井庭崇のConcept Walk

新しい視点・新しい方法をつくる思索の旅

中動態で表されるべき「創造」(深い創造)

最近の僕の「創造の研究」において、創造と中動態の関係について考えていて、とても重要な気づきがあったので、そのことを書き留めておきたい。

中動態で表されるべき「創造」(深い創造)の話である。

今回は「深い創造の原理」の話は省略するが、中動態に関わる面だけを取り上げて、わかりやすくシンプルに述べていきたいと思う。

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スティーブン・キングは、小説を書くときのことについて、次のように語っている。

「結末を想定している場合もあるが、作中人物を自分の思いどおりに操ったことは一度もない。逆に、すべてを彼らにまかせている。予想どおりの結果になることもあるが、そうではない場合も少なくない。」(スティーブン・キング『書くことについて』)


日常的な感覚では、にわかには信じられないことであるが、実は多くの作家・芸術家が同様のことを言っている。つくり手は、頭の中にあるものを外化しているというわけではなく、自分が「ああしよう、こうしよう」と考えていることを文字や絵で表現しているといわけでもないと言う。

そうではなく、つくっている何か・作品そのものが展開し成長するのに寄り添い、伴走し、それを見守り、支援する、そういうことをしていると言うのだ。

つまり、それは、「創造」というものが、単に能動態で表されるような事態ではない、ということを表している。

他方、こういうことを言う作家もいる。

「物語が何を求めているのかを聴き取るのが僕の仕事です」(村上春樹『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』)

「一旦決めて映画作りだすと、映画作ってるんじゃないですね。映画に作らされるようになるんです。」(宮崎駿『出発点 1979〜1996』)。


これを読むと、「創造」というものが受動態で表される事態のようにも見える。しかしながら、創造の思考・行為をしているなかで起きることについて言っているので、作家・芸術家は単なる受け身(受動)ではない。それは、能動的な面(つくろうという姿勢+思考+手を動かいて書いたり描いたり構築する)と受動的な面(物語の声を聴く、導かれる)という面を併せ持っている

つまり、「創造」というものを、能動/受動のフレーム(構造)で捉えることことに無理があるのではないか、と感じる。能動/受動ではうまく捉えられないような事態が「創造」ということなのだ。

そうだとすると、どう捉えればいいのか?

このような「創造」(深い創造)がどういうことなのかを捉える鍵は、能動/受動のフレームではなく、かつての能動/中動というフレームである、と僕は考えている。言語で言うと、中動態(middle voice)と呼ばれる態で表現されるものである。

「創造」(creation)とは、中動態で表される事態であって、それを無理に能動/受動のフレームで理解しようとするから、無理が生じていると考えることができるのではないか。

我々は現在、能動/受動 を対に考える言語・思考 に慣れ親しんでいる。「する/される」の対立である。

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しかし、人類は長い間、インド=ヨーロッパ語や、古代ギリシア語、サンスクリット語などが示すように、能動/中動 が対になっていて、受動の感覚・捉え方は無かったようだ。しかも、能動/中動の時代には、同じ「能動」でも、能動/受動のときとは異なる意味で、能動が定義されていたという。

言語学者のエミール・バンヴェニストは『一般言語学の諸問題』で、能動/中動のフレームにおける能動では、「動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示している」といい、これに対立する態である中動では、「動詞は主語がその座となるような過程を表している。つまり、主語は過程の内部にある」と指摘した。

この言葉を借りて言うならば、「創造」とは、「動詞は主語がその座となるような過程を表している。つまり、主語は過程の内部にある」出来事なのではないだろうか。

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このことを実践的な感覚で述べているのが、スティーブン・キングだ。

「作家がしなければならないのは、ストーリーに成長の場を与え、それを文字にすることなのである」(スティーヴン・キング『書くことについて』)


この発言は、その作品をつくっている主語(作家)が「場」(座)となるということを言い表していると捉えることができる。

建築家のクリストファー・アレグザンダーも同様のことを述べている。

「あなたの頭は一つの媒体である。そこでパタンと現実世界との間の創造の火花をちらすことができる。あなた自身は、この創造の火花の単なる媒体にすぎず、その発生源ではない。」(アレグザンダー『時を超えた建設の道』)

「人は単なる媒体にすぎず、そこでパタンに生命が吹き込まれ、ひとりでに新しい何かが生み出されるのである。」(アレグザンダー『時を超えた建設の道』)

「だが、いったん肩の力を抜き、自分が媒体になったつもりで、自分を通してその場のさまざまな力を作用させてみれば、何の助けも借りず、ランゲージがほとんどすべての作業を行い、建物が自力で形成されることが分かるのである。」(アレグザンダー『時を超えた建設の道』)


このように、「創造」が自分を場(座・媒体)として起きるのである。

createという動詞がインド=ヨーロッパ語や、古代ギリシア語、サンスクリット語などでどのような態で使われどのような意味を持っていたのかは、いまの僕にはわからない(なので、サンスクリット語を勉強しようと思って、最近いろいろ入門書や文法書を買い集めている。インド=ヨーロッパ語や古代ギリシア語なども、わかる人がいたら教えてください)。

しかし、僕が思うに、おそらくcreateというのは、中動態に合う動詞であっただろうと推察する。

もともと動詞は、人間の行為ではなく、出来事を表す言葉であったことが知られている。のちに能動/受動のフレームのなかでは、それが主語に紐づけられ、主語の行為を表す品詞として定着することになった。「創造」とは、行為ではなく、出来事を表す言葉だったのではないだろうか。

creationに関して、ひとつ興味深い話がある。

西洋では、creationと言えば、その最大のものは、大文字のCで始まるCreation、すなわち、神による世界の創造(創生)である。

神は、自分を座として、世界の創造を行った。神を人のような主体と捉えると、世界は主体の外でつくられる。

しかしながら、スピノザの神の理解によれば、神は無限であり、限りがない(外部をもたない)ので、世界全体が神だということになる(國分功一郎『はじめてのスピノザ』など参照)。

そうやって中動態+スピノザで理解すれば、神は座となり世界を中動態として表されるべき出来事としての「創造」によって世界が立ち現れたと言えるのではなかろうか。これが中動態+スピノザでCreationを考えるときの、僕の捉え方である。

神の世界のCreationについては、森田亜紀が『芸術の中動態:受容/制作の基層』で興味深いことを指摘している。

「旧約聖書「創世記」の冒頭には、神が「光あれ」と言って光が出来たその後、「神は光を見てよしとされた」と書かれている。天地創造において、神は自らの創造したいちいちのものについて、それを見て「よし」とする。すべてをつくり終わった後にも神は「その造られたすべてのものを御覧になると、見よ、非常によかった」と述べたという。全知全能であるという神の定義からすれば、これは不思議な記述である。全能である以上、神は、意図したこと着想したことをそのまま実現することができる。こうつくろうと思った世界を、思った通り確実につくることができる。」(森田亜紀『芸術の中動態』)

「どのような世界が出来上がるか、神はあらかじめ知っていたはずなのだ。それなのに神は、出来た世界をわざわざ目で見て確認し、「よし」と評価する。このことは、たとえ神においてであれ、実現に先立って頭に思い浮かべられていたものとそれが実現してできた実味の事物とのあいだに、区別があることを示唆する。創造によって現実に存在するようになったものには、創造主にとってすらあらためて目で見て「よし」と確認する必要や余地があるような、見ることによってはじめて捉えられる何事かがあるらしい。」(森田亜紀『芸術の中動態』)

「おそらくつくり手は、出来上がった作品を「見る」ことで、頭の中にあったことを超える何かが、今まで知らなかった何事かに出会うのだろう。」(森田亜紀『芸術の中動態』)


"万能"の神でさえ、「創造」(creation)とはそのような事態なのだ。創造とは、頭のなかで考えたことを外化するということではないのである。

それは、自分を座(場)として何かが生成するという出来事のことを言うのである。

これが、僕の、中動態で表されるべき「創造」の考えである。

創造は、能動/受動フレームでは正しく捉えることができず、どうしても中動態という物の見方を取らないと理解できない。「中動態」の捉え方でなければ、正しく捉えることができない事態である必然性と必要性が、そこにはある。

以上が、創造と中動態の関係として、僕が考えていることである。

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