井庭崇のConcept Walk

新しい視点・新しい方法をつくる思索の旅

Creative Reading:『物書きのたしなみ』(吉行淳之介)

年末に読んだ本のなかに、『物書きのたしなみ』(吉行淳之介, 実業之日本社, 2014, 原著1988)がある。

その本に収録されている「私の文章修業」というエッセイに、次のような文章が登場する。

言うまでもないことだろうが、文章というものはそれだけが宙に浮いて存在しているわけではなく、内容があっての文章である。地面の下に根があって、茎が出て、それから花が咲くようなものである。その花を文章にたとえれば、根と茎の問題が片付かなくては、花は存在できないわけである。
 そこが厄介なところで、おまけに一つの作品ができ上ると、いったんすべてが取り払われて、地面だけになってしまい、またゼロからはじめなくてはならない。その上、その土地の養分はすべて前に咲いた花が使い切ってしまっているので、まず肥料の工夫からはじまる(土壌と根と茎が十分なかたちで揃えば、おのずから立派な花が咲くとおもっていいのだが、やはりその花の様相を整えることが必要である。ここではじめていわゆる「文章」が独立した問題として出てくる。・・・下部構造がしっかりさえしていれば、花の整え方はその人の個性に属することで、かなり歪んだ花のかたちでもその人にとってはそれでいいわけである)。(p.36)


何かをつくるということを、植物をメタファーとして捉えるということは、しばしばある。それでも、この文章に僕が惹かれたのは、まさに最近、庭でいろいろな植物を育てているからだろう。ひとつ作品ができあがると、すべてが取り払われて養分のない地面だけになるという感覚は、作品をつくる(本や論文を書く)という経験にも、植物を育てる経験にも完全に当てはまる。

もっと言えば、一緒に研究をしてきた学生たちが力をつけたころに巣立っていく、というのも同じような感覚だ。なんだ、結局、僕がやっていることは同じようなことなのだな、とこの文章を読んで、はたと気がついた。

そして、学問の潮流、いま生きている時代、ひとつひとつの研究テーマの探究期間、大学の年度、プロジェクトの活動期間、季節、毎週の授業 ――― このような幾重にもなる重層的なリズムのなかで、絶えず自分と周囲が更新されていく、そういう生活・人生を生きているのだなと感じた。


現在、このような仕事・生活をしているのは、20年前は想像もしていなかった。大学院の修士に上がるときにも、修飾するつもりでいたので、博士に進学することも、ましてや大学で研究・教育をすることになることは想定していなかったからである。大学生のころから「学問を究めたい」と考えて勉強をしてきたわけではないのだ。

そのあたりは、本書の「文学を志す」というエッセイに書かれていることと重なる。吉行は次のように始めた。

文学を志すという明確な姿勢を取ったことがあったかどうか思い出してみると、少なくともいわゆる作家になる以前にはなかったようだ。(p.71)


そして、自身の遍歴を語った上で、次のようにまとめている。

いろいろの偶然が重なって、現在作家というものになっている。そして、そのことに、このごろでは宿命のようなものを感じている。これまでは滓が沈殿して自然発生的に作品を書いていた傾向が強かったが、ようやくいくぶん自分の方向というものが分かりかかってきた。作家として死ぬまで書いてゆくほかなさそうだ、という抜きさきならなぬ気持ちもでてきた。ここで、あらためて、文学を志したいとおもう。(p.78)


この気持ち、なんだかわかる。しかし、おそらく10年前には、この気持ちは今ほどはわからなかっただろう。でも、今はよくわかる。

そして、この後に続いて「方向が分かると同時に、自分の限界も分かってきた」ということが書かれているが、それも最近実感するところだ。自分に限界の枠をはめたくはないと常々思っているが、現実問題として「自分の限界」を感じることがしばしばある。35歳を過ぎるというのはそういうことだ、と昔誰かが言っていたのを思い出す。


あらためて、(新しい)学問を志したいとおもう。



Monokaki.jpg『物書きのたしなみ』(吉行淳之介, 実業之日本社, 2014, 原著1988)
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