「生き生きとした学び」を実現する教師の新しい役割=アーキテクトビルダー
前回「生き生きとした学びの実現に向けて(アレグザンダーの文献から考える)」で書いたような「生き生きとした学び」を実現する教育においては、教師はどのような役割を担うのであろうか。その発想を得るため、再びアレグザンダーの『パタンランゲージによる住宅の建設』(C.アレグザンダー他著, 中埜博 監訳, 鹿島出版会, 1991, 原著1985)を紐解いて、考えていきたい。
結論からいうと、「生き生きとした学び」を実現するためには、教師は、アレグザンダーのいう「アーキテクトビルダー」(Architect-Builder)になる必要がある。生き生きとした学びを実現するアーキテクトビルダーだ。
建築家(architect)と請負業者(constructor)の両方の面をもつとは、どういうことだろうか。
このような分業ではなく、アーキテクトビルダーが必要なのだ。
今回も、文章の「住宅」を「学び」に、「住宅生産」を「教育」と置き換え、「家族」と「人々」をともに「人々」=「学習者」と捉え、読み直してみてほしい。そしてここでは、「建築家」を「カリキュラムや学習内容を規定する人」、「請負業者」を「現場の教師」と置き換えてみよう。こうすることで、建築の分野の話として語られていることを、教育の分野を考えるためのアナロジーとして理解することができるだろう。
さて、ここで確認していおきたいことがある。それは、学習者が自ら自分の学びをデザインし、生き生きとした学びを実現するというとき、教師がまったく不要になるというわけではない、ということである。
自らの学びをデザインするというのは、そのコントロールの権利が学習者にあるということであって、独りっきりでデザインしなければならないという意味ではないからである。
このように自らの学びをデザインする学習者を支援する教師は、新しい種類の役割を担うことになる。学びのアーキテクトビルダーとして、学習者と密に話し合いながら、学びの場をつくり続けていく。そういうことが求められているのだ。
もちろん、このような統合は簡単なことではない。これまで担当してきたよりも、また、想定される範囲よりも広い範囲の多様性に応じる必要があり、しかも、個々人に合わせたかたちで成就させていくことが求められているのだ。難しいが、非常に重要な役割である。
従って、教員養成も、この能力を伸ばすかたちで行われなければならない。教育の仕組みだけでなく、教員要請の仕組みも変革が求められる。
アレグザンダーのこの本には、別の箇所に、アーキテクトビルダーの役割について触れているところがある。
これらを読むと、学びのアーキテクトビルダーが何をするのか、少しはイメージがつかみやすいかもしれない。
最後に、アーキテクトビルダーの活動の規模感がわかる、具体的な数字が出ていたので、取り上げたい。
僕の大学の研究室の指導学生の数とこれまでの経験を踏まえると、この数字は、学びのアーキテクトビルダーの話としても、結構いいラインではないかと思う。
結論からいうと、「生き生きとした学び」を実現するためには、教師は、アレグザンダーのいう「アーキテクトビルダー」(Architect-Builder)になる必要がある。生き生きとした学びを実現するアーキテクトビルダーだ。
私たちの思い描く生産プロセスには、新しい種類の職能人が不可欠です。それは、現代の建築家の職能と、請負業者の職能の両面を兼ね備えた人間です。(p.51)
建築家(architect)と請負業者(constructor)の両方の面をもつとは、どういうことだろうか。
今日の社会では、全く異なった二種類の人によって建物がつくられています。彼らは建設プロセスの中で全く別の役割を担当しています。一方は建物を設計する人、もう一方は施工する人、つまり建築家と請負業者です。
私たちはこの分業、職能分離は全く間違ったものであり、この分業体制の中では健全な環境など創造できないと考えています。(p.52)
このような分業ではなく、アーキテクトビルダーが必要なのだ。
アーキテクトビルダーという統合された存在が、健全な環境をつくるという問題解決の場面で必ず必要になる (p.52)
今回も、文章の「住宅」を「学び」に、「住宅生産」を「教育」と置き換え、「家族」と「人々」をともに「人々」=「学習者」と捉え、読み直してみてほしい。そしてここでは、「建築家」を「カリキュラムや学習内容を規定する人」、「請負業者」を「現場の教師」と置き換えてみよう。こうすることで、建築の分野の話として語られていることを、教育の分野を考えるためのアナロジーとして理解することができるだろう。
さて、ここで確認していおきたいことがある。それは、学習者が自ら自分の学びをデザインし、生き生きとした学びを実現するというとき、教師がまったく不要になるというわけではない、ということである。
自らの学びをデザインするというのは、そのコントロールの権利が学習者にあるということであって、独りっきりでデザインしなければならないという意味ではないからである。
住宅生産プロセスの基本、おそらく最も大切なものは、家族が自分たちの手でレイアウトをしていくという原則です。これは、必ずしも家族のメンバーが施工のプロセスに労働者として携わるということではなく、どの家族も自分たちの環境を直接にコントロールする権利を持っているということです。(p.113)
このように自らの学びをデザインする学習者を支援する教師は、新しい種類の役割を担うことになる。学びのアーキテクトビルダーとして、学習者と密に話し合いながら、学びの場をつくり続けていく。そういうことが求められているのだ。
多様性を可能にする生産が基本になっていなければなりません。しかも、その多様性を許す生産は大きなスケールで可能でなければなりません。ですから、少なくともプロセスの上では何らかの統一が必要です。私たちの結論としては、プロセスに家族の多様性や独自性を入れ込みながら、実際にこの素晴らしい多様性を大規模な生産に不可欠である施工や工法の一貫性と何とか[なじませる]には、大規模に住宅を生産する力と個々の住宅を個性的で人間的に生み出す力とを結び合わせることのできる全く新しい種類の人間がいなければ不可能だということです。
それは、全く新しい人間 新しい管理組織体であり、このような建設プロセスを支える新しい専門家です。[これこそ、アーキテクトビルダーという概念の具体的な姿です。](p.58-59)
もちろん、このような統合は簡単なことではない。これまで担当してきたよりも、また、想定される範囲よりも広い範囲の多様性に応じる必要があり、しかも、個々人に合わせたかたちで成就させていくことが求められているのだ。難しいが、非常に重要な役割である。
アーキテクトビルダーとは、単に小さなスケールで小じんまりと美しいものを手作りするような職人ではありません。そういう面とともに、何よりも彼は大規模なスケールでこのことを実現させるプロセスの中心的存在なのです。彼は新しい役割を持った人です。彼は非常に多くの住宅を生産する方法を扱うことができると同時に、小さな物の中に人間性を与えていく敏感さと繊細さを失わずに持っている人です。(p.59-60)
従って、教員養成も、この能力を伸ばすかたちで行われなければならない。教育の仕組みだけでなく、教員要請の仕組みも変革が求められる。
アレグザンダーのこの本には、別の箇所に、アーキテクトビルダーの役割について触れているところがある。
アーキテクトビルダーの演じる様々な役割(パタンランゲージを教えること、人々が自分の住宅をデザインできるようにすること、さらに自分の住宅を施工できるようにすること、そして近隣全体としての漸進的な改善を助けること) (p.84)
通常の場合には、その地域のアーキテクトビルダーが、その地域性に応じて、パタンを修正し洗練することになるはずです。 (p.98)
これらを読むと、学びのアーキテクトビルダーが何をするのか、少しはイメージがつかみやすいかもしれない。
最後に、アーキテクトビルダーの活動の規模感がわかる、具体的な数字が出ていたので、取り上げたい。
どのアーキテクトビルダーも一度に二〇軒以上の住宅を扱うことはありません。けれども、彼は設計と施工の両方に全面的に責任を持ち、各住宅に固有のディテールまで立ち入って個々の家族と密接に関わりながら働きます。このように、この施工モデルでは設計と施工の両方が一つになると同時に、地域に分散、密着していきます。(p.60)
僕の大学の研究室の指導学生の数とこれまでの経験を踏まえると、この数字は、学びのアーキテクトビルダーの話としても、結構いいラインではないかと思う。
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