風と窓:近未来からの生活情報メディア史(1991)
 
序論
1. 狂気に潜む正気 サイバーリアリティと<いま>の小説
2. トリックの解法:ルールとルーツ
3. がらくたのウィンドゥ:TVと”孤独な群衆”
4. 細やかなネットワーク 電話と”家族解散”
5. わがもの顔のポップメディア AVと”ハッピークエスターズ”
2.トリックの解法:ルールとルーツ

親族と伝統的なコミュニティの消滅、それと表裏一体の関係にある都市化の浸透、そのドラスティックな社会変動をもたらしたテクノロジーの驚異的な革新と大量生産=大量消費の市場経済システム、そしてそれらの社会構造を正当化する新しい価値観(手段的活動主義:真面目に、無駄なく、我慢して、大きく)、それらはかつての自明であった可視的で狭い伝統的な生活世界の境界を無慈悲に解消し、人々を強迫的に広大で不可視的な世界へと放り出していった。

そのとき、人びとは2つの可視的な小世界にリアリティを求めた。 それが「ビューロクラティックな企業組織」と「核家族」である。

しかしこの2つの世界は、すべての人々が共有する世界ではなく、性の分化に対応して専有された歪んだ世界であった。男は「オーガニゼーションマン」として、企業組織にリアリティ(男らしさ)をみつけ、女は「専業主婦」として核家族に自分のリアリティ(女らしさ)を発見した。男が家庭に自分らしさを求めることはタブーであったし、女が組織に自分らしさを期待することはなかった。それぞれの世界を専有することが、手段的合理主義の思想と「分化と統合」の社会的メカニズムをもつ『産業社会』の要請であった。

産業社会は、その活動主義によって、「明日は今日よりも大きくなければならない」と迫る、社会変動を常態化させた社会でもあった。その場合、大きな社会変化をリードしたのは企業組織であり、核家族はそれをフォローする役割を期待されていた。ここから階層的なメカニズム(組織=上位、核家族=下位)が作動した。男と女の性差が単なる機能上ではなく、勢力上のテーマとして社会問題とされるのは、この階層性が社会的に正当化されていたからである。組織人(男らしさ/働く)と生活者(女らしさ/やすらぎ)が階層的で機能的なセットを構成したとき、そこに日常的な社会秩序が形成維持された。

この秩序とは対照的に、日常的には「社会的逸脱」のレッテルが貼られるが、非日常的には許容される社会領域があった。それが「遊び」であり、そこに幻のリアリティを求める人を「大衆(孤独な群衆)」と呼んだ。大衆(消費)社会論とは、遊び領域の日常化(”許容”された逸脱としての正当化)を、「核家族領域(=生活者)への遊び(=大衆)の浸透と融合のプロセス」として理解しようとした社会逸脱=変動論であり、産業社会論とは光と影の関係にある現代社会論であった。情報化は、その影に忍び寄り、光の窓に吹き込む新しい風になった。