ネットワークイデオロギー
-Network ideology-
21世紀の最初の10年は、 ネットワーク環境の基盤整備にして、
現代社会が大きく展開する時代である。
本論ではネットワークがもたらす社会生活面での影響について考える。
1. 恋愛至上主義と核家族
2. 第3の絆
3. 脱境界の思考:覗きと露出
4. 豊かさの思考:情報共有
5. ボランティアの思考:情報探索と情報支援
6. 小さな公共性の思考:自己責任と相互了解
7. ネットワークイデオロギー
6.小さな公共性の思考:自己責任と相互了解

ネットワークでは無数の知らない人とのコミュニケーションが基本である。この場合知らない人とのコミュニケーションを支える信頼(社会的正当性/公正)の根拠はどこにあるのだろう。そこで信頼の根拠を既存のコミュニケーションとの比較で考える。

まずみんなが知り合い同士の昔のコミュニティ、原理的にはパーソナルコミュニケーションの世界では、身体的な接触を伴った知り合いという日常的な事実(「いま」と「ここ」の共有)が相互の信頼を成立させる根拠になっている。だから、知り合いの関係なのに、もしも信頼を損なうような事件(相手の予期を裏切る行為)を起こせば、その人は知り合いの関係から排除され、法外者としてコミュニティから排除される。だから信頼は知り合いという日常性にすでにセットさせている。だから知らない人は信頼されず、未知なる人とのコミュニケーションはここでは成立しない。

つぎにマスコミュニケーションの時代になって、はじめて一方的にしか知らない関係がうまれ、スターと大衆の関係のように、知られている人(だがこのスターは相手を知らない)と知られていない人(大衆というスターを知っている人)という関係が発生した。ここでは知られているスターは大衆を知らない人で、知っている大衆は知られていない人という歪んだ関係になっている。このような一方的な認知と場の非共有(テレビなどのマスメディアでしか会えない)という状況のなかで、相互の信頼はいかにして生成されるのか。ここではスター(それを支える大組織)という情報発信サイドが所有する「権威」が大衆からの盲目的な依存(価値委託)を誘発するのである。この階層的な関係そのものに潜む権威が放つオーラに、大衆は価値(貨幣・権力・威信・尊敬)を無条件で譲渡する。こうしてマスコミュニケーションのなかでは権威による信頼関係が形成される。マスメディアは権威そのものである。

さらにサブカルチャーの時代になると、どうなるのか。いわゆる「おたく」のコミュニケーションを支える信頼の根拠が問題になる。ここでは似たもの同士の共感という関係が信頼をもたらす。サブカルチャーという特殊なコミュニティメディアを通して知り合うことで、外部に対して閉じたところから発生する自分たち固有のジャーゴンを用いることで、自分たちだけにしか理解しえない密室的な共感をもとに、信頼が生成される。おたくはこの独自の共感をもとに信頼関係を築き、だからこそその領域に閉じこもることで、自由なコミュニケーションを相互発信させるのである。

このように信頼をもたらすキーコンセプトは、日常性(身体的な接触)・権威(大きいこと)・共感であるが、ネットワークの世界では、なにが信頼を呼ぶのであろうか。ここではお互い知らない同士である。知らない者同士がいかにして信頼関係を築くことができるのであろうか。結論は「できない、だから自己責任」である。つまり知らない同士であるから、知り合いの裏返しで、裏切られることを自明として関係を形成するしかなく、また同時に探索ー支援の関係が優先されるとしても、未知の人からの支援は、相手の優しさではなく単純にシステム(支援はエイジェントの探索の結果にすぎない)に依存するものであるから、支援情報の評価はすべて自分の自己責任においてなされなければならない。つまり自己責任がルールとして確立されていないと、裏切られたなどの無用な騒ぎになるので、そういった無用な情報が支援として飛び込んでくるという認識のもとで、その混交玉石の情報の束のなかから自分に必要な情報を選択することが自己責任において実行されないかぎり、ネットワークはうまく作動しない。とすれば、自己責任のルールによってのみしか、知らないもの同士の信頼関係は生成されえない。かくしてネットワークは信頼関係の根拠を自己責任に求める。ネットワークがボランティアの精神を求めるのと同時に、そこでは自己責任のルールも十分に了解されなければならない。ここは甘い世界ではない。

しかし自己責任はある意味では究極の「オタク」である。信頼の根拠が自分だけだとしたら、そこには社会に支えられる正当な根拠はない。社会的な正当性は自己責任を超越する論理を必要とする。それが「相互了解プロセス」である。自己責任に基づく社会認知には、相互性の契機が欠落しているから、そこを埋めなければならない。そうしないかぎり、正当化された社会関係は生成されない。そこで期待されるのが相互了解のコミュニケーションプロセスである。個々の自己責任による異なった社会認知は、相互コミュニケーションによって、各主体には自己超越(自己変革)をもらたし、社会関係としてはなんらかの相互理解に到達するというプロセスをもたらす。そこで合意/了解されたとき、自己責任は社会関係のなかで正当化される。しかもこの了解は、あくまでも小さな(限定空間における)公共性にすぎず、相互了解の外部にある大きな(客観的/つまり空間超越的)公共性ではない。ネットワーク環境では、このような大きな公共性はもはや期待できないので、無数の小さな公共性のさらなる相互了解プロセスが、大きな公共性に代替するものとして必要とされる。こうしてネットワーク社会の社会的な正当性(公正の根拠)は、自己責任と相互了解プロセスの融合と拡散のなかに見いだされる。