井庭崇のConcept Walk

新しい視点・新しい方法をつくる思索の旅

Creative Reading:『遊ぶヴィゴツキー』(ロイス・ホルツマン)

先日、ロイス・ホルツマンの『遊ぶヴィゴツキー:生成の心理学へ』
(Vigotsky at Work and Play)を読んだ。異色のヴィゴツキー研究者でありアクティビストである著者が、通常着目されるのとは異なる仕方でヴィゴツキーに着目し、ソーシャルセラピーや即興的なパフォーマンスと絡めて論じている本である。

この本のスタンスというか方向性に、僕はかなり共鳴する。そして、そこで取り上げられるヴィゴツキーの引用やその解釈にしびれた。

例えば、本書で何度も取り上げられるヴィゴツキーの次の言葉。

探求の方法は、人間独自の心理活動の形態を研究するという企図にとって、最大限に重要な問題となる。この場合、方法論は、前提であると同時に産出物でもある。つまり研究の、道具であると同時に結果そのものなのだ(Vygotsky, 1978, p.65)


これを受けてホルツマンは、「私たちはヴィゴツキーの道具と結果の弁証法に強く触発された」と語り、次のように述べる。

私たちは自分たちのやり方で、ヴィゴツキーの方法論についての記述を解釈した。人間は道具を作り利用するだけではなく、新しい【種類】の道具 ――― 【道具と結果の道具】をも作り出すと考えた。そればかりでなく、人間の発達も道具と結果の方法論に従う。ヴィゴツキーは大人との言語ゲームとごっこ遊びによって、乳幼児が言葉の話し手となることを示した。この2つの活動においては、道具(プロセス)と結果(プロダクト)が同時に出現する。(p.ii)


実に興味深い指摘であり、そして、僕もとても共感する。

ヴィゴツキーによれば、人間科学としての心理学は、客観-主観の二元論にもとづくかぎり、発展は望めないのである。こうしてヴィゴツキーは、科学的探求の方法そのものを問うことになった(ここでいう方法は、個別の研究テクニックではなく、方法論的アプローチ全体を指している)。(p.12)

流通している科学では、方法とは適用され、結果を生み出す道具であるが、ヴィゴツキーはきわめてラディカルに、このような科学のパラダイムを捨て去るように提案した。流通科学では、方法と結果は一方向的であり、道具主義的で二元論であり、ニューマンと私は、これを【結果のための道具方法論】(tool for result methodology)と読んでいる(Newman & Holzman, 1993)。ヴィゴツキーは、質的に異なる方法概念を提唱した。これは適用される道具ではなく、道具も結果も同時に生み出す、持続的プロセスとしての活動(「探求」)である。道具と結果は、二元論的に分離されないが、しかし同じものでも一つのものでもない。むしろ、それらは、弁証法的な統合性/全体性/総体性の構成要素なのである。ヴィゴツキーが主張したのは、適用されるテクニックではなく、実践される方法論なのである。この概念の弁証法的関係性を捉えるために、ニューマンと私は、これを【道具と結果の方法論】(道具であると同時に結果 tool-and-result methodology)(Newman & Holzman, 1993)と呼んでいる。この新しい方法概念は、明らかに客観主義でも主観主義でもなく、二元論の囚われの外にある。そこにこの方法の可能性と力がある。(p.13-14)


こういう場合の「tool」は、日本語でいう「方法」と「道具」の両方の意味をもつから、「道具も結果も同時に生み出す」は、「方法も結果も同時に生み出す」と捉えてもよい。

僕の研究に引きつけて言うならば、パターン・ランゲージとは「方法」でもあり「結果」でもある、という話になる。パターン・ランゲージをつくるということ自体が、自分たちのなかを深く掘っていき学ぶ(組織学習も含む)ということであり、その結果、使用が可能になる言語が生まれる。どちらが大切なのかと聞かれれば、両方大切なのだ。それらは不可分であり、どちらか一方のために他があるわけではない。

メタにみても、井庭研で日頃やっていることは、個々のテーマのパターン・ランゲージをつくりながら、その「つくり方」もつくっている。すでに確定し固定されて「適用」するような作成方法があるわけではなく、そのたびごとに適した方法を生み出しながら、パターン・ランゲージの作成にとりくんでいる。その意味で、方法と結果の二重の「つくる」を同時にまわしているということになる。

つくられたパターン・ランゲージを使う、というときも同様のことが言える。パターン・ランゲージの使い方には、こうしなければならないという固定的な方法があるわけではない。パターン・ランゲージを使うときには、その使い方自体も考え、生み出しながら、使うことになる。つまり、「方法」(使い方)と「結果」(使って得られるもの)の両方を同時につくっていることになる。

このことは、パターン・ランゲージの応用がまだ始まったばかりだから、未開拓でよく研究されていないから、そういうことになっているのだ、と多くの人は思うかもしれない。しかし、「生成的な」(generative)なことを大切にするパターン・ランゲージは、このような「方法」と「結果」を同時につくるようなプロセスの方が、より適していると言える。

よりよいパターン・ランゲージをつくりたければ、どうつくるのかという方法も同時につくる。パターン・ランゲージを使うというときには、どう使えばよいのかという方法も同時につくる。このことが本質的に重要なのである(もちろん、広く一般に普及させるためには、道具主義的に容易に「使える」ことも大切なので、そのあたりのバランスは戦略的に考えて実践することになるとは思う)。

在ること(being)と成ること(becoming)については、本書にも登場する。ホルツマンは、ヴィゴツキーを、心理学で定番となっている見方とは異なる視点で捉えていて、それを次のように説明する。

私をヴィゴツキーの仕事を……心の理論ではなく、【成ることの理論】(theory of becoming)と理解している。彼の発達概念の構想に関するかぎり、それは全体における質的転換に関わっていた。それは存在の状態というよりも生成に関わるものであった。活動によって、心理学は「であるもの」の研究から「生成しつつあるもの」(「であるもの」をもたらす)の研究に移行する基礎が与えられる。人間発達の弁証法的概念(生成の活動)とそれを研究する方法論(道具と結果)を創造しようとするヴィゴツキーの企ては、人間発達の問題の枠組みを、それが本質的にもつパラドクスを引き受けるものへと変更した。すなわち、どのようにしてい、あるものがそれであると同時に、それでないものでもあるのかというパラドクスである。(p.25)

幼い子どもが母語話者になる様子をヴィゴツキーが記述しているが、ニューマンと私は、これを世界に関する知識獲得のための媒介手段をマスターするプロセス(すなわち手段としての道具の使用)とは見ない。発達のための環境と発達そのものを同時に(つまり道具も結果もともに)創造していると理解する。私たちは在ることと成ることの弁証法がどのようなものであるかを垣間みているのである。幼児が、自分たちが誰であるかと同時に、誰でないか(どのような人になろうとしているか)に、同時に関わるしかたを見ているのであり、これこそが発達のプロセスなのである。(p.26)


ここから、ヴィゴツキーの有名な「発達の最近接領域」(ZPD)の話につながっていく。

ヴィゴツキーの発達の最近接領域(米国では`zpd’と省略され、`zoped’と呼ぶところもある)は、現在のヴィゴツキー研究者のあいだでは、世界への働きかけを可能にする環境であるとされる。問題は、それがどのようにして【集合的に構成されるか】である。ヴィゴツキーは、学習が発達の後を応のではなく先導するような、学習と発達の弁証法的統合を強調するために、この概念を作った(Vygotsky, 1978, 1987)。(p.39)

… ヴィゴツキーは、学習と発達の社会性が集合的であることを強調している。… zpdにとって鍵となるのは、人びとと一緒に何かをすることなのである。(p.42)


このあたりから、他者との関係、とくに協働的な関わりが強調されることになる。

「ともに実践する集合形態」としてのzpdというアイディアは、ヴィゴツキーの概念の理論的重要性と実践可能性を大いに拡大した。学習が先導する発達は【集合的に創造される】とヴィゴツキーは述べているのだ。これはzpdを時空間的な実体というよりもプロセスとして、現実の領域や空間、距離というよりも活動として理解するとき、より有用になると示唆している。… 私にとってzpdは、道具と結果の弁証法的活動であり、ゾーン(環境)を作ることであると同時に、創造されるものでもある(学習が先導する発達)。(p.43)

zpdの集合的な創造は、人間生活の弁証法(「在ること」と「成ること」の弁証法)を示している。それは、人びととつながることが、やり方をまだ知らないことも可能にし、自分たちにできること以上のことが可能になるようにすることを意味する。(p.44)


これらは、ヴィゴツキーの幼児や障害児の例や、ニューマンやホルツマンのソーシャルセラピーの例でもみられるという。

どちらの場合も、普通の人びとは環境を作り上げる創造的な方法論を使って、自分自身との、仲間との(モノ的な、また心理的な)道具との、そして世界の事物との関係性を組織化し再組織化する。彼らは、【生成】を可能にする「領域」を構成するのだ。(p.44)


パターン・ランゲージをつくるということは、他の人とともに集合的に、自分たちの環境(生成を可能にする領域)をつくるということにほかならない。それは、人間の発達に関わる。各人がもっていた理想の状態(質)の断片をもちより、ひとつの(仮想の)理想の状態を構成し、それに向かって成長する。フューチャー・ランゲージの場合も同様に、自分たちのなかに断片的になった理想の未来を可視化し、それに向かってともに成長することが含意されている。

パターン・ランゲージをつくるということは、ヴィゴツキーのいう「遊び」の一種として捉えることができるだろう。ヴィゴツキーは子どもの発達を考えたので言葉遊びやごっこ遊びになるが、パターン・ランゲージをつくることは、大人にとっては、子どもの言葉遊びやごっこ遊びと同じような、一種の「遊び」と捉えることができる。ここでいう「遊び」は、仕事とは異なり、ある種の冗長性をもつ活動のことである。それには多少の難しさもともなうが、それらは克服され、楽しさも生み出す。あえて強調しておくが、ヴィゴツキーは「遊び」が発達・成長に本質的に重要だと言っているのであり、パターン・ランゲージをつくることが「遊び」であるということは、その意味においてである。

例えば、企業のなかで「顧客とのよい関係づくり」のパターン・ランゲージをつくったとすると、パターン・ランゲージをつくることそのものは、顧客との関係づくりそのものではないので、いわゆる「仕事」ではない。それとは違う活動である。パターン・ランゲージをつくるということは、社内における一種の「遊び」的活動であるとも言える。しかしながら、その場でしかない思考が生まれ、交流が生まれ、学びがあり、発達・成長へとつながる。これは必要な「遊び」であり、そういうものを(「暗黙知の共有」ということで説得的に)組織に持ち込めるのが、パターン・ランゲージである、ということができる。

ところで、本書で紹介されるグループセラピーの考察でとても興味深い部分があった。というのは、僕がふだん行っている創造的コラボレーションでも同じことが起きているからだ。パターン・ランゲージをつくるプロジェクトにおいても同じことが起きているのだ。

… 20分ほど過ぎると、会話の焦点は変化し、グループは、彼女の使うことばが何を意味するのかを探求し始めた(…)。そして、そのことを語ることがどういうことなのかを探求した(…)。彼らの語り合いの特定化された文脈のなかで特定の語やフレーズを探求することで、グループは「意味作り」を開始したのだ。真実がどうかを語ことを止めて、グループは一緒に話し合いをするという活動を探求し始めたのだ。ここで活動は、真実を発見することから意味の創造へと大きく変わった。集合的に真実を確認するというよりも、グループにとっての新しい意味の感覚を生み出すことに変化したのだった。(p.63)


パターン・ランゲージをつくっているとき、僕らは最初、自分たちの経験やインタビューで得た情報をもとにパターンを書いていく。でもあるときから(かなり後半)、単に事実を書くということを超えて、まさに「意味をつくる」感覚となる仕上げの段階がある。これは、井庭研メンバーが「先生が魔法をかけた」という時期に僕がやっていることだと思う。自分たちの経験やインタビューで出てきた、各人に帰属するバラバラのパターンを、ひとつの理想的な状態(質)を生み出す一連のパターン体系とするために、パターンの軸足を向こう側(理想的な状態=質が実現されたという想定上の世界)へと移し、それが成り立つように「意味をつくる」。最初から「意味をつくろう」としてしまっては、経験や語りの断片から大切なことを「聴く」ことができないが、最後までそれらの断片に寄り添っていると、体系を欠いたバラバラなものができてしまう。だから、あるときから、軸足を移して、「意味をつくる」ことに注力することが必要となる。

先ほどの言葉のあと、ホルツマンはさらに次のように締めくくっている。

この活動に携わることで、真実の発見がそもそも不可能であり、意味は集合的に創造されるものであり、自分たちが意味を創造する力をもつことを、深く理解するようになる。(p.63)


僕や井庭研メンバーが体験しているのは、まさにこのことで、「自分たちが意味を創造する力をもつこと」を実感しているのではないか。だから、あんなに(とても大変なのに)いきいきとしているのではないかと思う。

最後に、本書を通じて再認識した、二元論的思考を超えるということについて。

ヴィゴツキーは、いくつもの(二元論的)二分法を乗り越えようとした。生物学と文化、行動と意識、考えることと話すこと、学習と発達、個人と社会などの二分法である。彼はこの心理学のこの種の二元論的概念化を拒否し、それに強く対抗する議論を展開して、弁証法的方法論をとるように求めた。(p.4)


僕が惹かれる学者たちはみな、二元論を乗り越えようとしている。そういうことをみても、僕が二元論ではない道に関心があることは間違えない。でも、これだけ多くの学者たちが乗り越えようと試みたにも関わらず、世界がいまだに変わっていないのはいったいなぜなのだろう。まだ準備が不十分でこれから飛躍があるのだろうか。現実の根は深く変われないのであろうか。あるいは、そもそもそのような試み自体が意味のなことなのだろうか。疑問は尽きないが、少なくとも、僕は理論と実践を展開するなかで、少しでも前に進めたいと思っている。なんとかそれが実際に実を結ぶことをイメージしながら。僕が生きているうちに、変わった世界を見ることができるだろうか。できるといいな。

AsobuVygotsky.jpg『遊ぶヴィゴツキー:生成の心理学へ』(ロイス・ホルツマン, 新曜社, 2014)
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