井庭崇のConcept Walk

新しい視点・新しい方法をつくる思索の旅

Creative Reading:『探求の共同体』(マシュー・リップマン)

マシュー・リップマンの『探求の共同体:考えるための教室』を読んだ。

本書のテーマは「探求の共同体」であり、「教室を探求の共同体に変える」ということについて論じられている。

「教室を探求の共同体に変える」ことは、いかにして可能なのか。リップマンは、「あるときには紙と鉛筆で練習問題を繰り返し、次には自由に遊ばせるといった、厳格な時間と無計画な時間とを交代して行うだけでは解決は訪れない」という。そうではなく、「計画性と創造性の両方を育むような方法を発見すること」が重要だと指摘する。つまり、教科学習と総合的なプロジェクト学習を交代して行うのでは、だめだというわけである。

ジョン・デューイが述べたように 「反省的に考える習慣を作る【方法】は、【興味】を引き起こし、興味を導く【条件】を整えることにある。つまり、経験されたものの間に連関を作り出すことである。それが、未来のさまざまな場面で【示唆】を促し、考えの連続に【連関】を与える問題と目標を作る」 のである。連続性を欠くカリキュラムは、経験の連続性をなんとか学ぼうとしている子どもたちにとっては、なんの模範にもならない。子どもは何が起きているのかを知る鋭い感覚を持っている。しかし、自分で物事を連続的にとらえる方法を、いつも理解できているわけではない。(p.12)


ここでリップマンは、物語のような教科書の重要性を指摘するが、僕の実践でいうならば、それこそが井庭研で行っている研究(探究)プロジェクトということになる。実際に何かを「つくる」ことを通じて学ぶという、「つくることによる学び」の実践である。

例えば、今年の例で言うならば、認知症の方がどのような工夫をして前向きに生きているのかをまとめたパターン・ランゲージをつくるプロジェクトは、それをつくる過程で、認知症のことについても、インタビューの仕方についても、文章の書き方も、表現の仕上げ方も、ビジュアル化の秘訣も、冊子のデザインについても、パターン・ランゲージとは何かや、パターン・ランゲージをつくるときには何が大切なのか、ということすべてが学びとなる。そこには、国語や美術や歴史という区分はない。ひとつながりの経験のなかに、学ぶべきことがいろいろなかたち、いろいろなタイミングで登場する。

リップマンは、探求の共同体で起きることを、以下のように紹介している。

生徒たちが敬意を持ちつつ互いに意見を聞き、互いの意見を生かしながら、理由が見当たらない意見に質問し合うことで理由を見いだし、それまでの話から推論して補い合い、互いの前提を明らかにするということである。探求の共同体は、既存の学問の領域の中に閉じ込められずに、探求が誘う場所へと進み続ける。対話は論理に従おうとし、ヨットが向かい風を斜めに受けてジグザグに前に向かうように、真っ直ぐにではなく進んでいく。しかしそうしているうちに、その対話の流れは、思考の流れに似てくるのである。結果、参加者はその流れを内面化し、その対話の【手順】に似た【動き】の中で考えるようになる。つまり、その対話の流れこそが思考であると考えるようになっていくのだ。(p.22)


まさに、井庭研のプロジェクトで起きていることそのものである。

そして、興味深いのは、「その対話の流れは、思考の流れに似てくる」という指摘である。そして、参加者は「その対話の流れこそが思考であると考えるようになっていく」という。これが、コラボレーションによる創造である。僕に言わせれば、その「コラボレーションによる創造」と「思考における創造」は、単にアナロジカルに似ているというのではなく、創造の観点からみるとそれらは同じ過程である。そのことを直接的に指摘するのが、僕の「創造システム理論」である。

それはどういうことかを、以下の引用を出発点として考えてみたい。

探求のテーマとなった事柄については、私たちはもはやそれまでの信念を持ち続けることができない。一度探求が始まれば、信念をいったん保留させるような証拠が提示され、探求が締めくくられるまでは、何事も疑ってかかることが行われなければならないからだ。探求を進める中でたえず自己修正を繰り返し、それがいろいろな形で落ち着くことによって、むやみな懐疑主義に陥る土壌も徐々になくなっていくだろう。あるテーマについての探求の終わりに、問いが解決されて結論に至ることで、また探求の結果、再構築され、さらに練り上げられた新たな信念を持つこともできるようになるだろう。(p.60-61)


ここが、本書のベースとなっているチャールズ・S・パースのいう「探求」(探究:inquiry)と、僕の「創造システム理論」が重なる部分である。創造システム理論では、何かをつくるとき、何らかの発見(気づき:discovery)が連鎖的に続いていく。ここでいう発見というのは、「科学的発見」や「発明」というような「大きな発見」(Discovery)というよりは、そのプロセスにおける小さな気づき(discovery, finding)のことを指している。どのような大発見も、その過程においては、小さな発見(気づき)が無数生じている。それらの発見は、あらゆる発見が起き得るのではなく、その当該の創造に関わる発見だけが、その創造において意味をもつ。それをシステム理論的に捉えるならば、創造は発見の連鎖であり、その発見は現在進行形の創造の要素として生じるという意味で「オートポイエティック」(autopoietic)であるというのが、創造システム理論で主張していることの本質である。発見の連鎖が創造プロセスの本質であるが、その発見は現行の創造に依存している。この円環的な関係を表すシステム理論の概念が「オートポイエーシス」(autopoiesis)なのである。

システム理論の性質上、どうしても、一般的な創造を語らざるを得ず、それゆえに説明が抽象的になりわかりにくくなるのであるが、上述のリップマンのような説明を介することで、少しは理解がしやすくなるかもしれない。まず、「探求」は、いまはない何らかの結論に至るということであるから、僕の言う意味での「創造」と同義である。それゆえ、上述の「探求」は「創造」と読み替えて読むことができると考えよう。ある「探求」(創造)が始まると、絶えず「疑念」(問い)が生じ、それらの疑念が次々に「解決」されていく(問いに対する答えが発見されていく)。これが発見の連鎖ということで描きたい創造プロセスの姿である。

さて、本書のテーマは探求であり、それは創造性に関わるので、創造的な思考についての考察も多い。なかでも、橋渡し、転移、翻訳などで求められる「アナロジーを用いた推論能力」についての次の指摘はとても重要だ。

このようなスキルは、科学的領域だけでなく、芸術や人文学の領域でも必要となるものであり、創造的スキルの中では最も包括的なものであり、分析的スキルの中では最も想像力を用いるものである。異なった体系間の翻訳やその中での知識やスキルの転移には、創意工夫に富む、柔軟な知性が必要とされる。そうした知性を育てるには、今私たちがたとえば算数の教育に注ぐのと同じだけの熱心さでアナロジーを用いた推論能力を育む実践に取り組む必要があるだろう。(p.74)


この部分が重要なのは、単に「柔軟な知性」の重要性を指摘しているからではない。そういうことは、これまでにもたくさん論じられてきた。そうではなく、「算数の教育に注ぐのと同じだけの熱心さでアナロジーを用いた推論能力を育む実践に取り組む必要がある」という主張なのである。いまの個別教科・個別分野の勉強と同じくらいの熱心さで、アナロジーによる推論を実践するような教育が必要であるという話なのだ。知っての通り、現在の学校教育では、このような実践はなされていない。

興味深いことに、井庭研ではまさにこういうことを日々実践している。ばらばらな出所の様々な経験たちに類似性を見いだしてパターンとして抽出したり、分野を超えてパターン・ランゲージの方法が活用しようと試みたりしているなかで、まさにアナロジーによる推論を日々実践しているのである。新しいテーマのパターン・ランゲージのプロジェクトを始めるときには、建築について書かれたアレグザンダーの著作を読みながら、学びやプレゼンテーションやコラボレーション、生き方などの話として読み替えてみる、というようなこともする。つまり、リップマンが言うような「算数の教育に注ぐのと同じだけの熱心さでアナロジーを用いた推論能力を育む実践に取り組む」ためには、「自分たちなりのパターン・ランゲージをつくる」という教育がひとつの手段として有力だと考えることができるだろう。

リップマンは「探求の共同体」では、「探求の方法」を「暫定的にではあるが受け入れることが求められる」と指摘する。この点はとても重要な点である。

一般的な知識伝授型の教育実践から、新しい探求型の教育実践に目を向ければ、複数の実体的な信念を「知識」と偽って教え込む必要がないことに気づく。その代わりに、生徒たちは探求の方法を暫定的にではあるが受け入れることが求められる。これは、探求の共同体のメンバーとして受け入れられるため手続きなのである。(p.58)


例えば、井庭研でパターン・ランゲージをつくるというプロジェクトで探求するのであれば、「パターン・ランゲージをつくる」という「探求の方法」を「暫定的にではあるが受け入れ」なければならない。それを受け入れられないのであれば、プロジェクトにおいて探求することはできなくなる。方法は(暫定的に)受け入れなければならない。それが「探求の共同体のメンバーとして受け入れられるため手続き」なのである。

もちろん、このことは、方法について考えたり反省したりすることを否定しているわけではない。「方法」というものは万能ではないので、その限界や副作用について考えることは重要なことである。しかも、「方法」は固定的ではなく、絶えずつくり直される。実践のなかで「方法」がつくり直されていく。そのようなことも、方法を受け入れているからこそできるのであって、方法を受け入れなければ何も始まらない。

重要なのは、自分が採用している「方法」に自覚的になることである。「暫定的に受け入れている」ことを心のどこかに置いておき、実践しているときも、その方法をどのようにしたらよりよく実践できるのかを考えることが大切である。

さらに、リップマンは創造的思考について、次のようにも語っている。この点も、パターン・ランゲージとの関係を考えると実に興味深い。

創造的思考にとって重要なのは、経験と想像力が相互に浸透し合うことではないかと私は考えている。経験との結びつきなしには、想像力は簡単に見当違いの方向にいってしまうし、想像力との結びつきなしには、経験は容易に退屈で、平凡なものになる。しかし、両者がメタファーやアナロジーという形で結びつく場合には、思いがけない幅で存在している新たな可能性の扉を開けることができる。(p.81)


ここで指摘されている「経験」と「想像力」という区分と関係づけでいくならば、パターン・ランゲージは「想像力」の側の支援をする。パターン・ランゲージを「経験」の代替と捉える人がいるが、それは間違いである。パターン・ランゲージは経験の代わりはできない。ただし、自分にその経験がないことを知り、それがどのような経験でありそうかを想像できるという意味で、それは「想像力」の側に位置している。

ただし、興味深いのは、その想像力の側に位置するパターン・ランゲージは、(自分ではなく)他者の「経験」に基づいている。「経験との結びつきなしには、想像力は簡単に見当違いの方向にいってしまう」のであるが、パターン・ランゲージは(他者の)「経験」とは結びついているから、想像力が見当違いの方向にいってしまうことを防ぐ。例えば、よいコラボレーションを経験した人の経験がパターン・ランゲージになっていれば、それを知ることでよいコラボレーションとはどういうことかの想像が、少なくとも誰かがどこかで実践しているようなものの範囲でイメージできるようになる。

そして、パターン・ランゲージは「想像力との結びつきなしには、経験は容易に退屈で、平凡なものになる」ことにも関係する。パターン・ランゲージ ――― 例えば、ラーニング・パターンやコラボレーション・パターン ――― を用いた対話ワークショップをすると、みんな、これまでほとんど注目してこなかった自分の経験が、実は他の人には経験されていない貴重な経験であることを知る、ということがある。自分にとって当たり前の経験が、実は、よい学びやよいコラボレーションに結びついているんだということを感じる。パターン・ランゲージにはそういう効果もある。

しかも、パターン・ランゲージは「経験」と「想像力」を論理でしっかりと結び付けるわけではない。まさに「メタファーやアナロジーという形で結びつく」ように、両者をつなぐ。それゆえ、「思いがけない幅で存在している新たな可能性の扉を開ける」ことを可能とするのである。

このようにパターン・ランゲージは、創造的な思考を支援する。しかしながら、パターン・ランゲージを創造性とは逆方向に捉える人が少なからずいる。つまり、「パターンに縛られる」という感覚をもつ人がいるのである。それがなぜなのかを考えるとき、本書の以下の部分は参考になる。

こうした問題解決のための思考の手続きは日常の私たちの実践の中から取り出された【記述的】なものであるが、それが一旦科学的な探求と結びつけられるやいなや、【規範的】なものとなり、いつも間には【このようである/このようであった】から【このようでなければならない】への移行が起こる。(p.41)


パターン・ランゲージは、紹介・導入の仕方を考えなければ、いつもこの問題が生じる。何かのパターン・ランゲージを読んだとき ――― 例えばラーニング・パターンを読んだとき ――― この通りにしなければならないと感じる人は、「パターン・ランゲージが創造性を支援する」ということは信じられないだろう。むしろ、強制的に枠にはめられるような印象をもつかもしれない。ヒントであると捉えられなければ、パターン・ランゲージは「はめられる型」だと捉えられてしまう。その点は、紹介・導入の際にかなり気をつけなければならない。相当に注意をした方がよい。

パターン・ランゲージ、特に、人間行為のデザインを支援するパターン・ランゲージ3.0は、自らの行為を「組み立てる」ことを可能とする。つまり、複数のパターンを操作可能にし、暗黙的に行っている行為を捉え直し(反省的に考える)、自らの行為を自ら選択して実践することを可能にする。

リップマンがデューイを取り上げて語る、以下の部分は、まさにパターン・ランゲージが目指していることと重なっている。

『思考の方法』の中で、デューイは単なる思考と反省的思考と呼びうるものとを区別している。反省的思考という言葉によって、デューイは、自らの原因や帰結に対して意識的であるような思考を指し示している。ある考えがどこからやってきたか ――― まさにこの条件のもと、その考えは思考となりうること ――― を知ることによって、私たちは知的硬直から解放されるのであり、知的な自由の源泉であるところの代替可能な選択肢の中から選択を行い、それに基づいて行動する力を得るのである。(p.42-43)


パターン・ランゲージの個々のパターンは、「知的な自由の源泉であるところの代替可能な選択肢」なのであり、それらのパターンを活用することで「行動する力を得る」のである。そして、「状況」「問題」「解決」「結果」を示唆するパターンによって、「自らの原因や帰結に対して意識的であるような思考」を可能とし、人びとが「知的硬直から解放される」ことを支援するのである。

そのためにもやはり、既存のパターンを使うのではなく、自らもパターンをつくり、パターン・ランゲージ群の創造の連鎖に入ることが本質的に重要となるのではないだろうか。


このリップマンの『探求の共同体』は、この他にも、たくさん創造的な刺激をもたらしてくれた。教育や創造性について興味がある人には、おすすめしたい1冊である。


ThinkingInEducation220.jpg『探求の共同体:考えるための教室』(マシュー・リップマン, 玉川大学出版部, 2014)
Matthew Lipman, “Thinking in Education”, 2nd ed, Cambridge University Press, 2003
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