風と窓:近未来からの生活情報メディア史(1991)
 
序論
1. 狂気に潜む正気 サイバーリアリティと<いま>の小説
2. トリックの解法:ルールとルーツ
3. がらくたのウィンドゥ:TVと”孤独な群衆”
4. 細やかなネットワーク 電話と”家族解散”
5. わがもの顔のポップメディア AVと”ハッピークエスターズ”
4.細やかなネットワーク 電話と”家族解散”

パーソナルメディアのトップランナーは電話であった。電話はリアルタイムのメディアであり、だからこそ「淋しさ」をいやす友達にもなり、同時に冷めた便利な道具にもなる。このように両義的なメディアであるにもかかわらず、電話の普及プロセスが企業組織から始まったために、電話は用事を足すに便利な道具であるという「手段的な価値」によってのみ社会的に承認されるメディアになってしまった。手紙などの活字メディアにはないリアルタイム性は、電話の手段的・道具的価値を最大に発揮するユニークネスとなり、電話は組織の間で圧倒的な支持を得た。

ここから、電話は便利な道具だ、という神話が形成された。
しかしそれは組織が産んだ奇妙に歪んだ神話にすぎなかった。

電話が核家族のメディアとして浸透し始めると、電話の手段的な価値はだんだんに萎み、コンサマトリー価値(用事ではなく、話すこと自体が意味を誘発する)が膨らんできた。確かに最初のうちは、電話は夫や子供が「外から」家を守る妻=母にかけるメディアであった。それは道具としての電話(これから帰る、食事の用意を頼む!)であり、ここでは電話は核家族の統合メディアとして機能していた。外にいる家族メンバーを核家族の枠の中に入れ、そこでの絆を確認するために、電話はあった。

しかし女(家にいても、妻でもなく、母でもない!)や子供が「内から」外の友人に向って長電話(夫はできない!)をするようになったとき、かつての神話は空しく崩壊し、同時に核家族の枠と絆が緩み始めた。
電話はもはや核家族の統合メディアではなくなった。

メディア特性からすれば、音声だけに依存するコミュニケーションはとても「あいまい」で、用事の手段としては不適切である。リアルタイム性ではなく、正確性を考慮すれば、電話のファジィ性は致命的な欠陥である。だからファクス電話が組織で普及したのである。活字メディアとのマルチ化によって、電話はやっとまともな道具になった。

それまでは妥協していたにすぎない。

音声に依存するファジィ性は「無意味な会話を長い時間楽しむ(淋しさや退屈な気分を忘れるために!)女(の子)たちのオモチャ」として最適であった。電話はオモチャになることで、かつての神話からもっとも遠いところに到達し、新しい価値を生成した。その結果、家庭は、核家族の枠を超えた「遊び(=淋しさの裏返し)の受発信情報基地」を取り込むことになった。新しい電話の価値は、核家族の<枠と絆>を超える衝撃をもたらした。

恋人同志の長電話が、二人の帰属する家族からの離脱をシンボリックに表現しているように、女や子供の長電話も<核家族の枠と絆>への疎ましさの表明であった。

夫だけがまだ核家族の枠と絆にこだわっていた。

電話の家庭生活への浸透つまり遊び情報の基地化は、核家族を超えたパーソナル・コミュニケーションを許容し、その結果いままでの核家族の堅い枠をあいまいにし、家族の絆を柔らかなものにしていった。それはもはや核家族ではなかった。「粒子家族」と呼ぶほうが、”らしい”のではないか。ここではあいまいな枠と柔らかな絆を前提とした家族役割のこまやかな演技が期待されていた。

もう誰も擦り切れてしまった過去の台本を信じることはできなくなっていた。