2008年3月アーカイブ
5日目の朝、メールを読もうとMITまで出かけると、Kenneth Oye教授に会った。Oye教授とは1月に東京で会っている。Cooperation under Anarchyの研究で知られており、私がMITで所属する研究所の前所長でもある。今は技術と国際関係に関するプロジェクトを展開しており、それに私も少し参加させてもらうことになっている。Oyeという名前はおそらく「大家」で、日系の先生なのだが、日本語はほとんどお話しにならない。
Kendallの駅を見晴らす眺めの良いOye教授の部屋で少し話をして、生活の立ち上げがまだ十分できていないと言ったら、今から買い物に行こうと言ってくださる。しかし、平日の昼間から買い物に行ったら仕事に支障が出るのではないかと言ったら、どうやら今はイースターホリデー期間らしく、大学はお休みモードなのだそうだ。各所の事務部門は開いているので気づかなかったが、授業は行われていないらしい。メールを読み終わる前にせかされるように買い物に行くことになった。
教授のスバル・レガシーに乗り、私の自宅で妻を乗せてから、日本食を売っている郊外の店へ向かう。途中、Porter Squareというところで日本食を売っているお店と小さなレストランが集まっていると教えてくださったが、そこはちょっと高いらしい。そこから少し離れたところにあって、車がないと行けないReliable Marketというお店が目的地だ。韓国系のお店だが、日本の食材はほぼ完璧に揃っている。ワシントンDCの日本食材店よりも豊富だし、賞味期限が切れていない。たぶん入手できないだろうなと思っていたしゃぶしゃぶ用の薄い肉まで売っている。ケンブリッジはあなどれない。外国に住むとにわかナショナリストになってしまうことが多いが、そんなときは日本食を食べて元気を回復しよう。
もう一軒行こうと連れて行ってくださったのがポルトガル・パンの店Central Bakery(732 Cambridge Street, Cambridge, MA 02141)である。実に地味な構えで、紹介がなければ入る気のしないお店だ。ポルトガル特製のコーン・ブレッドという大きなパンがおすすめらしい。私たちの次の客は大量に買い込んでいる。レストランで出しているらしい。帰宅してから食べてみると、外側はカチカチに固いのだが、内側はもちもちしていて確かにおいしい。
このパン屋の周辺はいろいろなエスニック系の店が並んでいるようだ。高層ビルが建つボストンからチャールズ川を隔てたケンブリッジ側は、あまり高い建物もなく、田舎町の風情が少し残っているが、なかなか捨てたものではない。大きすぎるニューヨークや、ぎすぎすしたワシントンと比べても、住み心地の良いところに思えてきた。J・K・ガルブレイスの本の中でケンブリッジが良いところだと書いてあるのも分かってきた。世界中から研究者が集まってコスモポリタン的だし、学生・大学院生が多いから活気もある。
ニコラス・ウェイド(沼尻由起子訳)『5万年前―このとき人類の壮大な旅が始まった―』(イースト・プレス、2007年)。
衝撃的な内容だ。われわれの祖先は5万年前にアフリカ大陸を脱出した、たった150人にさかのぼることができるという。その150人は、アフリカ以外の大陸に広がった全ての人の祖先である可能性が高い。当然ながらその150人は一つの言葉を話していたに過ぎないが、5万年の間にわれわれの言葉は複雑に分化して通じなくなり、肌の色も、体格も、別々に進化してしまったという。
トンデモ本と違うのは、近年の遺伝子の分析結果に基づいていることだ。ヒトゲノムのデータ解析が終わったのは2000年であり、それから一気に人類の歴史を分析する作業が始まっている。そしてそこから得られた知見を本書では考古学や歴史学、社会学などの成果とすりあわせを行っている。著者は『ネイチャー』や『サイエンス』の科学記者を経て、『ニューヨークタイムズ』紙の編集委員をしていた。経歴から判断すれば、信頼できる人物ということになるだろう。
ヒトと最も近いのはチンパンジーである。チンパンジーの毛の下に隠されている皮膚は青白い。チンパンジーと分かれる前のヒトの祖先も同じだった。しかし、森の生活を脱して二足歩行をするなど生活環境が変わるうちに、毛がない個体が有利になって(異性へのアピールやシラミが寄生しにくいなど)、自然淘汰が進んだ。そして、アフリカの太陽に対応するために肌の色は黒くなった。その人たちがアフリカ大陸を脱出し、ユーラシア大陸に行った後、西方と東方に分かれ、ベーリング海を渡って南北アメリカ大陸に渡ったり、オーストラリアに渡ったりした。アフリカほど日差しが強くない地域ではビタミンDの合成のために肌の色を薄くする必要が出てきた。東アジアのわれわれのような顔は寒さに対応するために進化したらしい。
その他にもにわかには信じがたい話がたくさん出てくるが、遺伝子の解析を進めていくことで明らかになってきた仮説が興味深く展開されている。例えば、「現在の男性のY染色体はすべて、もとを正せば、供給源はたった1つしかない。つまり、全男性は、人類の祖先集団のメンバーだったたったひとりの男性か、あるいは祖先集団より少し前に生活していたひとりの男性のY染色体を受け継いでいる。これはミトコンドリアDNAにもいえることだ。じつは、現代人のミトコンドリアDNAはみな、たったひとりの女性のミトコンドリアDNAの複製なのである」(70ページ)というのだ。
これは国際政治学にとっても大きなインパクトを持つ話である。人種をめぐる優劣論が倫理的に問題があることは言うまでもないが、科学的にも無意味であることになるだろう。人類は同じ祖先を持っており、遺伝的浮動(世代ごとに遺伝子頻度がでたらめに変化すること)、遺伝子の突然変異、自然淘汰、環境変化とそれへの対応などによって進化し、分化してきた。
科学における理論はなるべく一般的な法則を見つけようとする。社会科学においても、例えば紛争の一般理論のように、世界の人々、国々に共通する普遍的な仮説を求めてきた。しかし、ウェイドの著述を受け入れるとすれば、社会科学における一般理論が成立するのは最初の150人だけであり、それ以降の人類に共通する一般理論を見つけるのは、歴史が下るにつれて困難になる可能性がある。世界に散らばる人類がそれでも同じ性質を保持し続けているなら、そこに一般理論を見つけ出すことは可能かもしれないが、それは望めないかもしれない。
その傍証となるのが言語である。同じ言語をわれわれは話していたはずなのに、敵と味方を区別するために方言を作り出し、それが別の言語へと進化していった(これは今でも行われている。若者言葉を年配者が理解できないのは、若者たちがわざと差別化しようとしているからだ)。元が同じだったとはいえ、現在の6000ほどある言語の中で一般法則を見出すのは困難である。
無論、これは程度問題で、われわれはまだ異人種間でも結婚し、子供を産むことができる。しかし、ウェイドは本書の後半で、人種のるつぼといわれるアメリカでも人種を越えて行われる結婚はそれほど多くなく、ひょっとすると将来は不可能になるかもしれないと示唆している。例えば、人種によって効く薬と効かない薬が出てきている。
そうすると、社会科学における一般理論は、発見するものではなく、構築ないし構成する、あるいは設計するものと考えた方が良いのではないだろうか。われわれは生物的には多様になっている。しかし、グローバリゼーションと呼ばれるコミュニケーション量の拡大は、お互いの知識と知恵を交換・共有することを可能にしている。われわれが共存するためにはどうしたらいいのかということを考えていくことで、人類に共通する一般理論を作っていくほうが望ましいアプローチなのではないだろうか。存在しないものを探すよりも、作ってしまった方が早いというわけである。
いろいろなことを考えさせられる本だった。30年前に書かれたリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』も刺激的だが、その後の成果を織り込んだこの本も刺激的だ。たぶんこの本に対する批判や反論は多くあるだろうが、それも今後の遺伝子の研究によって検証されていくだろう。
ボストンに着いてから生活の立ち上げに追われている。到着の翌日にはヘルスケアのオリエンテーションがあり、アパートの入居手続きをしたり、銀行口座を開設しに行ったりした。3日目は車をレンタルし、家具や生活道具を集める。本当なら家具付きのアパートにしたかったが、ボストンにはあまりないようなので、仕方なく家具なしのアパートにした。
4日目はお世話になる国際関係研究所(Center for International Studies)に行って事務手続きをする。ここは地下鉄レッド・ラインのケンドール駅の上にあり、ビルの1階はMIT Pressの本屋、向かいにはMITの生協があり、絶好のロケーションである。アパートもレッド・ライン沿線なので、地下鉄で15分程度で通える。個室はもらえないが、在外研究の場合はいろいろ教えてもらうために相部屋のほうがむしろ望ましい。同室にはなんと早稲田の教授がいらして、他にインド系アメリカ人の若い研究者がいるらしい。この部屋には窓がないのがさびしい。International Scholars Officeのオリエンテーションに参加すると、私の他に、中国人2人、台湾人1人、韓国人1人、タイ人1人、インド人1人、ブラジル人1人とアジア・シフトが著しい。
問題はこの4日目の午後、発生した。午後1時に約束した家具が届かないのである。MITにはStudent Furniture Exchange(FX)というすばらしいサービスがあって、MITの関係者がいらない家具を寄付し、それを安く再販売している(学生じゃなくてもMITやハーバードなどの関係者は買える)。家具をレンタルすると毎月500ドルぐらいかかってしまうが、FXで最低限必要なものを揃えたら500ドルぐらいで済んだ。新品の家具ではないが問題のない家具ばかりで、500ドル×11ヶ月分浮くのは良い。
問題は配送である。アメリカの配送システムは全く当てにならないことを前回のアメリカ生活で学んでいたので、期待はしていなかったが、やはりうまくいかない。ソファのような大きな家具があると宅配業者ではダメなので、引っ越し業者に頼むのだが、最初は午後1時に持ってきてくれるという話だった。ところが、メールが来て、その日はダメになったので、一日早く持ってきたいというのである。しかし、前の日はレンタカーを予約してあり、各所を回る予定になっていたので、約束の日に持ってきて欲しいと電子メールで返信する。最初はホテルのネットを使っていたが、自宅にはまだ通信回線がなく、3日目にはホテルをチェックアウトしてしまったのでコミュニケーションがとれなくなる。配送当日(4日目)の朝、MITでメールを開いてみると、午後遅くに配送すると連絡がきた。とにかく電話がないので、ずっと部屋にいるから持ってきてくれと返信し、すぐにアパートに戻る。
午後遅くと書いてあったので、1時に持ってきてくれるということはないだろうと思い、本を読んでいたが、時差ぼけのせいか、昼寝をしてしまう。目を覚ますと午後4時で、まだ来ない。アパートの管理人のところに行ってきいてみるが、まだ何も連絡はないという。ああ、まただめかと思ったが、日本のようには行かないなと思ってあきらめ気分になる。
アパートの窓から外を見ると、帰宅ラッシュが始まり、大渋滞になっている。幹線道路に出るための道が混雑し、クラクションを鳴らす車も多い。ニューヨークほどではないが、ボストンの人たちはワシントンDCや西海岸と比べて割とクラクションを鳴らすような気がする。渋滞の車を上から見ているのはけっこう楽しくて時間が早く過ぎていく。今日は家具は届かないかなあと思っていたら、午後7時半になってトラックがゆっくりとアパートの前に止まった。FXから家具を運び出してから、部屋の中に設置するまで2時間半かかったらしく(そりゃ渋滞の中を走って来ればそうなるわな)、時間制の配送料はかさんでしまったが、その日のうちに到着しただけでも良しとしよう。
ここまで数日経ってみて、2001年にワシントンDCに行ったときよりも、格段にスムーズに事が進んでいる。2回目ということもあるだろうし、私の英語が少しましになったこともあるかもしれない。ワシントンDCよりもボストンが効率的とは考えにくいが、それもあるかもしれない。しかし、たぶん、ITを使って生産性が上昇しているのではないかという印象を受ける。特に大きな組織は改善しているように見える。入居したアパートの管理会社は手広く多くのアパート管理をしていて、賃貸料はアメリカではめずらしく銀行引き落としができるようになっている。補修などのリクエストもウェブで予約できるようになっているのは新しい。銀行口座の開設では、コンピュータの端末を目の前で担当者と一緒に操作しながら各種情報を入力し、その日のうちに一時的に使えるATMカードと小切手をもらうことができた。同じ銀行で2001年に口座開設をしたが、その時は1週間かかった。MITの一連の登録作業も効率的で、私のデータベース情報が一元化されていて、ペーパーワークはほとんどない(テロ対策の一環として外国人管理を徹底するよう政府の意向が働いているという側面もある)。
しかし、引っ越し業者のような中小企業では、まだこうしたIT機器・サービスを徹底することができていないのではないだろうか。もちろんたった一件のケースで判断することはできないが、前のエントリーでも紹介した梅田望夫『シリコンバレー精神』では、大企業・大組織こそがITで生産性を上げるという話があった。ITはベンチャーや中小企業にとっても大きなメリットをもたらすが、ネット系ベンチャーでもない限り、昔ながらのやり方を大きく改善するのは難しいかもしれない。私が使った引っ越し業者もウェブページを持っていて、そこから引っ越しのリクエストを出せるのだが、メールのやりとりを見ると、どこかのホスティングサービスとアプリケーションサービスを中途半端に使っているようで、設定がうまくできていないのではないかと思えた(例えば、ウェブ上に掲載されているメールアドレスにメールを出すと不達エラーになる)。
アメリカには毎年のように来ていたが、生活をしてみて分かってくることがやはり多い。ホテルに数日滞在しただけでは生活文化に触れることは難しいと再確認させられる。数年を隔ててまたアメリカ生活を経験できるのは貴重だ。
3月13日にトルコのアンカラ帰ってきてからあっという間に10日間が過ぎた。17日から20日までの4日間はいろいろな人たちと会い、ご飯を食べまくった。大学の研究会(ゼミ)も解散になるので、OB&OGも含めた解散パーティーを企画してくれて、これは愉快だった。なんといっても学生たちの才能の豊かさ、発想のおもしろさにはいつも驚かされる。最初に会ったときは無個性に見えた彼らが、だんだんと本性を現し、おもしろいことを話し出すのを見ているのは実に楽しい。
21日から23日までは家族や親戚と会ったり、お墓参りをしたり、最後の荷造りをしたりして過ごした。その間も外食が多かったので、確実に太ったと思う。
そして、24日、雨の中、大きな荷物と共に成田空港にたどり着き、飛行機に乗った。実に疲れた。天候が悪くて離陸してからしばらくは揺れがひどかった。本を読み始めたのだが、揺れが帰って気持ち良くなり、すぐに眠ってしまった。目が覚めてからまた本を読み続けた。
読んだのは、Nさんに紹介してもらった勝間和代さんの『効率が10倍アップする新・知的生産術—自分をグーグル化する方法—』(ダイヤモンド社、2007年)である。Nさんのお知り合いだとかで、おもしろい人だとうかがっていた。本の内容も強烈だった。私が最もショックを受けたのは、カカオ(チョコレート)も一種の依存症を引き起こすものであり、それに依存しているということは頭の働きがかなり落ちている可能性があるという指摘である。私は麦チョコが好きだったと言ったら、学生が山ほど麦チョコをくれたことがあったが、チョコなんか食っているのは知的生産者としては失格ということになる。まずいなあ。
機内での食事が終わって、ようやく一息付けるようになったので、ノートパソコンを開いて、このエントリーを書き始めた(ブログに乗るのはまたしばらく先になるだろう)。3月に入ってからはメールを書く余裕もなくなり、読む時間すらなくなったので、返事待ちがたくさんたまっている。出発前に終わらせなくてはいけない仕事も結局持ち越してしまった。悪いことに、最近は神経が麻痺してきて、メールを読まなくてもいっこうに平気になってしまった。
もう一冊読んだのが、梅田望夫『シリコンバレー精神』(ちくま文庫、2006年)だ。とてもおもしろく読んだのだが、えっと思ったのが岡本行夫さんとの出会いの話。梅田さんと岡本さんが出会った直後の頃だと思うが、岡本さんとほんの一瞬だけ仕事をご一緒したことがあって、この本に出てくる話を聞いていたことを思い出した。あの話は梅田さんの話だったのかと驚いた。
乗り換えのシカゴに近づき、飛行機の窓のシェードを開けると、白い雲が一面に見える。ところが地面も真っ白だ。3月の末だというのにシカゴでは雪が降ったらしい。幸い、ボストンでは雪はなかった。しかし、東京よりはまだ寒い。
ところで、なぜ飛行機に乗ったかというと、普段お付き合いのある方々にはすでにお知らせの通り、これから来年の春まで約一年間、米国ボストンのMIT(マサチューセッツ工科大学)で在外研究を行うことになっている(正確には、MITやハーバードはボストン市の隣のケンブリッジ市にある)。なぜ米国か、なぜMITかという説明はとても長くなるのだが、ヨーロッパに行こうと思っていたけど、扉が重くてなかなか開かず、知り合いが誘ってくれたのでMITにしたというのが簡単な説明だ。7年前にも米国に行き、1年間過ごしたことを考えると、ヨーロッパのほうがおもしろそうだと思っていたのだが、今年は米国の大統領選挙があるということも米国に方針転換する要因になった。ここまでもつれるとは思っていなかったけれど、おもしろい展開である。
しかし、大統領選挙を研究しに行くわけではない。おそらく、マスメディアや在米日本人ブロガーがたくさん大統領選挙はウォッチするだろうから、私が出る幕ではないと思う。純粋にエンターテインメントとして楽しもうと思う(エンターテインメントといったら叱られるかもしれないけど)。
さっきの勝間さんの本では、五つのテーマを普段から持っていると良いと書いてあるので、この一年間見ていきたいテーマを五つ挙げておこうと思う。たった1年で五つを追いかけるのは難しいかもしれないけど、テーマを一つに絞れない私としては片手で数えられる五つを積極的に追いかけていこうと思う。
・インテリジェンス・コミュニティ:特にブッシュ政権の通信傍受。たぶん、これについては複数進んでいる裁判の判決が出るとともに、議会もそれなりの対応策(通信会社の免責法案など)を決めるのではないかと思う。
・情報通信政策:これは私にとってはサブテーマなのだけど、なぜかこちらのほうが需要が大きいのでやめられなくなっている。通信と放送の融合や、電波政策などの他、新しい動きがあればウォッチしたい。ただし、大統領選挙中なので、あまり大きな動きは出なくなっているのではないかと思う。FCCの高官たちも身の振り方を考えなくてはいけない時期だ。しかし、逆にどさくさ紛れに変な動きが出るかもしれない。
・国際政治理論:大学でのメインの授業は国際関係論ないし国際政治理論なので、この動向もウォッチするとともに、日本やアジアの思想・理論をどうやって統合するかも考えたい。
・文明論・帝国論:米国が衰退しているといわれたり、イラク戦争とアフガン戦争が終わらなかったりしている中、大統領選挙が行われる。米国がこの先どうなるのか、長期的な視点で考えたい。
・科学技術政策:最近興味があるのが遺伝子だ。この分野での発展は著しい。ヴァネバー・ブッシュ以来、MITは米国の科学技術政策に大きな影響を与えてきたので、この辺も追いかけていきたい。
全部で成果を出すのは難しいかもしれないが、とにかくどん欲にやってみよう。
3月4日、小島朋之先生の訃報が届いた。私にとっては大恩人である。私が政策・メディア研究科の後期博士課程にいた当時、主査は学位審査委員会の委員長になれないというルールがあった(今はなくなったらしい)。そこで、委員長を小島先生にお願いし、研究科委員会で学位取得のイニシアチブをとってくださった。私が総合政策学部の助教授としてSFCに戻ってきたときの学部長も小島先生だった。その後も折りに付けていろいろなアドバイスをくださった。まったくもって惜しい人をなくした。定年まであと一年で、定年後はライフワークとして残してある中国の思想家の伝記を書きたいとおっしゃっていたことを思い出す。ぜひ書いていただきたかった。
小島先生の通夜は10日、告別式は11日になった。これを知って二重にショックだった。この二日間、私はトルコの首都アンカラでシンポジウムに参加することになっていた。しかし、もともとこれは私が招待されたわけではなく、代役のそのまた代役だった。だから、この二人の同僚と、もう一人、間にはさまっていた元トルコ大使に連絡し、葬儀に出たいのでシンポジウムはキャンセルしたいと伝えた。もちろん、一度引き受けた仕事なのだからというとまどいもあったが、私にとっては小島先生は大事な人であり、シンポジウムのアジェンダを見る限り、最終日の一番最後の「その他」というセッションが私の出番であり、そのセッションで3人いるうちの一番最後で、おまけのように付いているトピックである。どう見ても私の不参加が大きな影響を与えるとは思えない。
辞退しようかどうか迷っているなか、6日の午後に小島先生の棺を乗せた車が三田キャンパスに来ることになっていた。三田の新研究棟の前でお見送りをし、やはり葬儀に出て皆と一緒に小島先生をお送りしたいと思った。その場に来ていた同僚のSさんとも話してその意を強くし、辞退のメールを主催者に送った。
その日の晩、プロジェクトの慰労会があって、都内のレストランで食事をしていた。レストランは地下一階で、携帯電話の電波が届かないところだった。店を出て携帯を見てみると、留守番電話のメッセージが二件入っているので聞いてみるが、何を言っているのか良く聞き取れない。削除してそのまま帰宅しようと駅まで行ったところ、携帯電話が鳴ったのでとってみると、在アンカラ日本大使館の駐在武官の方からの電話だった。国際電話の上に、駅のプラットフォームで電車が走っているのでよく聞き取れないのだが、どうやらトルコのシンポジウムに来て欲しいということらしい。なぜ日本大使館の人が電話をかけてくるのかよく分からなかったが、検討しますとだけ答える。
帰宅してからメールを開いてみると、主催者からの返事が来ていて、「事情は理解したが、VIPが待っているので今さらキャンセルはできない。準備万端整っているので再考して欲しい」との内容で、何やら脅しがかった文面である。先の駐在武官からも事情説明のメールが入っており、主催者からトルコ軍参謀本部に連絡が入り、そこから大使館の駐在武官に連絡が行き、私をどうしても引っ張り出せという要請を受けたらしい。
何だが強引なやり方だなあと思う一方で、直前になって辞退したことの後ろめたさもある。しかし、なぜ軍の参謀本部が出てこなくちゃいけなのか分からない。小島先生の葬儀を取り仕切るKさんその他に連絡し、何か方法はないかと探る。しかし、通夜が午後7時までで、仮に7時半の飛行機に乗れたとしても、アンカラの空港に着くのは私のセッションが始まる30分前である。無理な話である。仕方がないので、香典をSさんに託し、Kさんのアドバイスに従って供花を出し、学部長と理事の了解を得てアンカラに行くことにした。駐在武官に連絡をし、参加の意向を伝言してもらう。
9日(日)、昼に成田を飛び立つ飛行機に乗り、ミュンヘンを経由してアンカラへ到着。時間は夜の11時。日本時間では朝の6時である。機内では眠れなかったので、徹夜状態だ。タラップを降りると制服を着た軍人がぞろっと立っている。その一人が私の名前を持った札を持っている。名乗るとこちらへ来てくれと言われて、普通の旅客が通らない階段へ連れて行かれ、地上で待っていたミニバスに乗せられる。他にも何人かシンポジウム参加者と見られる外国人が乗ってきた。そして、パスポートと預けた荷物のタグを渡せという。パスポートはどこかに持って行かれたままバスは動きだし、少し離れた建物に着くと、VIPルームに通された。こちらは眠くて仕方ない上に、パスポートまでとられ、軍人にぞろぞろ囲まれて不安で仕方ない。隣に座った参加者らしき二人の英語がまったく理解できない。私の英語力の問題か、彼らのなまりのせいか、はたまた眠気で集中できないせいか。軍人が一人やってきて、私の隣の人のパスポートが受け付けられないと言っている。しかし、その人は「私のパスポートは外交官用だ。そんなはずはない」と食い下がっている。一体何が起きているのだ。
私は20分ほど待たされると、案内がやってきて、空港の外に連れて行かれた。そこには車が待っていて、私の荷物が載せられている。パスポートを返してくれ、これに乗っていけばホテルに着くといわれる。もうどうでも良い気分なので、素直に従って乗り込む。
夜の11時半を過ぎた道路はがらがらである。一般道なのだが、運転手はあくびをしながら100キロを超えるスピードで突っ走る。4車線ある幅広い道路なのだが、車線を示す線が消えかかっており、レース場を走るような感覚である。30分ほどかかってホテル兼会議場に到着する。今度はホテルのレセプションで何やらもめている。どうやら事前に聞いていた料金と違うとか何とかということを4人ぐらいの人がホテルと交渉している。勘弁してくれ〜と思いながらもずっと待たされる。ようやく私の順番が来た。予想外にも私には鍵だけ渡され、スムーズにチェックインできた。ホテルの部屋にはいるとベッドの上に巨大な箱が置かれている。何かと思って開けると、トルコ軍参謀本部からのプレゼントだというティーセットが入っている。こんなでかい箱をどうやって持って帰れというのだ。それでもって何で軍がこんなに出てくるのだ!
翌朝、目が覚めて、窓の外を見ると、テレビの中継車が数台と、軍人がぞろぞろ歩いている。朝食をとろうと思ってロビーに出ると、またぞろぞろと制服の軍人たちが歩いている。どうやらこのシンポジウムは軍の関係のものだと理解し始めた。テーマは「Global Terrorism and International Cooperation」なので、軍人がいても全くおかしくないのだが、軍の主催だとは聞いていなかった。しかし、これは軍が中心になって組織してるのだ。
9時になってシンポジウムが始まる。会場は数百人入っている。後で聞いたところでは690人の参加者がいたそうだが、その8割は制服の軍人だろう。すると突然皆が立ち上がった。何事かと思ったら、トルコ軍の総司令官の登場である。彼が挨拶を始めるとフラッシュがたくさんたかれ、数えてみるとテレビカメラも19台入っている。隣に座ったアメリカ人とドイツ人といったいこれは何なんだろうねとひそひそ話をする。挨拶などを聞いていると、どうやら主催している組織はNATO(北大西洋条約機構)が金を出しているらしく、参加している軍人たちはNATOに関連する国の人たちらしい。しかし、なぜNATOのメンバーではない日本から呼ばれたのかよく分からない。
シンポジウムは二日間でキーノートの他に、五つのセッションが用意されていた。それぞれ司会と3人程度のパネリストがいる。全部で34名の登壇者が予定されていたが、何と、3人も来ていない。キーノート・スピーカーの1人まで来ていないのだ。くそお、私も来なければ良かった。しかし、私のパネルはもともと3人のスピーカーが予定されていたのに、私を入れて2人になっている。先に逃げた人がいたのだ。私が来なければ1人になってしまう。そこで焦って私を引っ張り出そうとしたのだろう。
シンポジウム自体は、総司令官の挨拶の後は、テレビカメラが5台に減り、淡々と進んでいく。というのも、ほとんどの人がパワーポイントなどを使わず、用意してきた原稿をただひたすら読み上げ、時間オーバーで途中で無理矢理終わらされるというパターンだからだ。さすがに聞いている軍人さんたちは行儀が良くて、おしゃべりしたり、退出したりはしないのだが、どちらかというと退屈だ。テーマも、テロの定義は何かといった概念的な話が多い。
それにしても、軍のお偉いさんたちは一番前のソファに座って聞いているのに、スピーカーのわれわれは後ろのほうのパイプ椅子というのはひどくないかと思った。実に座り心地の悪い椅子で、ずっと座っていると腰が痛くなる。ぎっちり人が座っており、われわれの席は指定席になっているので、適当に動くこともできない。
一日目の夜、レセプションが開かれることになっていた。私はパーティーが嫌いなので、本当は欠席したかった。しかし、690人もいる中で、アジア顔をしている人はほとんどおらず、おまけにぼさぼさの長髪の男性というのはなかなかいない(軍人はみんな短髪)。そのためどうも目立つらしく、じろじろ見られる。ここで出席しないと後で何か言われるに違いないと思って、無理矢理参加する。ホテルからバスに乗せられて、市内にある軍所有のクラブでレセプションは開かれた。
ここでも主役は総司令官である。テレビカメラに囲まれ、人だかりができて、まるで芸能人のような感じだ。私は英語があまり得意でないトルコ空軍のおじさんと身振り手振りで話す。高校を出てから26年間、空軍一筋だそうだ。たぶんこの国で軍人であるということは良い身分なのだろう。誰に聞いたのか忘れたが、現在のトルコ政府は宗教色が強く、それを軍は快く思っていない。可能性は低いが、軍によるクーデターの期待もあり、総司令官の人気が高いらしい。途中でレセプションを抜け出して、市内を散歩できればいいと思っていたのだが、警備が厳しく、街からも遠いので出られない。おまけに夜は寒くてコートなしでは歩けない。
翌日のシンポジウムも淡々と進む。しかし、アメリカのジョージ・ワシントン大学の元先生の話は比較的おもしろい。しかし、たくさん文字の入ったスライドをぱらぱらとめくっていくので消化不良。もう一人、アメリカのジョージ・メイソン大学の先生の話もおもしろかった。テロの資金源の話だ。
昼食休憩が2時に終わり、ようやく私のセッションが始まった。最初のスピーカーはドイツ人の国連職員で、WMDについての話である。国連のような国際組織は窮屈で、あらかじめ上司の承認を受けたテキストを読み上げることしかできないらしい。ジョークも言えないのかと聞いてみると、言えないという。質疑応答はどうするのかと聞くと、差し障りのない答えしかできないとのこと。大変だなあ。彼女は用意した7ページのテキストをひたすら読み上げていく。
私は普段、テキストを読み上げることはしないのだが、主催者から事前に出してくれと頼まれ、それを読み上げるように言われていたので、一応はそうする。私のゼミのN君に訳してもらった(彼はネイティブ・スピーカーだ)テキストに、いくつかのコメントを加えてパワーポイントを使いながら話をした。テーマはサイバーテロリズムである。外国人相手だし、私の英語も下手なので、読み上げはゆっくり、パワポは文字をレッシグ並に減らし、図を多用して説明した。これが良かったらしく、後で分かりやすかったとお誉めの言葉を多くちょうだいした。居眠りしかかっていた将軍も起き上がり、私に質問をしてくれたのも何となくうれしい。
もう一つ分かったのは、私のセッションは最後のおまけのようなセッションであるのだが、しかし、その後に締めのセッションと、副司令官の挨拶、そして例の総司令官からスピーカーに対して参加証と記念の楯を渡すセレモニーがあるということだ。最後のセッションに私が参加せず、スピーカーが1人だけだと締まらないのでまずいという判断が主催者側にあったのだろう。
シンポジウムの後、何人かの人たちと連絡先を交換し、分かれる。私は日本大使館に戻るという例の駐在武官の方の車に便乗させてもらい、新市街へ出かける。今回はまったく観光の時間がなかったので、せめて街をぶらぶらしたいと思ったからだ。この駐在武官の方は海上自衛隊の飛行機乗りだそうで立派な方だ。私の携帯電話にかけてくる前、トルコ軍の参謀本部に呼び出されたそうで、申し訳ないことをした。車の中でトルコのことを少し話してもらい、新市街で車をおろしてもらってお別れする。
夕暮れ時で、若い人がたくさん通りを練り歩いている。バス・ターミナルでは帰宅する人たちが並んでいる。スターバックスもちゃんとある。お腹が空いていたので、学生食堂のようなところに飛び込み、写真を指さしてこれを食べさせてくれと頼む。なかなかおいしい。日本のテレビをいつか見ていたら、中東でドバイの次に発展するのはトルコではないかと言っていた。おそらくイスタンブールのことだと思うが、アンカラもなかなかのものだ。古本街みたいな一角があって、たくさんトルコ語の本が並んでいる。自国語で出版ができる国は幸せだ。
ホテルに戻ると、朝の4時10分に迎えの車が来るというメッセージが届いた。フライトは朝の6時10分である。本当はすぐに寝た方が良かったのだが、読みたかった本を読み出してしまい、なかなか眠れなくなる。午前3時に起きられるか不安だったが、目覚ましが鳴る前にふっと目を覚ますと3時だった。しかし、目覚ましは結局鳴らなかったので危ないところだった。この日は結局誰も軍人は登場せず、ミュンヘンまでたどりつく。ここで7時間、仕事をしながら時間をつぶして、成田行きの飛行機に乗り、13日に帰国する。
小島先生の葬儀に出られなかったのはとても残念だった。しかし、私に代役を振ってきた二人は、立場上必ず葬儀に出なくてはいけない二人だった。私は、自分では葬儀に出たかったが、しかし、私が出なくてもさして葬儀そのものに影響はないことを考えると、これも小島先生の深謀遠慮であったのかもしれない。いつものように、にやっと笑ってくださっている気がする。おかげで人脈も豊かになった。別の場所で話をする招待もいただいたことは素直にうれしい。小島先生はいつも外に出て行って頑張ることを期待してくださっていた。そのミッションを忘れずに研究生活を続け、小島先生のご冥福をお祈りしたい。