『ゼロ年代の想像力』(宇野常寛)
若手評論家 宇野常寛さんの『ゼロ年代の想像力』を読んだ。
『ゼロ年代の想像力』(宇野常寛, 早川書房, 2008)
具体的な物語のところは飛ばし飛ばし読んだものの、一気に最後まで読んだ。文章もしっかりしていて読みやすく、期待の若手という感じだ。最近の批評と違って、僕でも知っている有名な漫画やドラマが取り上げられているので、その意味でも身近に感じた。
僕は、個人や社会のもつ「想像力」に興味がある。いま書いている本にも想像力に関するものがあるので、書店でこの本を見たとき、まずタイトルに惹かれて手に取ってみた。すると、いきなり最初から、日本における批評の現状を鋭利な言葉でぶった切っていた。これはただごとではないな、と思った。
宇野さんは、1978年生まれということで、僕よりも4歳下にあたる(この本で批判の対象となる東浩紀さんは1971年生まれ、つまり僕は二人の真ん中に位置する)。そういう下の世代が、上の世代が考えたり論じたりしていることは時代遅れだ、と指摘しているのを読むと、ドキっとする。自分はどうだろうか、と考えてしまう(もっとも、この本で指摘されている「時代遅れ」の考え方は、僕はとっていなかったが)。
この本では、1990年代の「古い想像力」と、2000年代(つまりゼロ年代)の「新しい想像力」を比較しながら、時代がシフトしていることを描き出そうとしている。これは、物語作品の批評という点からだけでなく、社会論として読んでも興味深い。
■「古い想像力」と「新しい想像力」
宇野さんが指摘する「古い想像力」と「新しい想像力」について、紹介しておこう。
まず、「古い想像力」というのは、「九〇年代後半的な社会的自己実現への信頼低下を背景とする想像力」(p.15)である。そこでは、アイデンティティの拠り所が、「~する」「~した」という「行為」に結びつけられるのではなく、「~である」「~ではない」という「状態」に結びつけられる。そのため、問題に対する解決は、行為によって状況を変えることでなされるのではなく、自分の位置づけを解釈し直すことでなされる。この想像力のもとでは、「何が正しいことかわからない、誰も教えてくれない不透明な世の中で、他者と関わり、何かを成そうとすれば必然的に誤り、誰かを傷つけて、自分も傷つく」(p.16)ので、何も選択せず、社会にもコミットせず、引きこもる、という発想が生み出される。「古い想像力」とは、そのような考え方を指している。物語作品でいうならば、『新世紀エヴァンゲリオン』が、この「古い想像力」を代表する作品となる。
宇野さんによると、二〇〇一年前後、この「引きこもり」的なモードは弱まっているという。それは、アメリカ同時多発テロ、小泉政権における構造改革、「格差社会」意識の浸透などによって、「引きこもっている」だけでは、生き残れないという感覚が出てきたことによる。「ある種の『サヴァイヴ感』とも言うべき感覚が社会に広く共有されはじめた」(p.18)のだ。これが「新しい想像力」である。この想像力を象徴する代表的な作品が『バトル・ロワイアル』だ。「社会が『何もしてくれない』ことは徐々に当たり前のこと、前提として受け入れられるようになり、その前提の上でどう生きていくのか」(p.20)が問題になってきたといえる。
このような「古い想像力」から「新しい想像力」へのシフトに、日本の文化批評はまったく追いついていないというのが、この本の指摘だ。特に、現在の文化批評の代表的な存在である東浩紀への批判は手厳しい。
こんなふうに、若手が登場するとき、上の世代への批判的立場として登場するというのは、この世界ではある意味常套手段であり、それによって論旨が明確になるという面があるが、それにしてもこの言葉の鋭さ・思い切りに、ドキっとさせられる。「わぁ、言っちゃった。すごいな。」という。
本人たちは交流もあるようだし、謝辞でも東さんへの言及があるので、そういう意味では心配はないが、ぜひ今後も健全な「議論」の連鎖につながってほしいと思う。東さんがかつて上の世代とドンパチやったように、今度は、下の世代の論敵と、刺激的な議論がなされていくのを、一読者として読んでみたいという気持ちがある。
それと同時に、宇野さんの次の本が楽しみだ。「敵」(批判する相手)が明確で、そこに上下差があると、新人登場の「物語」としてこれほどわかりやすいものはない。文脈が明確で、論が立てやすい。そして、チャンピオンへ挑む若手というのは、いつの時代もどんな分野でも、周囲の共感・応援が受けやすい。ほほえましく思われる。だけど、問題はその次だ。二度目も同じ手で行くわけにはいかない。さらに、今後チャンピオンと並んだとき、あるいは追い抜いたとき、倒すべきライバルがいない状況で、どのような論が展開できるのか。そこが本当の勝負どころであり、楽しみなところだ。登っているときは人は意外と強い。登りつめてしまったとき、そこからがきついのだ。その意味で、東さんも、宮台さんも、大澤さんも、大変なんだと思う。もはやそういう自分との戦いの領域に入っているからだ。それでも、本を書き続けている。このことが、僕にはとてもすごいことに思えてならない。
■断片化(島宇宙化)する社会のなかで
最後に、「島宇宙化」し断片化した社会において、重要なのがコミュニケーションだ、という宇野さんの指摘を取り上げたい。だからこそコミュニケーションのあり方を考えるべきだ ――― これについては、僕も同感だ。この本では、そこから先はほとんど論じられていないが、ここから先が僕の研究に関係してくる。
現在、僕が執筆している本『「想像の圏外」を想像する』(共著)の視点に通じるものがある。僕らは、宇野さんのように物語作品との関係ではなく、それを社会現象と結びつけて考えているので、まさに上の指摘の点から僕らの論が始まるのだ。ただし、僕らの場合は、排他性によるネガティブな視点ではなく、リアルな社会におけるコミュニティ形成のあり方を考えている。実はこの本、ここ2年くらい断続的に書いていてなかなか終わらないのだが、この夏にはケリをつけたいと思っている。そういう意味で、僕より若い宇野さんの『ゼロ年代の想像力』から、刺激と元気をもらった気がする。
『ゼロ年代の想像力』(宇野常寛, 早川書房, 2008)
具体的な物語のところは飛ばし飛ばし読んだものの、一気に最後まで読んだ。文章もしっかりしていて読みやすく、期待の若手という感じだ。最近の批評と違って、僕でも知っている有名な漫画やドラマが取り上げられているので、その意味でも身近に感じた。
僕は、個人や社会のもつ「想像力」に興味がある。いま書いている本にも想像力に関するものがあるので、書店でこの本を見たとき、まずタイトルに惹かれて手に取ってみた。すると、いきなり最初から、日本における批評の現状を鋭利な言葉でぶった切っていた。これはただごとではないな、と思った。
「残念だが、二〇〇一年以降の世界の変化に対応した文化批評は国内には存在していない。それは現在、批評家と呼ばれるような人々が、この二〇〇一年以降の世界の変化に対応することができずに、もう十年近く、国内の『批評』は更新されずに、放置されていたのだ。」(p.12)
「端的に本書の目的を説明しておく。まずは九〇年代の亡霊を祓い、亡霊たちを速やかに退場させること。次にゼロ年代の『いま』と正しく向き合うこと。そして最後に来るべき一〇年代の想像力のあり方を考えることである。」(p.12)
宇野さんは、1978年生まれということで、僕よりも4歳下にあたる(この本で批判の対象となる東浩紀さんは1971年生まれ、つまり僕は二人の真ん中に位置する)。そういう下の世代が、上の世代が考えたり論じたりしていることは時代遅れだ、と指摘しているのを読むと、ドキっとする。自分はどうだろうか、と考えてしまう(もっとも、この本で指摘されている「時代遅れ」の考え方は、僕はとっていなかったが)。
この本では、1990年代の「古い想像力」と、2000年代(つまりゼロ年代)の「新しい想像力」を比較しながら、時代がシフトしていることを描き出そうとしている。これは、物語作品の批評という点からだけでなく、社会論として読んでも興味深い。
■「古い想像力」と「新しい想像力」
宇野さんが指摘する「古い想像力」と「新しい想像力」について、紹介しておこう。
まず、「古い想像力」というのは、「九〇年代後半的な社会的自己実現への信頼低下を背景とする想像力」(p.15)である。そこでは、アイデンティティの拠り所が、「~する」「~した」という「行為」に結びつけられるのではなく、「~である」「~ではない」という「状態」に結びつけられる。そのため、問題に対する解決は、行為によって状況を変えることでなされるのではなく、自分の位置づけを解釈し直すことでなされる。この想像力のもとでは、「何が正しいことかわからない、誰も教えてくれない不透明な世の中で、他者と関わり、何かを成そうとすれば必然的に誤り、誰かを傷つけて、自分も傷つく」(p.16)ので、何も選択せず、社会にもコミットせず、引きこもる、という発想が生み出される。「古い想像力」とは、そのような考え方を指している。物語作品でいうならば、『新世紀エヴァンゲリオン』が、この「古い想像力」を代表する作品となる。
宇野さんによると、二〇〇一年前後、この「引きこもり」的なモードは弱まっているという。それは、アメリカ同時多発テロ、小泉政権における構造改革、「格差社会」意識の浸透などによって、「引きこもっている」だけでは、生き残れないという感覚が出てきたことによる。「ある種の『サヴァイヴ感』とも言うべき感覚が社会に広く共有されはじめた」(p.18)のだ。これが「新しい想像力」である。この想像力を象徴する代表的な作品が『バトル・ロワイアル』だ。「社会が『何もしてくれない』ことは徐々に当たり前のこと、前提として受け入れられるようになり、その前提の上でどう生きていくのか」(p.20)が問題になってきたといえる。
このような「古い想像力」から「新しい想像力」へのシフトに、日本の文化批評はまったく追いついていないというのが、この本の指摘だ。特に、現在の文化批評の代表的な存在である東浩紀への批判は手厳しい。
「東浩紀の九〇年代における活動の集大成的な著作『動物化するポストモダン』(二〇〇一/講談社現代新書)は批評の世界を大きく切り開くと同時に、大きな思考停止をもたらしている。」(p.36)
「『セカイ系』という言葉が発案されたのは二〇〇二年、インターネットのアニメ批評サイトでのことだったが、この時期既に『セカイ系』的想像力は時代遅れになりつつあったと言っていい。しかし『オタク第三世代』を中心に、消費者の急速な高齢化がはじまっていた美少女(ポルノ)ゲームや一部のライトノベルレーベルといった特定のジャンルでは、九〇年代的な想像力の残滓として『セカイ系』が生き残り続け、東浩紀はそれを『時代の先端の想像力』として紹介したのだ。そしてサブ・カルチャーに疎い批評の世界は、東浩紀の紹介を検証することなく受け入れ、かくして、既に耐用年数が切れた古いものが新しいものとして紹介され、本当に新しいものは紹介されず、この国の『批評』は完全に時代に追い抜かれたのである。」(p.31)
こんなふうに、若手が登場するとき、上の世代への批判的立場として登場するというのは、この世界ではある意味常套手段であり、それによって論旨が明確になるという面があるが、それにしてもこの言葉の鋭さ・思い切りに、ドキっとさせられる。「わぁ、言っちゃった。すごいな。」という。
本人たちは交流もあるようだし、謝辞でも東さんへの言及があるので、そういう意味では心配はないが、ぜひ今後も健全な「議論」の連鎖につながってほしいと思う。東さんがかつて上の世代とドンパチやったように、今度は、下の世代の論敵と、刺激的な議論がなされていくのを、一読者として読んでみたいという気持ちがある。
それと同時に、宇野さんの次の本が楽しみだ。「敵」(批判する相手)が明確で、そこに上下差があると、新人登場の「物語」としてこれほどわかりやすいものはない。文脈が明確で、論が立てやすい。そして、チャンピオンへ挑む若手というのは、いつの時代もどんな分野でも、周囲の共感・応援が受けやすい。ほほえましく思われる。だけど、問題はその次だ。二度目も同じ手で行くわけにはいかない。さらに、今後チャンピオンと並んだとき、あるいは追い抜いたとき、倒すべきライバルがいない状況で、どのような論が展開できるのか。そこが本当の勝負どころであり、楽しみなところだ。登っているときは人は意外と強い。登りつめてしまったとき、そこからがきついのだ。その意味で、東さんも、宮台さんも、大澤さんも、大変なんだと思う。もはやそういう自分との戦いの領域に入っているからだ。それでも、本を書き続けている。このことが、僕にはとてもすごいことに思えてならない。
■断片化(島宇宙化)する社会のなかで
最後に、「島宇宙化」し断片化した社会において、重要なのがコミュニケーションだ、という宇野さんの指摘を取り上げたい。だからこそコミュニケーションのあり方を考えるべきだ ――― これについては、僕も同感だ。この本では、そこから先はほとんど論じられていないが、ここから先が僕の研究に関係してくる。
「私たちはたしかに自由を手に入れた。価値観を有し、同じ小さな物語を生きる人々を検索し、その島宇宙の中で信じたいものを信じて快適に生きていくことが可能のように思える。だが、インターネットは検索して、棲み分ける道具であると同時に、世界をつなぐ道具でもある。本来なら出会わなかったかもしれない小さな物語たちが、ウェブという同じ空間に並べられることで接してしまう。よりマクロな次元では小さな物語たちは棲み分ける一方で、ソーシャルネットワーキング・システムのコミュニティのように同じウェブという空間に並列されてしまう。そして異なる小さな物語が同じ空間に並列されることによって、それぞれの小さな物語はその正当性の獲得と自己保存のために、内側に対してはノイズを排除する力が働き、外側に対しては他の物語そのものを否定する力が働く。匿名掲示板、ブログサイトの『炎上』、『学校裏サイト』------小さな物語は他の小さな物語を排斥する排他的なコミュニティとして私たちが生きる世界のあらゆる場面を覆っているのだ。」(p.38)
「自己像の承認を暴力的に要求するのではなく、コミュニケーションによってその共同体の中で相対的な位置を獲得することへ------大きな物語が失効し公共性が個人の生を意味づけない現在、私たちは個人的なコミュニケーションで意味を備給して生きるしかない。だが、これは同時に私たちが生きるこの社会は、すべてがコミュニケーションによって決定されるつつある、ということだ。そして、公共性が個人の生を意味づけない社会に生きる私たちは、コミュニケーションから逃れられない。」(p.316)
「必要なのは、不可避の潮流に目をつぶり、背を向けて引きこもることではない。受け入れた上でその長所を生かし、短所を逆手にとって克服することだ。つまり、どのようなコミュニケーションこそがあり得る形なのか ――― それが現代を生きる私たちの課題として浮上してくる。」(p.317)
現在、僕が執筆している本『「想像の圏外」を想像する』(共著)の視点に通じるものがある。僕らは、宇野さんのように物語作品との関係ではなく、それを社会現象と結びつけて考えているので、まさに上の指摘の点から僕らの論が始まるのだ。ただし、僕らの場合は、排他性によるネガティブな視点ではなく、リアルな社会におけるコミュニティ形成のあり方を考えている。実はこの本、ここ2年くらい断続的に書いていてなかなか終わらないのだが、この夏にはケリをつけたいと思っている。そういう意味で、僕より若い宇野さんの『ゼロ年代の想像力』から、刺激と元気をもらった気がする。
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