2005年8月アーカイブ
夜中の12時過ぎにサンフランシスコからワシントンDCに着いた。ホテルに着いたのは1時半。何でこんなフライトなんだ。旅程は人任せにしてはいけないことを痛感。
シリコンバレーではInstitute for the Futureなどを訪問。旧知のアンソニー・タウンゼントにも会えた。ニューヨークから移ってきてハッピーそうだ。
Institute for the Futureはアムトラックの線路を挟んでスタンフォード大学の反対側のパロアルトにある。そこで見かけたのがこの車。Geek Squadは最近テレビコマーシャルもやっているパソコンのお助け隊。ビートルにこんなステッカー貼ってしまうとは儲かっているのだろうか。
夜は思い切ってサンフランシスコ・ジャイアンツの試合を観戦。こういう楽しみもないと出張はやってられない。しかし、ベリー・ボンズはケガで欠場中。隣の熱狂的ファンがずっと嘆いていた。
ところで、サンフランシスコのホテルをチェックアウトするとき、「あなたの名前好きです」と初めてアメリカ人に言われた。衝撃的だった。私の名前はアメリカ人にとっては長すぎるし発音しにくいのですぐに覚えてもらえることはない。絶望的といえるほど損だ(taiyoはまだ覚えやすい)。しかし、このホテルマンはマンガのAKIRAを読んでいて、鉄雄が好きなのだそうだ。普通は発音しにくい「TSU」の音にひかれてしまったらしい。日本のゲームメーカーで働くのが夢とか。おもしろいものだ。
飛行機の機内のカタログ雑誌に出ていた写真。「BASHO」君というらしい。「バショー」なのか「バショ」なのか。いずれにしても変。庭の置物にするらしいが、買う人いるのだろうか。Japan Coolとはこんなものか。
冬のウェリントンから夏のサンフランシスコへ。しかし、サンフランシスコは肌寒い。時差は19時間かな? ぐっすり眠ろうと思って夕食にビールを飲んだら、部屋に着いたとたんに倒れ込んでしまう。そのまま朝まで眠れればいいのだが目が覚めてしまい、完全に時差ぼけになった。西回りのほうが楽だといわれているが、今回はずっと東回りなので厳しい。
昼間ぶらぶらした感じでは5カ月ぶりのサンフランシスコはあまり変わらない。相変わらず気持ちのいいところだ。インターネットで距離の暴力が消滅したといわれたが、世界にはやはり人気のある都市が存在する。リチャード・フロリダの『The Rise of Creative Class』を読んでみると、地理がいまだに重要だと言っている。新たに台頭しているクリエイティブ階層は仕事がある場所に(いやいや)住むわけではなく、住みたい場所で仕事を探すことができるという。
昨日は政府関係者と面談する。remote, small, but smartな国になるための戦略を聞く。
メインストリートは普通に賑やかだ。ケーブルカーが走っているためワイアが張り巡らされている。
夜はたまたま開かれていたラグビーの試合を見に行く。繁華街は端から端まで30分なので、そのすぐ外側にあるスタジアムまでも歩いていける。チケットもスタジアムで並ぶだけで買える。しかし、地元チームのライオンズが弱すぎる。先制の3点の後は全く点がとれず、最後の5分まで26対3。最後にトライとゴールを決めるものの26対10。残念。
今日は土曜日なので観光しようと思ったが、朝から激しい風と雨。Windy Wellingtonならではだ。午後から晴れ間がのぞいたのでCuba Streetという繁華街をぶらぶらする。カフェが多いとは聞いていたが、他に本屋と旅行会社が多い。娯楽がないから読書が人気だと地元の人が言っていた。また、成人するとみんな世界中に旅行するのも伝統だそうだ。
こんなお店もあった。寿司屋もけっこう多い。
これはどこかの国の人には読めるのだろうか?
ニュージーランドの首都ウェリントンに来た。夕方6時半に成田を発ち、機内では調子に乗って本を読んでいたのだが、乗り換えのオークランドに着いたのは日本時間で朝5時。11時半(日本時間8時半)にウェリントンに着き、寝不足と昼食抜きのまま午後のアポをこなす。気温は16度で東京の半分だ(南半球は冬だから暖かいともいえる)。
辺境の国といっては失礼だが実におもしろい。ウェリントンは市街地の端から端まで30分で歩けるといわれていて、小さな港町だ。取り囲む山に住宅地が広がりつつある。オーストラリア以外の世界のどの地域からも遠いこの町に映画をはじめとするクリエイティブ産業が勃興しつつある。ロード・オブ・ザ・リングスの監督ピーター・ジャクソンがこの町出身のため、第3部のワールド・プレミアもここで開かれた。イギリスの伝統とマオリの伝統がミックスされたところでアートが花開いている。そしてITがこの辺境の地にもチャンスをもたらしている。
疲れていて写真を撮り忘れたので今日は撮ろう。
今日は午前中に潜水艦と護衛艦の内部を見学。当然のことながら写真撮影は制限されているが、見られるだけでもいい。
潜水艦内部は映画で見るような感じで、パイプやコードなどがむき出しになっている。これはすぐに原因究明・修理ができるようにするためだそうだ。それほど圧迫感はなかったが、やはり狭い。あらゆるものがコンパクトに作られている。特に船室と船室をつなぐドアが密閉できるように小さく作ってあるため、移動がやや大変(もちろん慣れればどうということはないのだろう)。潜望鏡の精度に感心。
護衛艦は、かつて戦艦大和が造られた造船所の隣に停泊していた。140人乗りだが、艦長は全員の名前と顔を覚えているそうだ。艦長の任期は意外に短く、1年から1年半ほどだという。艦長は命令が下ればすぐに出航できるように、港にいるときでも呉から離れられないそうだ。招集がかかれば乗員は1時間で集合し、45分で出航できるようになっている。
なぜ旧海軍は呉に軍港を造ったのか聞いてみると、内海で防衛がしやすく、港の水深が確保されていて、飲み水が確保しやすいからだそうだ。
1泊2日だったが非常に充実していた。現場を見ることで分かることがたくさんある。自衛隊と聞いて眉をひそめる人もいるが、現実に存在しているものだし、その実態を見ておくことは議論をする上でも重要なはずだ。
江田島の後、対岸の呉で大和ミュージアムを見学。呉市が戦後60年をねらって建てたミュージアムだ。目玉は戦艦大和の10分の1の模型。けっこうな迫力だ。上のフロアに行くと宇宙戦艦大和の展示コーナーもある。
このミュージアムには50万人も訪れたそうだ。日本は右傾化しているのか……な。
広島の江田島に来た。海上自衛隊の第1術科学校があり、旧海軍兵学校があったところだ。
この煉瓦はその昔ロンドンからわざわざ取り寄せたそうだ。さわるとツルツルしている。
若き自衛官たちは五省で一日を振り返る。
これが有名な教育参考館。残念ながら内部は撮影不可。東郷元帥やネルソン提督の遺髪まで保存されている。
F君が見上げるのは戦艦陸奥の主砲。とにかくでかい。
江田島自体は思っていたよりも大きい。海軍兵学校はもともと東京にあったそうだが、都心の繁華街を避けるために江田島に来たという。
江田島は第二次世界大戦の際にも米軍は直接攻撃せず、戦後はしばらく米軍に接収されていたため、建物もよく残っている。戦前の状態を知るには格好の素材といえるだろう。
朝10時から夜12時までの激論。まだ終わらない。ワイン入ってしまったのがいけないね。
昨年11月からすでに3回目となる湘南国際村での合宿。夜10時過ぎまで議論の後、突如乱入してきたOさんに率いられ、別のOさん、Fさんと夜釣りに出かける。釣りなんて久しぶりだ。
Oさんはベテランらしく、車の中に何でも入っている。竿から仕掛けから全部用意していただき、防波堤から投げ釣りをすると、小さな、アジが1匹、ゴマサバ4匹、正体不明が2匹釣れる。いずれもとても小さい。写真は二人目のOさんがつり上げたゴンズイ。これは猛毒らしい。実に危ない。
夜中2時半に宿に戻る。けっこう楽しかった。しかし、明日の議論は大丈夫なのだろうか……。他の連中はどこかの部屋で飲みつぶれているに違いない。
明日(4日)から10日まで夏休みをとります。申し訳ありませんが電子メールは読みません。あしからず。11日から13日までは学事関係の合宿なので、メールの返事はけっこう遅くなると思います。ごめんなさい。
10年以上も電子メールを使ってきて、そろそろ飽きてきました。処理できる能力を超えつつあります……。
研究会の合宿で御嶽山に行く。宿にたどり着くにはケーブルカーに乗らなくてはならない。
山頂には御嶽神社がある。
朝5時から滝行に参加した勇者7人(私は遠慮した)。右端は駒鳥山荘のご主人(ブログでも紹介されている! 御世話になりました)。駒鳥山荘は安永5年(1776年)創業で、現在のご主人は17代目。今年5月に青梅で初めて光ファイバーを入れたとのこと。山の上で軽快なネット接続が可能。