ネットジェネレーションの期待と自覚
環境情報学部教授  熊坂賢次
 
1. ジェネレーション・ラップ
2. 露出と覗きの快感--拡散し融合する個人--
3. 探索と支援--新しいコミュニケーション作法--
4. 携帯家族とネットコミュニティ
5. ネットジェネレーションのミッション
3.探索と支援--新しいコミュニケーション作法--

拡散し融合した個人は、社会環境にたいしてどのようなコミュニケーションをとるのだろうか。新しいネットワーク環境のなかでのコミュニケーションは、いままでのコミュニケーションとはどこが違ってくるのだろうか。それを、つぎに考える。

ネットワーク環境のなかでコミュニケーション行動をとるとき、いままでの情報行動とは異なった、新しいスタイルがネットワーク環境そのものによって規定される。従来の情報行動の基本である、「ある人がある情報を所有している、しかもその情報を必要としている誰かが存在するので、その情報をその誰かに向けて発信する」という「発信ー受信」の考え方がネットワークの環境では後退する。

いままでのコミュニケーションの概念からすると、情報の送り手と受け手がいて、その間で情報の発信と受信が行われることがコミュニケーションである、という了解がある。確かにネットワーク環境でも電子メールでは、情報は発信され受信されている。情報が所有されているから、情報が伝達される。それがここでの基本的な考え方である。情報を所有する人としない人との落差が、コミュニケーションを生成する根拠である。だからその所有される情報の価値が一般(汎用)的かつ希少なものであるほど、その情報の伝達をめぐって経済的な交換とか政治的な権力という社会関係が成立する。これが情報所有を前提とするコミュニケーション形態であり、この形態を基盤にして成立するのが経済的な市場システムや政治的な権力システムである。これが前ネットワーク社会におけるコミュニケーション形態と社会システムとの関係である。

このコミュニケーション形態を規定する基本は、コミュニケーション環境にかんして明確な境界が設定できる、という条件にある。いままでのコミュニケーション論は、その基本のダイアド・モデルとその拡張モデル(マスコミュニケーションはその典型)にみられるように閉じた境界のなかのコミュニケーションを問題にしている。境界が閉じている場合、その内部の主体は相互に認知可能な状態にあるので、コミュニケーションを始動させる動機は、主体が価値ある情報を所有しているかどうかにかかっている。他者にたいして価値ある情報を所有しないかぎり、主体はここではコミュニケーションを始動させることはできない。

しかしネットワーク環境でのコミュニケーションは、いままでとはまったく異なった行動を喚起する。たとえば、インターネットで自分のホームページをつくってみればわかるように、そこでは情報を発信しているリアリティはほとんどない。せいぜい自分のつくった情報をネットワークに公開して、みんなに見てほしい、と願っているだけである。またそれと対照的にページを作成する過程では、サーチエンジンを活用して欲しい情報を探し、ネットワークのなかを徘徊し、自分のほしい情報に当たると、リンクを張ったりコピーをして、そこに新しい自分(ホームページ)を作成する。

ここにあるのは、ネットワーク環境では、誰でもがみんなに助けられているし、またみんなをささやかだけど助けている、というリアリティである。相互に情報探索しあい、相互に情報支援している。ここでは情報の受発信の価値はあきらかに後退し、情報の『探索と支援』の関係性が重要な意味をもつ。ネットワーク環境は、そのコミュニケーション環境が世界中に無限に「開かれた環境」であることで、探索と支援のコミュニケーションを優先させる。そのとき、リンクは情報支援の相互性のシンボルである。リンクのないホームページは、なんのためにネットワークのなかに生きているのか、その存在の意味がわからない。リンクをはらないですむようなホームページならば、ネットワークにわざわざ載せる必要はない。リンクがあることで、相互に支援しあってネットワークを維持している。リンクは、自分(ホームページ)の境界を超えて、自分を拡張させ、同時に自分をネットワーク環境に融合させる手段である。リンクをはる・はられるという関係こそ、「ネットワーク環境は開かれた環境である」ことを証明するものである。

「探索と支援」の新しいコミュニケーション形式は、ネットワークが開かれているという環境条件ばかりでなく、主体の条件をも必要とする。図3に示すように、新しいコミュニケーション形式が支持されるには、開かれた環境とその環境を自明として行動できるネットジェネレーションの存在が不可欠である。ネットジェネレーションのように、自分の拡散と社会環境との融合を求めるからこそ、他者との相互支援は自然なコミュニケーション行動の根拠になりうる。つまり「覗き」は探索行動を積極的に支持し、「露出」は情報支援を自明なことと承認する。この2つの新しい特性が探索と支援のコミュニケーションを正当化する。したがってかつての個人(マスメディア世代)には探索と支援のコミュニケーションを起動させる内的な根拠がない。だから、かれらがネットワーク環境にいても、戸惑いと苛立ちを感じるだけである。それは、あたかも「リンクのないホームページ」を作成して、これが自分だと主張しているようなものである。それが、自立(孤立)する個人なのである。


対照的にネットジェネレーションが閉じた環境でコミュニケーションをすると、従来のルールを破って、節操のない自分をさらけだした電子メールを送りつける、という事態が頻繁に起こる。対面的な環境ならば、真面目な行動がとれても、電子メール環境になると、たとえそこは閉じた環境でも、その背景にある大きな情報環境がネットワークなので、どうしても露出する自分が前面にでてきてしまう。こうして、ネットジェネレーションの電子メールの世界は、今までの常識からは逸脱したコミュニケーション形態をとるのである。

こうして、新しいコミュニケーションの作法が誕生する。ネットワーク環境は、ネットジェネレーションの行動に適合して、情報共有を基本にした「探索と支援」のコミュニケーションの形態をもたらす。開かれた環境と新しい個人の登場は、ネットワーク以前の「情報所有を基本にした情報の送信と受信」の形態の地位を剥奪して、まったく新しいコミュニケーション形態を誕生させる。ここでは、情報を所有していないことがコミュニケーションの起点になる。自分のほしい情報を所有していないから、ネットワーク環境を活用して、情報を探索し、その結果、支援されて、情報を獲得する。この関係が、相互的に実行されるのがネットワーク環境である。

とすれば、この環境が規定する行動規範は、いわゆるボランティアの精神である。新しい個人はネットワーク環境で探索と支援のコミュニケーションの関係において、拡散と融合を求める行動をするとき、かれは否応なしにボランティアとして行動している。覗きと露出が許容されるからこそ、探索と支援を重視するネットワーク環境にたいして、新しい個人はボランティアになれるのである。それは、純粋な心(やさしさ)の問題ではなく、ネットワーク環境とコミュニケーションの形態との制約のなかで、ボランティアにならざるをえない、ということで、強く社会システムの問題である。こうして、ネットワーク環境は、いままで自明とされていたコミュニケーション論の基本フレームに大きな変革を迫るのである。