井庭崇のConcept Walk

新しい視点・新しい方法をつくる思索の旅

Creative Reading:『小説の誕生』(保坂 和志)

前回に続き、保坂和志さんの「小説をめぐって」の三部作の二作目にあたる『小説の誕生』(保坂 和志, 中公文庫, 中央公論新社, 2011)から気になる部分を抜き出して考えたい。

Hosaka2.jpg『小説の誕生』(保坂 和志, 中公文庫, 中央公論新社, 2011)


本書でも、「小説的思考とは何か? 小説が生成する瞬間とはどういうものか? 小説的に世界を考えるとどうなるのか?」ということが問われている。

評論的思考は俯瞰し一望するタイプのものだけれど、小説的思考は森の奥へ奥へと勇気を持って突き進むものだ。その先に何があるのか?なんて関係ない。突き進むという行為自体に意味がある。というか、小説を書くとはひたすら突き進む行為そのもので、それは人生であり、この世界に生きることに等しい。人生や世界は決してその外に出て俯瞰することはできない。(p.14)

興味深いのは、この小説論自体が、小説的に奥へ奥へと進むように書かれているということだ。

小説論は評論でなく小説の変種だから、私は毎回、最初の数行を書いたらその運動に任せて、考えを前に進めることだけを実践した。(p.4)

そのような小説的な書き方で、小説について考えているのが、この『小説の誕生』という本、そして、この「小説をめぐって」の三部作なのである。このような再帰的なかたちの取り組みは、まさに僕らがパターン・ランゲージをつくるためのパターン・ランゲージをつくっているのと同じような構造になっている。

前回取り上げた『小説の自由』でも書かれていたことだが、文体は文章の表面的な特徴を言うのではなく、それを生み出す奥にあるものである。

小説における文体とは書かれる要素の種類と量とその順番などのことであって、センテンスの長-短、言葉使いの硬-軟などの表面的なことではない。それら表面的なことだけにとらわれる文体観は、小説を形式と内容に分ける考え方に基づいた発想なのだが、小説においては形式と内容という二分法は意味がない。表面的なものだけをみて文体と考える発想は詩から移入されたものだろう。散文は韻文ではない。散文は韻文と別のメカニズムによって作られていくこのだから、小説は散文としての独自の意識を持つ必要がある。小説にとって必要なのはひたすら散文という意識だけなのではないかと私は思う。(p.34)

この詩の捉え方が、詩人の側から見てどう思うのかは僕はわからないが、「形式」と「内容」に分けるという発想がそもそも違うという指摘は興味深い。(小説・散文における)文体というのはそれらの二分法的な区分では捉えられないというわけである。そして、散文であるパターン・ランゲージの文章もまた、「形式」と「内容」は不可分だということになる。

それでは改めて、小説を書くということは、どういうことなのだろうか。

小説とは小説家の中にあるイメージというか何か言葉にならないものを、人物の動きや情景や出来事の連鎖によって読者の中に作り出そうとする表現行為のことだ。だから小説は言葉によって書かれているものではあるけれど、音楽や絵画と同じように、言葉によっては再現することができない。(p.66)

小説は、音楽や絵画と異なり、言葉で表現されるので、まるで「言葉にならない何か」を言葉で記述できたかのように思えてしまう。しかし、それは誤解であって、音楽や絵画と同じように、そこに文字として書かれていることが、表現したかったそのものではない。その文字を追うことで立ち現れてくる世界こそが、小説によって表現したいことなのだ。だから、現前性ということが問題になるのである。

文章は事実を書けばそれが事実としてそのまま読者に伝わるようなものではない。(p.303)

書かれた文字を逐一追っていく読者の行為にとって、書かれていることが読みながら生起するように書かなければならない・・・そうしなければ読者はそれを経験せず、ただ事後報告として読むだけだ。(p.303)

同様のことが、パターンの文章を仕上げるときにも言える、と僕は思う。パターンには、よりよい方向に進むための秘訣のようなものが言葉で表現される。しかし、そこに書いてある言葉そのものを共有したいというよりは、その記述が生むより感覚的なものを共有したいために文章にしている。

いま引用した部分の書き方を踏襲するならば、「事後報告としてのパターン」は、読んでいて、過去にあったことを文字として読んでいるに過ぎない。しかし、パターンを読んだときに自分のことであると感じさせたり、今もしくはこれから起きると感じさせる(思わせるのというよりも感じさせる)ことができるかどうかが、パターンの文章の命である。この違いを意識しているか、それを書き分けることができるのかが、パターンを仕上げたときのクオリティに大きく違いを生む。

だからこそ、パターン・ランゲージを読むということは、ある面では小説や哲学を読むということに近いのである。

哲学とは結論を読むものではなくて思考のプロセスを読むものだ。結論というのはプロセスそのものの中にあるとしか言えない。小説になるともっとプロセスしかない。音楽を聞くときに「結論は何か?」と考えないのと同じようなものだとでも言えばいいだろうか。音楽でも絵でもそれをいいと思っている人は言葉を必要としていない。音楽や絵の前で言葉を必要とする人はそれをどう受容していいかわからない人たちだ。(p.61)

音楽を聴くときに「結論は何か?」を考えない、というたとえは実にわかりやすい。パターン・ランゲージもそれを「感じる」ときには、小説や哲学を読み、音楽を聴くようなことに近い。そうやって読むことで、パターン・ランゲージが生成しようとする世界を感じて味わうことができる。(パターン・ランゲージは、その上で、後から個々のパターンを実践に活かすことができるような形態でまとめられている。)

それぞれの小説は、世界を立ち上げるという意味で、ひとつのまとまりをもった(閉じている)ものであるが、他方で、現実世界に対して「開かれている」。

小説は現実の世界に対して閉じてはいけない。それは考えることを放棄して【ただ作品を書く】ことでしかない。世界がどういうものであるかを考えるための方法や道具を作り出すのが小説で、世界とは自分の働きかけに応えてくれないものであるという前提で生き、それでも世界に働きつづけるにはどうしたらいいのかを考えるために小説がある、というのが私の小説観だ。(p.40)

フィクションのリアリティとは、現実でそれが説明されることでなく、それが現実を説明する原型になることだ。
現実の中にそれを置いてみて、どんなに荒唐無稽に見えることであっても、フィクションの中で読者の気持ちを掻き立てられればそれは何らかのリアリティを持っているはずで、そのリアリティが現実をそれまでと違った風に見えるようにする。(p.481)

つまり、小説は現実世界とは関係のない架空の世界の話として終わるわけではなく、それが現実世界の見方をも変容させていく。小説家が小説を書きながら自分自身が変わっていくように、読者もまた、小説を読みながら変わっていくのである。

文学というのはどれだけ絶望的な状況を書いても、この世界を肯定しようとしていなければならない、というのが私の文学観だ。息苦しい状況をひたすら息苦しく書いたり、悲惨なことをただ悲惨に書いたりするのは、文学を文学たらしめる何かが欠けている。私は「世界はいいものだ」「人間は素晴らしい」と書かなければいけないと言っているのではない。・・・『音の静寂 静寂の音』で高橋悠治が書いている、
「人間であることのくるしみをくるしみとしながらも
くるしみがそのままでそこからの解放でもあるような音楽」
という意味で、世界を肯定しようとする強い意志がなければならない。小説―――広く芸術一般――ーを世界に向かって開くことができるのは、この意志なのだと思う。(p.317)

世界を肯定する。その気持ち、よくわかる。パターン・ランゲージは現在よりもよりよい状況を生もうとして書かれる。しかし、それは世界の否定ではない。世界を肯定しているからこそ、パターン・ランゲージを書き、よりよい状況になると信じているのである。もし世界を肯定しようという意志がないのであれば、パターン・ランゲージなど書くこともなく、絶望に打ちひがれたり、やけになって破滅的な行動をとるかもしれない。パターン・ランゲージをつくるというのは、世界を肯定しようという意志の表れなのである。
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