Creative Reading:『ナチュラル・ナビゲーション』(T・グーリー)
昨年、書店でたまたま見つけた本がとても素敵で、素晴らしい出会いとなった。そこに書いてあることが魅力的なだけでなく、僕がパターン・ランゲージについて感じていたことや、しっかり語っていかなければならないと感じていたことを、見事に言語化してくれていた。
『ナチュラル・ナビゲーション:道具を使わずに旅をする方法』(トリスタン・グーリー, 紀伊國屋書店, 2013)
Tristan Gooley, The Natural Navigator: The Art of Reading Nature’s Own Signposts, Virgin Books, 2010/2014
道具を使わずに、自然を感じ、そこに潜む意味を読んで旅をする。それがナチュラル・ナビゲーションであり、そうやって旅をする人をナチュラル・ナビゲーターという。
本書の多くの部分が、具体的に太陽や夜空、植物や地形の読み方に費やされているのだが、僕は特にプロローグから始まる冒頭部分にすごく共感し、とても気に入った。
著者は、ナチュラル・ナビゲーションに対して、単なる実践的な手段ということを超える意味を見出している。自然と関わり、自然を味わうためのものだと捉えているのだ。「ナチュラル・ナビゲーションの技能は、絶滅の危機にあるのに加え、現代社会でははなはだしく誤解されていることに気づいた」という。
ここで「芸術」と書かれているが、おそらく「art」のことであり「技芸」と訳してよいだろう。
「ナチュラル・ナビゲーションが陥りがちなのは、サバイバル技術と同一視されることだ」と言い、「サバイバルテクニックとして自然事象を使って方位を定める方法からは、本来ナチュラル・ナビゲーションが持っている豊かな魅力のほとんどがそぎおとされてしまっている」。
そうではなく、ナチュラル・ナビゲーションはもっと豊かなものなのだ。著者は自らの経験を振り返りこう言う。
つまり、著者が大切だと言っているのは、目的を達成するために自然界の情報を利用するということではなく、自然を深く理解するということ、そして自然とのつながりを感じることなのである。
パターン・ランゲージをつくるときにも、僕も同じことを大切だと考えている。僕らの経験や知識を言語化するというよりも、いま捉えようとしている物事をより深く理解し、その世界を味わっているという感覚がある。つくるときには、確実にそうだ。
そして、そうやってつくられたパターン・ランゲージをどうやって「使う」というときも、単になにかのアクションを実践できる、ということではなく(それはきっかけとして重要だとしても)、そのパターン・ランゲージが捉えている世界観(物事の捉え方)で、世界を見てみること、体験してみることの方が重要なのだ。
『旅のことば』で「認知症とともによりよく生きる」ためのパターン・ランゲージをつくったが、あの本に書かれている個々の工夫を共有することは重要だが、それよりももっと大切なのは、あのパターン・ランゲージで捉えた世界観を共有するということなのだ。
その意味で、僕は中埜博さんが「パターン・ランゲージは物語である」ということを言った意味を今はよく理解できるし(以前はその真意をつかめていなかったと今となっては思う)、ひとつの世界観の表現・提示なのだ。
この点が、個々のパターンを実践してみるデザイン・ワークショップではなく、パターンを用いた対話ワークショップの方に僕が惹かれている理由でもある。
ナチュラル・ナビゲーションについて読みながら、すべてパターン・ランゲージの話として共感した。『The Nature of Order』にも通じるものがあると思う。
素敵な本との出会いに感謝!
『ナチュラル・ナビゲーション:道具を使わずに旅をする方法』(トリスタン・グーリー, 紀伊國屋書店, 2013)
『ナチュラル・ナビゲーション:道具を使わずに旅をする方法』(トリスタン・グーリー, 紀伊國屋書店, 2013)
Tristan Gooley, The Natural Navigator: The Art of Reading Nature’s Own Signposts, Virgin Books, 2010/2014
道具を使わずに、自然を感じ、そこに潜む意味を読んで旅をする。それがナチュラル・ナビゲーションであり、そうやって旅をする人をナチュラル・ナビゲーターという。
本書の多くの部分が、具体的に太陽や夜空、植物や地形の読み方に費やされているのだが、僕は特にプロローグから始まる冒頭部分にすごく共感し、とても気に入った。
著者は、ナチュラル・ナビゲーションに対して、単なる実践的な手段ということを超える意味を見出している。自然と関わり、自然を味わうためのものだと捉えているのだ。「ナチュラル・ナビゲーションの技能は、絶滅の危機にあるのに加え、現代社会でははなはだしく誤解されていることに気づいた」という。
かつては人々にとって生きていくための実践的な道具だったとしても、いまこの技能を現代にも通じる芸術的技法だと考える者は見当たらない。しかしそれこそが私の考えだった。ナチュラル・ナビゲーションは、芸術として扱われたときに最も美しく、力強く輝きを放つ ――― 人間の根源的な能力であって、単なる歴史のひとこまだとか、サバイバル知識と片付けていいものではない。
ここで「芸術」と書かれているが、おそらく「art」のことであり「技芸」と訳してよいだろう。
「ナチュラル・ナビゲーションが陥りがちなのは、サバイバル技術と同一視されることだ」と言い、「サバイバルテクニックとして自然事象を使って方位を定める方法からは、本来ナチュラル・ナビゲーションが持っている豊かな魅力のほとんどがそぎおとされてしまっている」。
そうではなく、ナチュラル・ナビゲーションはもっと豊かなものなのだ。著者は自らの経験を振り返りこう言う。
旅のなかでわたしが一番熱くなれるのは、つながっているという感覚、自分を取り巻く世界との触れ合いの部分だった
旅を続ける自分を取り巻く自然を理解すること、わたしの未来はむしろそのほうにあった。
「方角を知る方法が、いくつかの『コツ』という形で教えられることもあるが、自然の事象を使ってお手軽に方位を割り出そうとすると、自然との確かな絆を感じる機会を失う恐れがある。方位を知ることと、方位を解ることとは微妙に異なるーーー自然界を深く理解せずとも、自然の事物を手がかりにものの数秒で方位を見つけだすことは可能なのだ。方位を解るためには、自分たちが移動している世界を根源から理解しなければならない。自然の事象を利用して方位を導き出そうとする目的が、自分の経験を深めることであるなら、方法を駆使するよりも、その方法がなぜ使えるのかを理解する方が重要だ。それがサバイバル・ナビゲーションとナチュラル・ナビゲーションのそもそもの違いなのである。」
つまり、著者が大切だと言っているのは、目的を達成するために自然界の情報を利用するということではなく、自然を深く理解するということ、そして自然とのつながりを感じることなのである。
パターン・ランゲージをつくるときにも、僕も同じことを大切だと考えている。僕らの経験や知識を言語化するというよりも、いま捉えようとしている物事をより深く理解し、その世界を味わっているという感覚がある。つくるときには、確実にそうだ。
そして、そうやってつくられたパターン・ランゲージをどうやって「使う」というときも、単になにかのアクションを実践できる、ということではなく(それはきっかけとして重要だとしても)、そのパターン・ランゲージが捉えている世界観(物事の捉え方)で、世界を見てみること、体験してみることの方が重要なのだ。
『旅のことば』で「認知症とともによりよく生きる」ためのパターン・ランゲージをつくったが、あの本に書かれている個々の工夫を共有することは重要だが、それよりももっと大切なのは、あのパターン・ランゲージで捉えた世界観を共有するということなのだ。
その意味で、僕は中埜博さんが「パターン・ランゲージは物語である」ということを言った意味を今はよく理解できるし(以前はその真意をつかめていなかったと今となっては思う)、ひとつの世界観の表現・提示なのだ。
この点が、個々のパターンを実践してみるデザイン・ワークショップではなく、パターンを用いた対話ワークショップの方に僕が惹かれている理由でもある。
ナチュラル・ナビゲーションについて読みながら、すべてパターン・ランゲージの話として共感した。『The Nature of Order』にも通じるものがあると思う。
素敵な本との出会いに感謝!
『ナチュラル・ナビゲーション:道具を使わずに旅をする方法』(トリスタン・グーリー, 紀伊國屋書店, 2013)
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