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3.がらくたのウィンドゥ:TVと”孤独な群衆”
情報化社会のメディア論は脱活字メディアから始まる。その先頭をきったのがマスメディア(テレビ)である。テレビの登場は、産業社会の影であった大衆消費社会に脚光を浴びせ、その後に続く情報化社会の原初形態を生成したという意味で衝撃的である。当時マスメディアはコミュニテイを喪失した「孤独な群衆」を慰める疑似的な社会統合メディアだ、という解釈が一般的であったが、<いま>からすれば、テレビが核家族に侵入し「生活者」の価値体系に大きな衝撃を与え、核家族の基本構造を変容させた事実をより重視すべきだろう。統合ではなく、交響(?)メディアの座標軸が問題である。
テレビは最初その”いかがわしさ”のために、社会的にマージナルな領域(街頭など)にあって「孤独な群衆」のための”がらくた”メディアとして誕生した。しかし、そこでの熱狂的な支持は、がらくたでいかがわしいメディアであっても、マージナルな逸脱空間に封じ込めることからは解放すべきだ、とアピールした。この期待に応えたのがハレのイベント=儀礼で、それはテレビがその実況中継に最適なメディアであること承認することで、テレビに社会的な正当性を付与した。これによって、テレビは新聞と並んで核家族の生活世界に一気に浸透し、しかも新聞にはない強烈な映像力によって新しい情報環境を創出していった。それまで家族メンバーの役割関係だけが核家族を構成するリアルな情報空間であったところに、社会のがらくた情報が無理やり侵入し、非家族的な情報空間を成立させていった。スポーツ中継(夫)とソープオペラ(妻)そしてアクションドラマ(子供)は、テレビがもたらした最高のがらくた(娯楽)であった。
しかしそこでは、家族メンバーの対面的で双方向的なコミュニケーションとマスメディアからの間接的で一方向的なコミュニケーションとの間には質的な差異が設定されていた。生活者は、対面的なコミュニケーションは本物でリアルな情報で、マスメディアからの情報は疑似情報にすぎないはずだと考えた。しかしたとえ疑似情報ではあっても、情報メディアが核家族に侵入し、家庭内の役割関係の情報空間とは全く異質な社会的な情報環境を創出したことは重要な意味をもっていた。
しかもその情報環境が《娯楽というがらくた》であったことは、核家族が、いままでの産業社会の家庭(夫の仕事の疲れをいやす<休息>の場)のように、企業組織に従属する補完的な場ではなく、日常化した遊びレジャーと社会情報を自由に享受する場に変容したことを意味した。テレビの社会的な認知は、情報化社会を睨んだ情報基盤整備が家庭生活において急速に進行することを承認することであった。
こうしてテレビは、情報化社会へのトリガーとなり、同時に核家族の構造を変化させる脅威的なメディアになった。
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