ネットジェネレーションの期待と自覚
環境情報学部教授  熊坂賢次
 
1. ジェネレーション・ラップ
2. 露出と覗きの快感--拡散し融合する個人--
3. 探索と支援--新しいコミュニケーション作法--
4. 携帯家族とネットコミュニティ
5. ネットジェネレーションのミッション
2.露出と覗きの快感--拡散し融合する個人--

最初は、「露出と覗きの欲望の解放」という、ちょっといかがわしいところから始める。これは、ネットジェネレーションの学生の行動を観察していると、かれらが自分のホームページに凝るほど、どんどん自分の世界をさらけ出すようになる、という発見?から、考えたことである。もちろん、載せるコンテンツが極端に乏しいから、苦し紛れで自分の秘密を暴露するとも考えられるが、にもかかわらず、そこにネットワークでコミュニケーションをすることの本質?が隠されているような気がする。かれらのウェブでの行動をみると、あきらかに自分の秘密を露出する傾向があるし、同時にネットワークの中をサーチしながら、他人の秘密を覗き見している。

露出症と覗き癖は、自分と他人の間に引かれた境界を超えるという意味では同じ特性で、境界を超える方向が違うという点では対照的な関係にある。この2つの欲望は、ネットワーク環境以前の段階では、自他の境界を安易に超えるという理由で、「悪い」行為とされていた。

そこで整理をする。行為論の視点から、まず露出とは「私の私的なことを公にする」こと、そして覗きとは「他人の私的なことを私のものにする」こと、とする。ここから一般的な行為のフレーム、「誰(客体)の、どんな行為を、どのように方向づける」を提示する。とすると、ここに3つの弁別軸が設定できる。最初は、客体が「自分(私)か他者か」、つぎは行為領域が「私的か公的か」で、最後は、 方向づけが「私化(私的な扱いをする)か公化(公にする)」であるすると、図1に示すように、8つの行為類型が導出できる。

(類型1-1:私有)自分の私的なことを私化する。
これは、自分のことだから、自分の世界に閉じこめ、外部にはオープンにしないという行為である。通常のプライベートな行為がこの類型に相当する。

(類型1-2:隠蔽)自分の公的なことを私化する。
これは、社会的な責任がある(公的な自分)ので、本来は公開すべき自分のことなのに、自分の秘密として隠してしまう行為である。これは社会的には許されない(非許容)行為である。

(類型2-1:露出)自分の私的なことを公にする。
これは、本来はプライベートな行為であるはずなのに、外部に向かってその行為をオープンにする行為で、自分の恥部?を平気で『露出』することである。ネットジェネレーションの間では、ウェブが話題になった当初、自分の日記を公開することがブームになり、いまでもそれはウェブの世界では了解された行為になっている。これはウェブでの新しいルールに適合した行為である。だとしたら、ウェブでは露出する行為は社会的に許容されている。

(類型2-2:役割)自分の公的なことを公にする。
これは、自分の社会的な役割を全うする行為で、社会的な責任の遂行である。

(類型3-1:覗き)他者の私的なことを私化する。
これは、他人の秘密を自分だけが知る行為である。本来ならば他人のプライベートな行為だから、見てはいけないのであるがそれを自分のものにしてしまう。行為で、『覗き』である。


ネットワーク環境以前ならば、これは許されない行為であるがウェブ上では、かなり許容されている。CCDカメラを活用したピープホールがセットされた環境では、あきらかに覗くことが許容されている。覗きはウェブ上のルールではかなり許容されている。

(類型3-2:占有)他者の公的なことを私化する。
これは、本来社会に公開されるべき行為や情報を自分のものことで、どのような環境でも非許容的な行為である。

(類型4-1:暴露)他人の私的なことを公にする。
これは、他人の私事を社会的にオープンにすることで、三面記事のように『暴露』する行為である。ウェブ上でも、神戸で殺人事件を犯した少年の顔写真をネットワークにいち早く載せてしまうという行為のように、マスコミの3面記事以上に歯止めのかからない行為が存在している。ただこの行為は、ウェブ上でも許容されてはいない。

(類型4-2:共有)他人の公的なことを公にする。
公的なことを公にすることは、社会的な役割・責任の遂行であるが、この場合は、客体が他人の場合なので、それを、ここでは『共有』と呼ぶ。通常では報道とか広報といった行為がこれに相当する。

以上、8つの行為類型を、社会的な許容/ 非許容の観点から弁別すると、図2になる。ここでは、ネットワーク環境の成立以前と以後で許容性の比較をしている。それをみると、露出(2-1)と覗き(3-1)が、ネットワーク環境では許容的になっている。このことは、ネットワーク社会における個人のコンセプトを考えるうえで、非常に大きな意味をもっている。


まずは、ネットワーク以前では、個人の私的領域は私有(1-1)の領域のみで自己完結する構造になっている。つまりこの個人は、自分の私的な世界をどこまでも閉じて、自他との間に明確な境界を設定している。それがいわゆるプライバシーである。これにたいして、ネットワーク環境では、個人は、露出(2-1)と覗き(3-1)が許容されることで、外部に開かれた存在になっている。露出と覗きは、セットになって新しい個人を生成している。これは、自己を外部化(露出)させ、同時に環境を内部化(他者からの覗き)させることで、自己の拡散をはかりながら、同時に自他の境界を融合させている。これがネットワーク環境に行動する新しい個人(ネットジェネレーション)である。

また、公私の境界の融合は、露出(2-1)と役割(2-2)の間でも発生している。新しい個人の意識では、自分を公にすることにかんしては、私的も公的もない。露出も役割も等価である。従来の個人のように、外部に自己を開くのは社会的な役割が明確な場合に限定されるという拘束は、ここにはない。ネットワーク環境は、自己を外部に開くことにかんして、私的領域と公的領域の区分を積極的に放棄させる。つまりネットジェネレーションは、公私の境界を融合させることで、個人(内)と環境(外)との関係を一層融合させている。

こうして、自他と公私の融合が許容されることで、自分と環境との反転が容易に行われる。つまり反転とは、自己が外部化され、外部が内部化されることで、あたかも個人それ自体が環境化し、その環境からみつめる個人が新たに生成される、ということである。その個人は旧来の個人の枠を超越させた環境=自己を内部化させており、環境にたいして間主観的な存在として編成された個人である。これが、ネッワーク環境が産んだネットジェネレーションという、拡散し融合する個人である。