ネットジェネレーションの期待と自覚
環境情報学部教授  熊坂賢次
 
1. ジェネレーション・ラップ
2. 露出と覗きの快感--拡散し融合する個人--
3. 探索と支援--新しいコミュニケーション作法--
4. 携帯家族とネットコミュニティ
5. ネットジェネレーションのミッション
4.携帯家族とネットコミュニティ--新しい生活領域のヴィジョン--

ネットワーク環境は、新しい個人とコミュニケーションのありかたをもたらした。ならば、それは、さらにどのような生活のありかたをもたらすのだろうか。すでに仕事の環境である組織にかんしては、階層的組織はネットワーク組織への交代を要請されている。ならば、核家族はどうなのだろうか。最後に、この点を考えてみる。

前述した枠組を利用すると、「自分」を「自分の家族」に特定化しさらに「私的領域」と「公的領域」の対照性を「家族内」「家族外」に特定化すると、図4になる。まずネットワーク以前の生活領域は、核家族と階層的組織のセットから構成されている。核家族は専業主婦が私有する領域である。それは家事や育児や介護に専念する生活領域で、そこでは専業主婦がすべてを家庭の内部で管理し処理しなければならない。これらを外部にみせること(露出)は、専業主婦にとっては許容されない。完全に内部で処理することが、専業主婦としての役割期待である。専業主婦にとって、露出は恥である。ただし、露出にかんして、2つの領域が例外的に許容されている。それが、子供の教 育(小中学校の義務教育)と、病人(とくに高齢者)に許容される医療の領域である。ここでの例外の根拠は、子供には成長(家族の外に でる)が期待され、医療には専門家への依存が不可欠だからである。基本的には、家庭内のことは専業主婦によって家庭内で処理されなければならないが、上記の例外の場合のみ、核家族からの露出が社会的に許容される。その例外を支援するのが地域社会(福祉)と地域行政(福祉行政)であるが、それらはあくまで核家族を補助する社会領域にすぎない。

つぎに家庭外にかんしては、そこは家庭を忘れた組織人(家庭に戻れば主人)が仕事をする階層的組織の世界で、核家族(私有)とは対極の位置(役割)にある。この組織は、家庭の内部に仕事を持ち込むこと(隠蔽)を許容しない。仕事は、あくまでも組織の内部で管理され処理されなければならない。ここには、露出の場合のような例外的な領域はない。仕事を家庭に持ち込むこと(隠蔽)は男の恥である。


このように、核家族と階層的組織は、互いに干渉することなく内部で閉じており、内と外の機能分化は明確である。しかもその機能分化は空間的には「都心」と「郊外」に対応し、ジェンダー(性役割)としては「女らしさ」と「男らしさ」に対応している。ここでは、強固な境界が、核家族と階層的な組織それぞれに設定され、安易な融合を拒否している。これがネットワーク以前の生活領域における機能分化の論理である。

これにたいして、図5に示すように、ネットジェネレーションは、まったく新しい生活領域のありかたを求める。それが、ネットワーク組織と携帯家族のセットである。ここでは、組織と家族は相互の領域を拡散させ、かつ融合させている。そこでは、それぞれの領域の境界自体が柔軟に設定され、さまざまな状況に対応してダイナミックに変容する可能性が保たれている。その柔軟性を確保するのが、役割分化ではなく、役割融合の考え方である。つまり「男は外で働き、女は内を守る」という役割分化がここでは否定され、仕事も家事も育児も、性差に関係なく、また家族役割(主人か主婦か)に関係なく、なんでも生活のことはそれなりに自分ひとりでこなす、という役割融合が期待されている。役割融合がネットジェネレーションの自律を求める。

その結果、いままでとは違って、露出と隠蔽の領域が社会的に許容され、積極的に生活領域に取り入られるようになる。露出にかんしては、子供の育児や高齢者の介護の問題が、家庭の私的な領域から公的な領域にはきだされ、家族を超えたところで支援されるようになる。携帯家族では、フルタイムで働く女性が主婦役割を担うから、専業主婦以上に家庭の内部で、育児や介護を処理することは困難である。だからこそ、新しい主婦(融合主婦)は、育児も介護も家庭の枠をこえたコミュニティのなかで、問題の解決をはからなければならない。このとき、かれらは個人の好みに関係なくボランティアになる。かれらは相互に、自分の家庭のことを公の空間(コミュニティ)にはきだすことで、お互いの家庭のことを支援する関係に入らざるをえない。露出が社会的に許容された一つの生活領域になることで、家庭を超えたコミュニティが制度として必要とされ、さらにはそこで相互支援をするボランティアとしての役割が期待される。それが、ネットジェネレーションが家庭をもつことを支援する根拠である。かれらには、閉じた家族は似合わない。家族は外部との融合と拡散を求める。それが携帯家族である。


他方、隠蔽領域にかんしては、仕事が家庭に進入してくる。SOHOとかモバイル・オフィスという考えがこれに相当する。ネットワーク以前では、恥でしかなかった仕事が家庭に戻って、正当な地位を獲得する。家庭で仕事をする大人は、かつての無能な主人=夫ではなく、家庭を支える頼もしい大人である。ここには組織人の顔はなく、家庭での役割と組織での役割が融合した新しい顔(融合主人?)になっている。したがって流行のSOHOとかモバイル・オフィスは、今までの組織を単純に家庭に内部化させるのではなく、家庭との融合の視点から組織と仕事のあり方を再構成した環境を提示するものでなければならない。それが携帯家族には不可欠なことである。

しかもこのような携帯家族にみられる境界の拡散と融合は、基本的にはネットワーク環境の支援がなければ、まったく機能しない。つまりネットワーク組織ばかりでなく、携帯家族も、またボランティアもSOHOも、すべてネットワーク環境を前提としないかぎり有効に機能しない。それは、機能の拡散と融合をもたらす、もっとも重要な社会基盤がネットワーク環境だからである。組織も、家族も、その機能を拡散・融合させるには、ネットワーク環境それ自体がもつ拡散と融合の機能に依存しなければならない。その上で、組織も家族も、新しい方向性を実現できるのである。

そして最後に、ネットワーク環境に支えられたコミュニティ(ネットコミュニティ)が、ネットワーク組織と携帯家族を媒介する第3の生活領域として立ち上がってくる。従来、教育と医療に限定され、かつ弱者擁護の視点から地域行政が補助的・残余的にしか機能していなかった領域(露出)が、ネットワーク環境では、それ自体で自律化しかつ領域拡大(隠蔽をも含む)をして、新しい生活領域として社会的に正当化される。このとき、携帯家族とネットワーク組織のもとで生活するネットジェネレーションは、必然的にネットコミュニティのなかではネットボランティア=ネットワーカーとして活動する。SOHO環境で仕事(ネットワーカー)をしながら、同時にコミュニティにたいしてはネットボランティアとして活動する、その両方の役割が、家族と組織の両方の視点から期待されるとき、ネットコミュニティは第3の生活領域として社会的正当性を獲得する。それは、ネットジェネレーションに期待される生活のヴィジョンであり、これからの大きな政策課題である。