を稼ぎ、家に入れる役割)、女性が再生産労働者(子供をつくって、家事と育児に専念する役割)という形に、会社の中では男性が基幹労働者(がんばって、管理者!)、女性が補助労働者(コピーとりだけならプロ)という形に典型的にみられるロールプレイである。
こんなプレイを、いま、誰が信じているのだろう。それほど、日常生活における豊かさの獲得プロセスは、いままで自明とされた役割関係に変更を迫ってきた。しかし豊かさだけではどうしようもない現実もそこにはあった。家庭と仕事場が区分けされ、都心と郊外の地域区分がセットされ、男らしさの表現として、男は都心にある企業に通勤し、女らしさの表現として、女は郊外のきれいな家庭を守る、という使命が共有されている以上、その関係を壊すことは、そう簡単ではなかった。しかし豊かさの実現が女性にとって意味をもちはじめると、女性は、家に専念することにつらさを感じるようになった。消費する女は、その離脱を示す重要な兆候であった。しかし結婚し子供をもつと、どんな女性にも妥協が強要されてきた。女はやはり家庭にこもることを強いられた。それを拒むには、子供をつくらない、という選択をするか、さもなくば、子供の面倒を親にみさせるということでしか、解決策はなかった。しかもこれだけでない。家庭の弱者は、子供以外に老人もいた。これから確実に訪れる高齢社会のなかでは、誰が高齢者の面倒をみるのか、という切実な問題が未解決である。女は、この問題に一人で立ち向かうのか。すでに、いままでの役割関係では、解決できない大きな問題がここに提示されていることが分かる。弱者の世話に専念する女性という美しい神話は、もう通用しない現実が目前にある。それは、女がもう損な役割は演じたくないという以上に、演じきれない現実が役割の変更を迫るのである。
新しいネットワーク環境のインフラは、このような現実に新しい可能性を与える。すでに組織については、リストラやリエンジニアリングや組織のフラット化ということで、形態の変容が自明なものになりつつある。従来の階層的な構造が効率追求という点でも、また創造性の発揮という点でもかつてのような有効性をもたない、という点では、ほとんどの組織人が了解している。
しかし家庭生活については、まだそこまでの変化への期待はない。しかし組織と家庭がセットである以上、組織の変容は家庭の変容をもたらし、その反映として、男らしさと女らしさをめぐるロールプレイも大きく変容せざるをえない。
たとえば、家庭の中にさまざまなメディアを持ち込むことで、男も女もホーム・オフィスでの在宅勤務が可能になった。このことは男性にも女性にも生産労働者でありながら再生産労働者であること、もっと簡単にいうならば、共に働きながら子育てをすること、を可能にする。しかしこれは、仕事場が企業から家庭になる、ということではない。ネットワークの環境にモビリティの感覚がつながると、仕事は場にあるのではなく、人に装着する。つまりどこにいようと、そしていつでも、人が仕事をしようとしてネットワークの環境を開けば、そこに仕事場が立ち上がるのである。ユビキタス・コンピューティングの発想にあるように、仕事場が遍在することで、人は自分の思い一つで仕事をすることができる。それがたまたま組織のデスクであり、家庭のテーブルにすぎないのである。とすれば、ここでは、男らしさを表現する固有の場としての組織といった対応関係は解消されるから、今までの男らしさの役割演技から自由になるはずである。もっと自由に自己の役割表現が可能になるはずである。同様のことは、女性にもいえるはずである。上のCMでいえば、そこにはポケベルという新しいメディアによって「お母さん」の役割から自由になった(これから自由になる)女性がいるのである。母親は、すでに既存の母親の役割を根本から再構成する機会を与えられたのである。では、どのような選択をするのか、ネットワークとメディアの登場は、ジェンダーにおけるロールプレイのあり方に新しい方向性を提供する。その新しい方向を選ぶのか選ばないのか、それはジェンダー自身の問題である。
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