井庭崇のConcept Walk

新しい視点・新しい方法をつくる思索の旅

Creative Reading:『形の発見』(内田義彦)

内田義彦 著の『形の発見』を読んだ。もともとはずいぶん昔に出版された本だが、改訂新版が出たということで1年ほど前に書店に並んでいるのを見つけた。

この本のなかに収録されている 丸山眞男 × 木下順二 × 内田義彦の鼎談は、僕にとって、思いがけず刺激的であった。

伝統芸能について語り合っているなかで、 内田が次のように語る。

芸を掘り下げていく。すると、そのなかでこそ―――内容分析ではなく、形の掘り下げという操作のつみ重ねのなかで、まさに形の発見という形で表現すべき中身に到達するという。この場合、何を表現するか、中身の問題は外されて―――あるいは議論の外に置かれているわけね。形から自然に内容がという形になっている、言葉通りとると。……形式をひたすら追求することで内容が自然に出る(そのように形を追求する)といういい方、あるいはやり方ね。……形をやってるうちに自然に、という言い方をすることに含まれている意味を思い切りふくらませて理解する必要があるんじゃないか。ヨーロッパでも達人の場合は、やっていくうちに内容が自然に出てくるなんていう。そこのところが強調されている。


そして、そこから社会科学における文体の重要性について、話が展開している。

【丸山】… 文語のよさはやはりリズムだよね。ぼくが文体がなくなっちゃったと感じるのは、あのリズム感だね。 …
【内田】… 社会科学でも同じと思うんだな。いま、ことばのリズムの問題が出てきたけれども、思考それ自体のリズムの問題もあるよね。
【丸山】それと不可分なんだな。
【内田】不可分なんだ。たとえば正確ということばとはちょっと違ったもので、的確ということばがあると思うんですよ。的確かどうかは、リズムの問題を抜いてはいえない。文体のリズムの問題でもあるし、現実にある事物を把え表現しようとする思考者のリズムの問題として。 …
・・・
【内田】ぼくは、社会科学でもそういうリズムのある表現様式をとらなければ人に伝わらないと思う。人に伝わらないだけでなくて、自分を納得させるというか、ほんとうに自分をことばで納得させることは不可能だからね。
【丸山】「ほんとうは」そうなんだ。しかしそれは例外だな。そういうふうに考えているほうが(笑)。社会科学をやっている連中で、だいたい文体のことなんか考えている奴はいないんじゃないか(笑)。
【内田】しかし文体のことを考えないと、ほんとうにはものはつかまえられない。ものそれ自体がつかまらないよ、つかまえたもの―――内容ーーーをどう表現するかなどと考える以前に。形を与え得たかぎりで理解しうる。
(p.82-85)


そしてしばらくして、社会科学の本を書くときのプロセスの話として、この話がふたたび登場する。


【内田】…たとえば、ぼくは章立てを最初にやって、このための参考資料は何で……というやり方が苦手なんですよ。ばあっと書いてしまってから、全然新しく書き直すという作業をくりかえすというやり方でね。…
・・・
【内田】…いちばん言いたいことは何か、ということになると、さあ、それが循環というか、書きなおしの作業のなかで、ああこれであったなという形できまる。内容があらかじめきまっていて表現を、というわけではない。…そういう形ーーー一定の形式をもった表現を手中にする努力のなかでしかつかめない内容というのがぼくらの方でもあるのじゃあないか。われわれの仕事でも、思想に関するかぎり、あらかじめ内容があって、それを表現を抜きにして語っても、無意味とまでは言わないけれども、いちばん奥底のところはつかめない、ということがある気がするんだけれどね。
・・・
【内田】 …形から内容をつかむというやり方、様式のなかにひそむ方法の問題、様式をやっているうちに、その様式を生み出してきたものがわかるというか、そういう意味の内実の問題なんだな。つまり、内容とは、言いたいこと―――表現したいこと―――であると同時に、表現と別個にその以前に、内容のすべてがあらかじめ確定しうるとは、ぼくには考えられない。内容と形の双方をからめて、双方から進めて進めてゆかないとね。
・・・
【内田】少なくともぼくら社会科学には内容の側を一方的に過重視する面があって、そこに伝統芸術のやり方から聴くべきを聴く問題が残っているように思うんだ。…
(p.88-89)


これは、僕が本を書いたり、パターン・ランゲージをつくるときに感じていることであり、また、作家(小説家)たちが語っていることと非常に近い。村上春樹も、自分の文体に通して書いてみることで初めて理解ができる、だから書くのだ、というようなことを語っている。このようなことを作家たちが語るのはよく目にするが、社会科学の記述も同様であると語っているの初めて読んだかもしれない。そう、僕もそう思うのだ(作成中のライティング・パターンのなかに、そういうパターンがある)。

そして、次のような「伝統の継承」という話題も出ていた。

【内田】伝統の継承というのは…意図してではなくて結果として行われるもんだ。…先生を継承する場合でもそう。たとえばシューベルトとベートーヴェンの伝承関係でも、やっぱりそうだよね。…」
・・・
【内田】…ヴェートーヴェンが新しく創りつつあって一般世人なり音楽愛好者が認めていない音楽を継承する自覚に立ったとき、創造者シューベルトが意識するのは、ベートヴェンはこういう仕事をしたので、自分はそのうちでこういうところをとり、こういうところを否定して自分の仕事をするというふうではない。ベートーヴェンへの全面的傾倒であり、同時に、自分が音楽と思うものへの全面的没入―――その意味でベートーヴェン音楽の全面的否定―――なんだな、創造者シューベルトにあるのは。結果が、後から整理すると、ベートーヴェンという伝統の―――ある面がとられある面がすてられた―――追究になっている。……一代限りでの伝承のところをとってみても、伝承は先生の場合はこうで、自分の場合にはこうだ、と明確に区別してそのよきものを取るという意図的行為ではない。つまり全面的傾倒だな、作るのは他でもない自分だという自覚に立っての。全面的傾倒であるがゆえに、かえって個性的になる。ここまでは先生で、ここから変えなきゃいかんといったら、ほんとうに個性的なものはできないんじゃなかろうか。それが創造者の立場なんだ、一般に。
(p.60-61)


このことはすごくわかる。僕はニクラス・ルーマンとクリストファー・アレグザンダーをそれぞれかなり(僕なりに)忠実に継承していると考えているが(本気で)、その上でそれを突き詰めることで、二人の書いたものを突き抜けてしまった。ルーマンの方は社会のシステム理論を超えて創造のシステム理論を構築したという意味において、アレグザンダーの方は建築分野を超えて他分野への適用とシステム理論との接合という意味において。どちらの場合も、ルーマンやアレグザンダーを否定して乗り越えたのではなく、ルーマンやアレグザンダーを徹底したところ、そうなってしまったのだ。だから、奇妙な言い方になるが、僕は、ある意味では、ルーマン(の思考・著作)よりもルーマン的、アレグザンダー(の思考・著作)よりもアレグザンダー的という自負はある。全面的傾倒の結果、個性が出てしまうということは、そういうことだろう。

このように、自分の実感をあらためて再確認したわけだが、ほかにも次の2つのことを考えた。

一つには、井庭研でメンバーによく、「僕との差異(井庭先生や井庭研のこれまでの○○ではできなかったことを僕はやろうとしている、というような)をしょうもないレベルで強調しないで、もっと大きな意味で差異が生まれるように突き抜けろ」という話をするのだけれども、それはまさにこのことだ。男子学生のなかには大学3・4年くらいになると、教員である僕とは違う意見やアイデアをちらつかさせて僕との差異を確かめ・強調し、その結果、一見自立しているようで実際は伸び悩むということがしばしば起こる。そういう研究会の内部での細かい差異に気にするのではなく、もっと大きな視点での個性を考えるべきだ、と言っている。この話は、まさにこのことに通じる。個性を出したいのであれば、井庭本人よりも井庭的であるくらい、徹底して突き抜けてほしい。

そして、もう一つ考えたのは、パターン・ランゲージが創造的に機能するということはどういうことか、ということだ。上述の考え方でいうならば、共有されたパターンのひとつひとつを取捨選択して取り入れるというようなことではなく、すべて受け入れて実践した先に、自分なりのパターンが見えてくる、というのが本当のところなのではないだろうか。これは、井庭研メンバーを見ていても感じる。とにかく、ラーニング・パターンにせよ、プレゼンテーション・パターンにせよ、コラボレーション・パターンにせよ、すべてまるごと受け入れて実践している人の方が、最終敵にはそれらを超えて個性的で創造的な「自分なりのパターン」をつかんでいるように思える。最初から取り入れるときに取捨選択してそのレベルにとどまっていると、伸び悩んでしまう。

形を追究し、全面的にそこに没入していくことで、内容がかたちになり、結果として新しいものが生み出される。実に興味深いことである。

KatachinoHakken220.jpg 『形の発見』(内田 義彦, 藤原書店, 改訂新版, 2013)
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