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2008年08月27日

縁取りがないということ

ドイツ文学者であり美術学者でもあった鼓常良教授は、日本美のエッセンスについてラウメンロージヒカイト(Raumenlösigkeit)「縁取りがないこと」であると、川喜田二郎に語ったという。

川喜田二郎, ひろばの創造 - 移動大学の実験, p.157, 中公新書 (1977).
「どういうことかというと、たとえば西洋の油絵だったら額縁があって、その中に描かれた世界ははっきり完結している。ところが日本の美ではそうではない。
 たとえば部屋の床の間に掛け軸がかかっている。その絵は床の間におかれたときはじめて生きる。では床の間はそれだけで完結しているかというと、部屋の中の床の間としてはじめて意味をもつ。さらに、その部屋すらも完結していないのである。障子があれば濡れ縁があって、部屋は外の自然と連続している。室内の世界が無限に外の世界に拡がっている一方、外の世界もまた室内に入り込んでいる。部屋の世界の延長として外の世界がある。どこまでいっても完結した縁取りがない。限界がない。これがラウメンロージヒカイトである。」

マルチスケールメディアが持つべき性質はこの「ラウメンロージヒカイト:縁取りがないこと」であるように思う。英語であればseamlessやsmoothとなるかもしれないが、少し違いがあるようにも思う。そのひっかかりを大事にしたい。鼓常良さんの著書は美術については戦前のものも多く入手するのが難しいものもあるが、実際に手にして読んでみたい。

2008年08月14日

《CAVEの共同[形]成》 ConFIGURING the CAVE

ずいぶんとむかしになってしまったんだ、つながりで。
ジェフリー・ショーの《CAVEの共同[形]成》。
http://www.ntticc.or.jp/About/Collection/Icc/CAVE/statement_j.html

没入型ディスプレイであるCAVEが一般に公開されていたのは、当時ICCだけであった。3Dメガネをかけて入る四畳半ほどの部屋。そこに現れる3DCGの空間は、まるで無限に広がっているようでもあり、またCGが自分の身体を突き抜けていく様子は、とても驚きの体験であった。
CGのインタフェースとして空間の真ん中に置かれていたのは、身長で言うと150cmぐらいの木製の人形:パペットだった。素材はたしかチェリーだったかと思う。手触りはさらっとしていてかつ、ぎっしりと硬い。パペットの身体の向きや手足や首の関節を曲げると、CGがさまざまに移り変わってゆく。


観客はCAVEの中に4、5人入り、ICCのお姉さんがその人形をぐりぐりと動かしている傍で映像を体験する。最初に見た時は、単にCAVEってすげぇと思ったけれども、なぜ人形が置いてあるのかインタフェースが人形であるのか理解できなかった。
最初はむしろ「ふーん」という類いの感想。

ICCのオープニング展「海市」やICCビエンナーレの作品「Buy One Get One」のプログラミングを担当していたこともあり、ICCの石川さんからCAVEを使って何かやってみませんか?と新たな機会をいただいた。

電通大からリモートログインしたりICCの机をお借りしながら、CAVEライブラリの入ったSGIでプログラミングをしていた。
パペットの関節にはセンサーが入っていて、関節部分の接触が悪いのかケーブルが切れているのか、けっこう調子が悪くなっていた。自分のプログラムを動かしてみる時やパペットを修理に出す時など、石川さんと一緒にパペットを抱きかかえながら何度も支柱から外したものだった。

#このパペットが、とにかく重い。

なんでこんなに重いのか。なんでこの肌触りの木で作ったんだろう。そう思っていた。プラスチックやFRPで軽く作れば関節に負担はかからないだろうし、パペットはスケッチの練習で使うポージングの人形と同じデザインだったからもっと小さく作っても良いだろうに…。

プログラミングはまずはシミュレーターで動かすのだが、マウスとキーボードで操作をするし19インチモニタの中で動作しているので、身体を動かすこともないし、中を動き回ることも出来ない。まずはGLUTライクなCAVEライブラリを習得しながら、どんなことをやろうかと試行錯誤をしていた。

そしてある程度シミュレータでプログラムが動くようになり、CAVEでのテストをした。それはとても違和感のある経験だった。シミュレータで動かすのと、空間の中に入ってのとでは、まったくの別の経験だったのだ。それは自分にとって、以降とても重要な経験となる。

自分のプログラムではアイコンとして機能する2次元平面の絵を空間の中に浮かせていたのだが、その絵の大きさや高さが身体とどういう関係にあるのか?によって、同じ絵のはずなのに別の意味を帯びたような気がしたのだった。
何センチ相当の大きさで胸の高さぐらいに並んでいると頭の中では考えたつもりでシミュレータ上で作っていたのだが、実際に身体性を伴う空間の中では、胸の高さ・腰の高さ・膝の高さ・足の高さに同じアイコンを並べてみると、それぞれ意味が違うように感じたのだった。もちろん縮尺のかかった模型と実際の建築の違いに相当するのかもしれないが、それだけでは無いような気がした。

その時にはっと気づいたのだった。
《CAVEの共同[形]成》は『空間と身体と意味の関係』を問うているのだと。

パペットは人と近しい大きさと重さで肌触りも温かくなければならなかったのだと。ただ3DCGをぐりぐりと動かすためにパペットを使っているのではないということを。CGもリアルな映像ではなく抽象的な概念が多かったが、概念や意味を操作するインタフェースは身体であるのだ、ということを。

空間の移動と身体の動作と言葉の意味の関係。

そうした問題意識は、後の自分の作品である「Narrative Hand」「時空間ポエマー」「記憶の告白 - reflexivereading」へとつながっているように思う。


その後にドイツに行く機会があったので、学芸員の後々田さんに紹介してもらい、ZKMのジェフリー・ショーを訪ねた。ZKMのカフェで2人。正直なところ、ジェフリー・ショーは最初はかなりめんどくさそうだった。まぁどんな奴かも知らない日本人と初めて話すのだし、どこからどう見てもただの学生にしか見えなかっただろうし。
しかし、自分がICCのCAVEでプログラミングをしたこと、あなたのパペットを担いで外すという経験を通してなぜあの大きさであの重さにしたのかが分かりました、とたどたどしい英語で伝えた時、急にジェフリー・ショーの反応が変わった。そして、レジブル・シティの自転車で身体を使って移動することの意味とパペットの関連は、筋肉へのフィードバックなんだと思っていると話すと、ジェフリー・ショーも饒舌に語りはじめ、ZKMの奥の奥まで案内してくれたのだった。

楽しくオモシロいインタラクティブ・アートではなく、何かの問いをともなうメディア・アートを作りたい。いまでもそう思っているのは、パペットの意味に気づいたあの時の、静かでいて激しい興奮を、忘れることはできないからかもしれない。


CAVEで作ったその検索システム。Augmented Virtualityのひとつ?か。

2008年08月13日

http://graffitiresearch.com/とSRL

都市や公共空間のハッキングとも言えるようなプロジェクトを推し進めているN.Y.のアーティストグループ。記録映像やダウンロード可能なソフトウェアが公開されている。

CETでも街中でプロジェクションしたり音鳴らしたりするイベントが行われていたけど、警察や町内会との調整がけっこう必要。graffitiresearchのL.A.S.E.R. Tagのように遠くの場所からやると逃げやすい(?)のだろうか。

ふとSRLを思い出した。http://www.srl.org/
代々木公園でのICCのイベントは1999年。ずいぶんとむかしになってしまったんだ。

2008年08月05日

コンヴィヴィアリティのための道具

イヴァン イリイチ, コンヴィヴィアリティのための道具, 日本エディタースクール出版部 (1989/03)

イリイチは、「用いる各人に、おのれの想像力の結果として環境を豊かなものにする最大の機会を与える」ものをコンヴィヴィアリティのための道具と呼んだ。

「コンヴィヴィアル」には、「楽しいつどいの」という意味もあるが、「自立共生的な」と訳されることもあるこの考えは、インターネットにも流れていると言われている。自分がつくる道具ももちろん、そうありたいと考えている。

以下、抜粋。

はじめに xii
私はここで、人間と彼の道具との関係を評価するための枠組みとして役立ちうるような、人間生活の多元的均衡という概念を提出しよう。こういった均衡のそれぞれの次元において、自然な規模というものを確定することが可能だ。ある企図がこの規模の一点を超えて成長すると、まず、もともとそのためにその企図がなされた目的を裏切り、さらには急速には社会全体の脅威と化す。そういった規模が確定されねばならないし、さらにその範囲内でのみ人間の生活が存続しうるような人間の営みについての副次的変数が探求されねばならない。

はじめに xiv
しかし実際には、新しい可能性を思い浮かべるには、科学上の発見は少なくともふたつの相反する利用のしかたがあることを認識するだけでいいのだ。ひとつのやりかたは、機能の専門化と価値の制度化と権力の集中をもたらし、人々を官僚制と機械の付属物に変えてしまう。もうひとつのやりかたは、それぞれの人間の能力と管理と自発性の範囲を拡大する。そしてその範囲は、他の個人の同じ範囲での機能と自由の要求によってのみ制限されるのだ。

はじめに xv
すぐれて現代的でしかも産業に支配されていない未来社会についての理論を定式化するには、自然な規模と限界を認識することが必要だ。(中略)いったんこういう限界が認識されると、人々と道具と新しい共同性の間の三者関係をはっきりさせることが可能になる。現代の科学技術が管理する人々にではなく、政治的に相互に結びついた個人に仕えるような社会、それを私は"自立共生的(コンヴィヴィアル)"と呼びたい。

p. 19
産業主義的な生産性の正反対を明示するのに、私は自立共生(コンヴィヴィアリティ)という用語を選ぶ。私はその言葉に、各人のあいだの自立的で創造的な交わりと、各人の環境との同様の交わりを意味させ、またこの言葉に、他人と人工的環境によって強いられた需要への各人の条件反射づけられた反応とは対照的な意味をもたせようと思う。私は自立共生とは、人間的な相互依存のうちに実現された個的自由であり、またそのようなものとして固有の倫理的価値をなすものであると考える。私の信じるところでは、いかなる社会においても、自立共生(コンヴィヴィアリティ)が一定の水準以下に落ち込むにつれて、産業主義的生産性はどんなに増大したとしても、自身が社会成員間に生み出す欲求を有効にみたすことができなくなる。

p.39
自立共生的道具とは、それを用いる各人に、おのれの想像力の結果として環境をゆたかなものにする最大の機会を与える道具のことである。産業主義的な道具はそれを用いる人々に対してこういう可能性を拒み、道具の考案者たちに、彼ら以外の人々の目的や期待を決定することを許す。今日の大部分の道具は自立共生的な流儀で用いることはできない。

p.44
自立共生的な社会にとって基本的なことは、操作的な制度と中毒性のある商品およびサービスが、全く存在しないということではなくて、特定の需要(それをみたすために道具は特殊化するのだが)をつくりだすような道具と、自己実現を助ける補足的・援助的な道具とのあいだのバランスがとれていることなのである。最初にあげたような道具は、一般化された人間のために抽象的なプランにしたがって生産をおこない、あとであげたような道具は、それぞれ独自なやりかたで自分自身の目標を追求する人々の能力を高める。

2008年08月04日

模型づくり:デバッギングとモデリング

模型はツールとして、もしくはメディア(表現体)として、
・シミュレーション
・コミュニケーション
・プレゼンテーション
と幾つかの目的がある。
何のために模型をつくるか?によってスケールや材料やつくり方が異なってくる。

建築模型においては、模型の前後に付く言葉として
・配置模型・概観模型(外部を見せる)/間取り模型・インテリア模型(内部を見せる)/軸組模型(構造を見せる) ref. 宮元健次 初めての建築模型 学芸出版社
・スタディ模型/コンセプト模型/完成模型 ref. 宮本 佳明 ケンチク模型。宮本流 彰国社
などがある。

・シミュレーション :Plan Do Checkのサイクルを回すため
・コミュニケーション:自分自身と or 他者との理解を進めるため

模型は単なるミニチュアではなく、何かを思考するために何かを捨象した『モデル』である。
そう考えると、プロトタイピングとしての模型は
・シミュレーション :デバッグ
・コミュニケーション:モデリング
との類似性が高いように思う。

プロトタイピングから最終形につながるプロセスとしては、デジタルなモノは連続的だが、アナログなモノは非連続な箇所があると言えるだろうか。
プロダクトやソフトウェアにおけるプロトタイピングやモデリングの前後に付く言葉は、今後に調査したい。

Bill BuxtonのCHI2006 Workshopon Sketchingのポジションペーパー 「What Sketches (and Prototypes) Are and Are Not.」も参考になりそう。