探究と方法/道具
物事を、自分で探究していく。
このことは、想像以上に難しい。
「自分で」というからには、他律的ではなく自律的に取り組まなければならない。
だから、「探究」はそのとき自分が持っている知識と経験から出発するしかない。
そして、そのたびごとに「考える」ことが求められる。
考えるなかで、今の自分では「到底 足りない」ということに気づくだろう。
こうして、探究の支援となるような「方法」や「道具」を身につけることになる。
むろん、方法や道具を習得し使いこなすのは、簡単なことではない。
そうこうしているうちに、人は方法や道具に飲み込まれてしまう。
「与えられた」方法や道具を、ただ盲目的に使うことになってしまうのだ。
こうなると、「探究する人」どころか、もはや「考えない人」である。
こういうとき、本人は「一生懸命考えている」つもりであるから厄介だ。
でも実際には、方法/道具を適合させる「接点」について考えているだけ。
ただ一点に注目するあまり、意義、経緯、限界への想像力を失っている。
そうならないためには、どうしたらいいのだろうか?
各人が十分気をつける ——— たしかに、それは必要なことではある。
それは重要で、必要なことではあるが、十分ではないだろう。
人間は、見えないものへの想像力をいとも簡単に失ってしまう生き物だから。
では、どうしたらいいのだろうか?
僕の考えは、こうだ。
「方法/道具をつくる探究」と「各人の探究」とを両方行う。
この二重構造のなかで前に進んでいく。これしかない。
もう少し具体的に言うと、こういうことである。
「方法/道具をつくる探究」を複数人で行う。
それと並行して、「各人の探究」を行う。
みんなでモデリング&シミュレーションの方法/道具をつくりながら、各自、個人研究をする。
みんなで社会分析の方法/道具をつくりながら、各自、個人研究をする。
みんなでパターン・ランゲージの方法/道具をみんなでつくりながら、各自、個人研究をする。
こういうことを、僕の研究会ではやってきた。
振り返ると、こういう二重構造があるときは、うまくまわっている。
どちらか一方に偏っているときには、うまくまわらなくなる。
二つのことを並行して行うのは、大変ではある。
でも、「自分のことで精一杯」と思い込み、実際そう行動する人は伸び悩む。
なぜなら、自分の視野・能力・想像力の限界を超えるチャンスを逃すからだ。
おそらく、研究会ごとに独自の方法/道具があるはずだ。
それらをただ「知る」のではなく、「つくる」ことに参加しよう。
このことこそが、「自分で探究していく」ことを可能にする。
僕はそう考えている。
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