media & gender
with Fumika Sato
 
1. メディアの中のジェンダー
2. ロールプレイは、もはやかわらざるをえないのか?
3. 愛が、なくなる?
4. オンナは、もう泣かない?
5. ジェンダーのなかのメディア
3.愛が、なくなる?

キムタクが口紅を塗られる、というCMがある。男なのに、女性らしさのシンボルともいえる口紅がいわゆる女性よりも数段似合う、というねじれた現象がここにみられる。しかし男が化粧をする、という大きな流れで考えれば、男が口紅をつけたっていいのかもしれない。似合えば、すべてが許されるのであって、既存のがちがちのジェンダー・ルールはもう規制力をもたないのかもしれない。「好きならば、いいじゃないか」という以上に、「似合うのだから、いいじゃないか」というところまで、社会的な規制は緩やかになっている。

愛情とセックスをめぐるジェンダー・ルールも変わりつつある。異性愛至上主義は、その社会的影響力をあきらかに後退させている。愛情のなかでも、友情よりも恋愛が優位にたち、さらに恋愛は異性愛でなければならない、という愛情ルールの階層性は、崩れつつある。そのルールを支えたセックスと恋愛と結婚(生活)という三位一体の結合がもはや維持不能に陥っている現状に呼応して、異性愛至上主義はかつてのような勢力を誇ることができない。

ジェンダーをめぐる愛情のルールがこうして変容しようとしている。ゲイ・ムーブメントがそれなりに社会的な承認を獲得し、年上の女が年下の男と恋愛しても、奇異なまなざしにうろたえる必要もなくなり、素直に愛の表現ができるようになっている。生物としての男性が社会的な役割としての男性(たくましい男)を演じなければならない、という対応関係は一つの関係にすぎず、本来、社会的存在としては男らしさと女らしさはすべての人に同居し、時には女らしさの表現にこそ、その男性のあり方としてふさわしいという言明すら許容されるようになりつつある。多様な情緒的な表現が、個人のニーズとして必要である以上に、社会的な役割演技として期待されもしている。愛の関係は、すでに多様である。

ネットワーク環境の成立は、このような愛情表現の多様性を支持する。ネットワーク上の存在は、生物的存在からの拘束が弱い分、より自由な自己表現を可能にする。よくいわれる「ネットおかま」(ここには、まだ蔑視のまなざしが残るが)という、ネット上で女を装う男とか、その逆の男を装う女が、ネットワーク上ではしばしば現れる。これも、その多様な自己表現の一つである。自由に自己表現をしようとすれば、このような両性具有的な表現方法を採用することは、必然である。もっと既存のジェンダーに囚われない自己表現があってもおかしくないし、その可能性を新しいメディアは支持するのである。もちろん、自分のジェンダーを変えてメディアに登場するという現象は、紀貫之の例を持ち出すまでもなく、昔から作家などにはよく見られたことである。しかし、ここでは、日常性の世界で、誰もがネットワークを通して、自由にジェンダーを変容させることが可能なっている。ジェンダーを自由にトランスして演出できるようになった、ということである。この新しいネットワークでは、既存の男らしさや女らしさにこだわる必要がない。好きなジェンダーを、そして自分に似合ったジェンダーを選択し、それで自己表現することが自由になったのである。

しかし気をつけなければならないのは、それは、匿名性ゆえにそのような多様な表現が実現した、ということではない。匿名性は、ネットワーク以前の階層的メディアにおける産物にすぎない。匿名性のもとでのジェンダーの変容は、虚偽としての自己表現にすぎない。それでは社会的な承認を獲得することはできない。ネットワーク環境では多様な自己表現をしても、それは明確な自己(nameと password)を前提にして行われるものであり、匿名性とは対極にある主張する自己である。その自己が多様な自分をもつのである。ある時は女性に、ある時は男性に、という表現に自己を託すのである。ここでは、ジェンダーはきれいに超越される。愛情は、いろいろの形態のなかで表現され充足されるのである。

またネットワーク環境では、すべての集団の境界が曖昧になるから、核家族を支えた、性的関係の夫婦関係への独占的な帰属、という条件も同時に曖昧になる。とすれば、この性的関係を媒介に形成し維持される親子と夫婦の絆さえ、その絶対的な地位を放棄し、あくまでも相対的な位置関係のなかで維持されるものになっていかざるをえない。

その場合、大人も子供も、男も女も、もはや「家族だから」という暗黙の規範的理由だけで互いにもたれかかっているわけにはいかなくなる。家族が新しいメディアによって家族の外部と容易につながるようになった分、そこにはある種の緊張関係が生まれる。ネットワーク環境がもつ「所有から共有」への価値原則の交代は、愛情とセックスをめぐる関係にあって、最後の境界破りの実践を要求してくるのである。この時、家族とは何なのか、もっとも根本的な問いかけがなされなければならない。