井庭崇のConcept Walk

新しい視点・新しい方法をつくる思索の旅

生き生きとした学びの実現に向けて(アレグザンダーの文献から考える)

クリストファー・アレグザンダーが近代の建築の生産システムについて語っている批判を読むにつけ、それはそのまま近代の教育システムにも当てはまると感じる。つまり、これは一分野の問題なのではなく、近代の問題なのだろう。

ここに、『パタンランゲージによる住宅の建設』(C.アレグザンダー他著, 中埜博 監訳, 鹿島出版会, 1991, 原著1985)を読みながら考えたことを、(荒削りだが)覚え書きとして記しておくことにしよう。

建築と教育の問題の同型性を考えるために重要となる箇所について、『パタンランゲージによる住宅の建設』から引用しながら話を進めたい。

今日世界中にある住宅生産のシステムを考察してみると、そのほとんどに、人間社会に必要な二つの基本的な認識が欠落していることに気づきます。
[ひとつは、すべての家族、すべての人間は唯一無二であるという認識であり、人間の尊厳を表し守っていくにはこの独自性が表現されなくてはならないということです。もうひとつは、すべての家族、すべての人々は社会の一部分であり、他の人々と協力するという結びつき、つまり社会の中での他の人との信頼関係を保てる場が必要だという認識です。]
この二つの相補的な認識は、今日の住宅からはすっかり失われています。住宅は機械のように均質で判で押したようになり、様々な家族の個性を全く表現できていません。それは個性を抑圧し、家族にとっての素晴らしいもの、特別なものをすべて抑え込もうとしています。さらに、住宅は身近な地域コミュニティの基盤を人々に与えることにも失敗しています。(p.29)

これは、住宅の生産について語っている文章だが、この文章の「住宅」を「学び」に、「住宅生産」を「教育」と置き換え、「家族」と「人々」をともに「人々」=「学習者」と捉え、読み直してみてほしい。
まったく分野の違う話ではあるが、問題の構造が似ていると言えないだろうか。

この部分だけでは、わかりにくいので、もう数カ所、取り上げよう。

現代社会の住宅生産システムはあまりにも中央集権化されています。(p.35)

もう少し具体的に言うと、現在の生産システムではほとんどの決定が全く「人間性を無視して」(at arm's length)なされていて、決定を下すのは結果とは無関係な人々だということです。建築家は全く面識のない人々に関する決定を下します。(p.37)

ここでも「住宅生産」を「教育」だと置き換えてみてほしい。
ちなみに、ここでいわれている「建築家」は、建設現場には来ない、設計図を書く人のことを指している。教育の場合には、現場の教師ではなく、教育方針を決める立場の人を指していると考えてもらうとよい。

これに加え、それなりの質のものを大量生産するために、標準化されたユニットを組み合わせるという方式が一般的であると指摘する。

今日の住宅生産の形態は、ほとんどが高度に繰り返し可能な「標準化された」住宅ユニットを用いるという考え方に依拠します。…これらすべての標準化は生産の「必要性」が生み出したことになっています。つまり、たくさんの量を低価格で生産するには、厳格な標準化が必要だと言うわけです。しかし、たとえ標準化が十分に進んだとしても、このプロセスは、決して多くはない数の住宅を非常に高い価格で、以前と同じように生産しているにすぎません。(p.117)

このような理由から、そこに住む人たちに本当に合ったものなどつくれるはずがない、と考えたのだ。以上の問題意識から、アレグザンダーは住宅の新しい生産の仕組みを考え、提案したのである。

そこで私たちは、このような遠くからのコントロールに替えて、家族自身がコントロールするプロセスを提案します。標準化された住宅ユニットという考え方ではなく、そこに住む家族が住宅(や集合住宅)をデザインするという考え方です。個々の住宅は家族独自の必要や性格に十分に対応するようにデザインされます。そうすれば、情感の面からみても、住宅は本当の生活の基盤、心のかよう場所、さらには家族が社会の中で独自の存在として根を下ろし、成長していく場所となるのです。(p.118)

新しく住宅が建てられる時、その配置計画や基本的な構成は、開発業者や建設業者あるいは政府から出されるのではなく、そこに住む家族自らの手で生み出されるべきです。そうしてこそ、一つ一つの住宅がその家族独自の希望や夢を表すものになるのです。
そのためには、家族がこのことを効果的に実現できるような、何らかのシステム化されたルールやパタンランゲージ、あるいは同様の使いやすい手段が必要です。(p.113)

こうして、自分たちで自分たちの住宅の設計に関わることができるようにするためのパタン・ランゲージが開発されたのであった。

僕らが作成した、ラーニング・パターン(創造的な学びのパターン・ランゲージ)は、学習者が自分たちで自分たちの学びをデザインすることができるようにするための手段である。

これは、政府や委員会で決められた学習ユニットをこなすというやり方ではなく、自分らしいやり方で学びを実現いていくということがイメージされている。まさに、上で取り上げたアレグザンダーの考えと非常に近いということがわかる。

以上の考察は、あくまでもアナロジーによる考察にすぎないが、むしろアナロジーであることを力にして、従来の教育改革のアプローチとはまったく異なるアプローチを見いだしていきたいと思っている。
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