井庭崇のConcept Walk

新しい視点・新しい方法をつくる思索の旅

Creative Reading:『小説、世界の奏でる音楽』(保坂 和志)

今回は、保坂和志さんの「小説をめぐって」の三部作の最終巻である『小説、世界の奏でる音楽』(保坂 和志, 中公文庫, 中央公論新社, 2012)を取り上げたい。

Hosaka3.jpg『小説、世界の奏でる音楽』(保坂 和志, 中公文庫, 中央公論新社, 2012)


この三部作を通じて、小説家・小島信夫さんの話がたくさん出てくるのであるが、次のエピソードで語られていることは、実に興味深い。

そのとき話がはじまってすぐに私がちょうどそのときに読んでいたメルロ=ポンティの『見えるものと見えないもの』のページを開いて、
「ソナタ奏者の演奏がソナタたりえるのはソナタに奉仕しているからだ。」
という意味のことが書いてある箇所を小島さんに見せて、
「小島先生の小説が小説たりえているのは、先生が小説に奉仕しているからなんだと思う。」
と言ったら、
「そんなことを誰の前でも軽々しく言ったらいけない。みんな小説を自分一人の力で書いていると思っているんだから。」
と小島さんが答えた (p.121)

この部分を読んで、もしかしたら僕のつくるパターン・ランゲージがパターン・ランゲージたりえるのは、パターン・ランゲージに奉仕しているから、と言えるのではないか、と感じた。そして、よいパターン・ランゲージを書けないで悩んでいる人は、もしかしたら、自分がつくっているものをどうするかに頭を悩ませているばかりで、パターン・ランゲージというもの・方法に奉仕していないからかもしれない。

僕は、そのときどきのテーマのパターン・ランゲージをつくりながら、同時に、パターン・ランゲージとは何なのか、どのようにパターン・ランゲージをつくることができるのかについて絶えず考えている。そして、パターン・ランゲージをより知ってもらったり、活用されたりするためにはどうすればいいかも考えている。これを先ほどの「奉仕」という言葉で表現するならば、奉仕していると言うことができるのではないか。

成果だけでなく、同時にそのつくり方もつくることの重要性は、僕もこれまで考えていたけれども、「奉仕」ということは考えていなかった。でも、これ、とても大切なことだと思う。


ハイデガーを取り上げた章で、次のようなことが書かれている。

人間が芸術を作るのではなく、芸術によって人間が作るようにしむけられる。とはいっても、ただ子どもが大人に言われるままにわけもわからず何かをするような仕方ではなく、覚悟をもってその困難に進み入ってゆく (p.248)

このことは、宮崎駿が、映画をつくっているはずが映画の奴隷になってつくらされる、ということを言っているのと重なるし、僕自身が本気で何かをつくっているときの経験とも重なる。パターン・ランゲージをつくっているときも、パターン・ランゲージの記述が、まるでパズルのピースがぴったりはまるように、適切かつ生成力をもつようにつくっていく。

別の箇所で紹介されているモーツァルトの話も興味深い。

モーツァルトのてがみは言う―――構想は心の中に全体として姿をみせる。(p.301)


全体のイメージがどこからかやってくる。ある瞬間に気がつくと、それはすでにそこにある。全体をさまざまな角度からしらべ、必要なディテールを発見するのは、ゆっくり進行するプロセスであるのがふつうである。時間をかけることが問題なのではない。ディテールが全体の機械的な分割にとどまらず、相対的に独立した運動をもつことによって、逆に全体はディテールの集合から独立した次元を獲得する。こうして、はじめにあらわれた全体のイメージを超えることが必要なのだ。このことなしには、作曲は実行にあたいしない、ゆめみるだけで充分なものになってしまう。(p.301)

ここには、全体と部分の関係がつくる過程でどのように変容していくのかが書かれていると思う。全体は部分の寄せ集めではない。部分は全体によって規定されるのだ。しかし、最初からそのすべてがどこかからやってくるのではない。全体がまず先にあり、それが実際に存在できるように部分(上述の言葉でいうと「ディテール」)をつくり込んでいく。完成のイメージはあいまいであるが全体が先にあるのであるが、実際につくることができるのは部分=ディテールでしかない。しかし、部分=ディテールを集めたものが全体なのではなく、全体は全体として存在する。まだ正式なかたちを伴っていない段階から、それは全体なのである。

そして、そのようにつくられた小説にはリアリティが宿る。ただし、現在の事実にもとづくというよりも、それはもっともらしく、自分の未来に実際に起きそうであると感じるという意味でのリアリティである。

小説はリアリティがあるからおもしろいのではなく、おもしろい小説には何らかのリアリティがある。この関係を間違ってはいけない。(p.84)

パターン・ランゲージも、似たようなことを言えるだろう。リアリティがあるから「共感」できるのではなく、「共感」できるからリアリティがでる(を感じることができる)、と。

そして、それは新しい価値を提示する。


小説を書くということは社会全体に流布している価値とは別の価値による領土を作ることだ。(p.328)

これはパターン・ランゲージにも言える。パターン・ランゲージをつくるということは社会全体にすでにあるような価値とは別の価値の領土をつくることなのだ。例えば、プレゼンテーションが伝達だと思われているときに、伝達ではなく創造である、と捉えることや、認知症になるということは、家族と過ごす時間が増えたり、いろいろな挑戦をする機会を思い切って増やすことができるという意味で、「新しい旅」だと捉えることができる、というような、普通と異なる価値の領土をつくるということである。

そして、この別の価値というものを、作家はあらかじめ明確に理解しているわけではない。書く・つくることで、それが見えてくるのである。いや、それを見るために書く・つくるのである。

小説家は「いま書きはじめてこの話が小説として成立するのか」という先が保証されない時間の中で文章を書いている。
家を建てるのだったら、まず土台をしっかり作り、次に柱を立てて、その次に屋根を骨組みを作って、という順番があるけれど、小説を書くというのはとりあえず柱を一本立て、その柱を一本立てたことが同時に土台を少し作ることにも屋根を少し作ることにもなるような、手順が保証されていない作業であって、とりあえず立ててみた柱がダメそうなら、別のところに柱を立てるか、それより短い柱にしてみるかというような試行錯誤なのだ (p.412)

これは、創造的な過程の本質だと思う。そして、それが井庭研でやっていることや、SFCで僕らが教えられ・実際にやってきたことはまさにこういうことである。いわゆる一般教養から始めて基礎から積み上げる大学教育ではなく、いきなり柱を立て、その柱の下の基礎だけを同時につくっていくような学び方。これがSFCが25年間やってきたことだと思う。

そして、おそらく、パターン・ランゲージが支援しようとしているのも、そういうことだろう。アレグザンダーが、住民が建築生産のプロセスに参加できるようになるための方法としてパターン・ランゲージを考案したことからもわかるように、しっかりした基礎と自分自身の膨大な経験に基づくのとは異なるやり方で、いきなり柱をつくろうとしても全体として高い質が実現できるような方法を目指して、パターン・ランゲージがつくられたのである。

パターン・ランゲージを読むことによって全体性を感じとり、その上で部分=ディテールをつくるために個々のパターンが寄与する。アレグザンダーの実践は道半ばで終わってしまった感があるのは事実であり、その試みの続きは、僕ら後継者が続けるべきことだろう。
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