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2007年04月27日

第2回授業レビュー(その3)

【紛争の管理と解決の方法】

授業では、紛争の管理と解決に関する一般的なパターンを提示しました。もちろん、これは機械的な分類であって、具体的な紛争解決というのは、紛争の原因・構造・利害関係に根ざした、複雑なものになることはいうまでもありません。でも、大枠だけはとらえておきましょう。

[1] 紛争当事者同士を引き離す
A国・B国がある争点によって紛争に陥っていた場合、互いの権益から距離をとって、紛争の対立点をなくすという方法があります。アメリカの「モンロー主義」(1823年のモンロー大統領による宣言)は、米国が将来の欧州の戦争に対しては中立を保ち、欧州も米国に介入しないようにする、という政治姿勢のことをいいます。これは、典型的な不介入主義によって、互いに距離をとろうとする政策です。

もうすこしtacticalな次元でいうと、「非武装地帯」(Demilitarized Zone: DMZ)の設定も[1]としての意味をもっています。朝鮮半島では、現在でも38度線から数キロをDMZとして、緩衝地帯(Buffer Zone)として紛争予防に役立てています。軍事力が互いに対峙する刺激を、距離をとることによって、軽減しようとする措置です。

しかし[1]は、近年の軍隊の輸送能力の発達、長距離ミサイルの開発と配備、戦力投射能力(Power Projection Capability)などによって、比較的紛争の管理・解決との関係が不明確になってきました。たとえば、米軍の現在の通常兵器の能力は、かなり遠方からでも正確に相手を攻撃できる兵器(精密誘導兵器)が主力となっています。その場合、仮に米軍が遠方に退いたとしても、あまり安心できないということですよね。。。


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これが実は、朝鮮半島における米軍再編にも大きく影響しています。かねてより北朝鮮は、韓国に駐留する米軍(とりわけDMZ付近に配備されている第二歩兵師団)を脅威とみなし、米軍の撤退を主張してきました。現在の米軍再編では、まさにその第二歩兵師団を再編し、DMZから南方に再配備するという方針を示しています。。。普通に考えれば、米軍は遠くに退くわけですから、北朝鮮に有利だと思いますよね?

でもそれが違うんです。北朝鮮は、これまで38度線の北の山々に配備された、長距離火砲(大砲のことです)によって、これらの米軍を射程に収めていたわけですね。いざとなった時は、第二歩兵師団を攻撃できたわけです。ところが、米軍が南方に退いてしまうと、北朝鮮は火砲によって攻撃することができなくなります。でも米軍は圧倒的な技術で、遠くからでも北朝鮮を攻撃できます。攻撃の距離(空間)が非対称であるからこそ、こうした考え方が可能なんですね。つまり「当事者を引き離す」ということは、互いが満足する手段とはならない、典型的な例です

[2] 征服・侵略
相手を侵略し、植民地化したり併合したりすることによって、紛争を解決する方法があります。帝国主義の時代までは、こうした征服・侵略による紛争解決の方法は、主たる方法のひとつでした。現代では征服・侵略というのは、紛争解決の手段としては実行が困難になりました。

その主たる理由は、1)全世界的にナショナリズムが高まった結果、侵略後の「泥沼化」が生まれやすくなった、2)通常兵器が拡散している結果として、侵略しようと思っても相手の能力が比較的高くなっている、3)基本的に現代は侵略戦争が違法化されており、国際社会の支持がえられにくい、4)先進民主主義国では兵士の命に対する意識がとりわけ高く、戦争そのものの政策的ハードルが高い・・・などが挙げられます。


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[3] 抑止
抑止についてのハンディな解説は以前にも紹介した「安全保障論ノススメ」(第3回)のレビューになります。こちらを参照してください。


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[4] 先制
先制(Preemption)とは、脅威が顕在化する前に、未然に相手の意図・能力を封じ込めることを示します。先制についての解説は、私が『中央公論』(2003年4月号)に書いた「『先制行動』を正当化する米国の論理」を読んでみてください。

[5] 妥協による共存
国際紛争の平和的解決のほとんどは、当事者同士の妥協をどのように導くかにかかっているといっていいと思います。このような妥協を導きだす論理として、よく用いられるのが「囚人のジレンマ」ゲームです。「囚人のジレンマ」とは、「個々の最適な選択が、集団の最適な選択とはならない」という関係性をあらわした状態を示します。


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たとえば、2人の囚人が別々の部屋に収監され、「おまえが相手の罪を告白すれば、釈放するぞ」と言われたとします。通常、合理的な行動をとるとすれば、囚人は罪を告白することになりそうです。

でも、仮に「互いに相手の罪を告白すれば、刑はさほど軽くならない」・「互いに黙秘すれば、刑は軽くなる」「しかし相手が告白し、自分が黙秘した場合は刑は極めて重くなる」という状況がわかると、どうするでしょうか?こうした閉鎖空間における合理的な行動は「相手の罪を告白する」ことになりがちです。当然相手も告白しますから、もっとも起こりやすいのは「告白・告白」(ナッシュ均衡)となります。紛争当事者にあてはめると、「自らの妥協が常に不利に働く」という状況下では、平和的解決が望みにくいということになります。

これを妥協による共存にもっていくためには、1)これ以上対立を続ければ損害が著しく甚大になる、2)妥協することによって、対立よりも相対的な利得が得られる、3)紛争当事者同士の妥協・協力が継続する(約束が遵守される)。。。という相互理解が成り立ってこそ可能ということになります。紛争の平和解決のための調停や斡旋などの交渉は、これらの条件をいかに当事者同士に認識させるか、が決定的に重要なのです。

[6] ルールの設定
以上のような「妥協」を制度化(Institutinalize)させることによって、紛争の平和的な管理・解決の状態を、より信頼性の高い状況に担保できる可能性があります。制度化の方法は様々です。フォーマルで堅い制度であれば、国際条約、協定、合意覚書などが挙げられます。これについては、違反したときの制裁措置が明確になっていると、さらに実効性が高まります。インフォーマルで柔らかい制度では、紳士協定、口頭の約束、認識上の一致などがあります。これらは、比較的政権が変わったり、解釈がかわったりすことによって、崩れやすいという欠点をもちます。


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ルールの設定で重要なのは「約束遵守」にかかわる問題です。仮にルールが作られたとしても、ルール外で違反行為を行ったり、ルールを公然と破ったりしたのでは、紛争解決には役立ちません。たとえば北朝鮮の核問題に関しては、核拡散防止条約、南北非核化共同声明、米朝枠組み合意、六者協議共同声明などの、多数の条約・声明・合意がなされているのですが、なかなか核開発を止めることができません。また、90年代のボスニア紛争、コソボ紛争などを振り返っても、多数の停戦合意が、もろくも崩れ去ってしまう繰り返しでした。こうしたルールの設定に関する長所と欠点についても、総合的に学習していきましょう。

【スタディ・クエスチョン】
[1] 国際紛争の定義・類型は、歴史的にどのように変遷しているだろうか?
[2] 現代における国際紛争の特徴とは?
[3] 国際紛争を管理・解決する枠組のそれぞれの長所・短所は?
[4] アジア・欧州・アフリカにおける紛争の特徴は?

<参考文献>
[1] Thomas Schelling, Strategy of Conflict, (Harvad University Press, 1960)
[2] ケネス・ボールディング 『紛争の一般理論』(ダイヤモンド社、1971年)
[3] 中川原徳仁・黒柳米司編『現代の国際紛争』(人間の科学社、1982年)
[4] 山影進『対立と共存の国際理論』(東京大学出版会、1994年)
[5] 浦野起央『現代紛争論』(南窓社、1995年)
[6] 納家政嗣「現代紛争の多様性と構造的要因」『国際問題』(2005年8月)
[7] 田中明彦『新しい中世』(日本経済新聞社、1996年)

* [1] はノーベル経済学賞を受賞したトーマス・シェリング博士による紛争研究へのゲーム理論の応用。余談だが、私は自分の論文をシェリング教授に酷評されたことがあります・・・(泣。[2]は国際紛争をはじめ経済・社会の多くの紛争の一般理論をまとめた有名な一冊。日本の研究の中でも、[4]はとりわけ優れている、が初心者には難著かも。[5]はスケールの大きい浦野先生の著作、いつも溜息。[6]は最近読んでもっとも感銘を受けた納家先生の研究、お勧めです。

(第2回レビューおわり)

投稿者 kenj : 11:07 | トラックバック

第2回授業レビュー(その2)

【紛争の定義】

「紛争」は「価値の非両立性に基づく対立」を示すかなり広義の概念です。価値の非両立性とは、ゲーム理論でいう「ゼロサム関係」ということになります。「ゼロサム」とは、損失と利得の総和が全体でゼロになる状態を指します。例えばA(0)+B(0)=0|A(5)+B(-5)=0という状況ですね。この0が不変であるならば、Aの利得はBの損失となり、またその逆も真なりということになります。国家が相手との相対的な損得、すなわち「相対利得」(relative gains)を追い求めるとすれば、互いに(or いずれか一方は)現状変更を受け入れられないということになります。(?、ってなってますか?)

物事はそう簡単ではないのですが、(将来の位置が)「ゼロサム」であると認識したときに、紛争は発生しやすくなります。逆に「ポジティブ・サム」(互いが利益をえる)あるいは「ネガティブ・サム」(互いが損をする)場合は、紛争を回避しやすくなります(もっとも利益・損失の度合いが大きく異なる場合は紛争になりやすい)。これらの紛争の定義は、政治学・社会学・経済学・心理学など多くの体系のなかで試みられてきています。こうした対立と共存のメカニズム関心のある方は、(その3)末尾の参考文献を読み進めてみてください。

この「価値の非両立性」を情念としてとらえたり、またテクニカルにゲーム理論として理解するのは大事なのですが、紛争の分析概念としてはまだまだ不十分です。もう少し紛争の中身を分類学としてみてみましょう。

まず、「戦争」は軍事力・武力行使を伴う紛争で、もっともBrutalなものです。大国同士の戦争を「主要戦争(Major War)」、主要戦争にいたらない規模の紛争を「地域紛争(Regional Conflict)」と区分けすることが一般的です。戦争のなかにも、国家同士が争う伝統的な「正規戦(Conventional Warfare)」とともに、最近では国家以外のアクター(民族、政治・社会集団など)が争う「非正規戦(Unconventional Warfare)」もみられるようになりました。

国家間の紛争に対比させ、こうした国内で生じる紛争を「内戦(Civil War)」と表現します。また、同じ軍事力の使用といっても、小規模なテロ・ゲリラ型の内戦も頻発しており、これを「低強度紛争」(Low Intensity Conflict)と呼んだりします。

「紛争」には軍事力の使用を伴わないものもあります。WTOや二国間経済交渉などで、国家同士の経済利益が対立した状態を「経済紛争」と呼び、また領土問題や国際問題の処理をめぐって国際司法裁判所などで争う「法廷紛争」のケースもあります。近年は、経済的相互依存、通信、国際制度、さらには多国籍企業の利用などが、時には軍事力以上の役割を果たすこともあります(ジョセフ・ナイ、参考書15頁)。これらが軍事的な対立に発展しないということであれば、主張・立場をめぐる「論争」(disputes)として区分けしてとらえてもよいかと思います。また、同じ「争い」であっても、ルールに基づく競合関係については「競争」(Competition)として位置づけることができます。このあたりは、いちおうの言葉の分類を覚えてみてください。

【現代の紛争の傾向:「3つの圏域」論から】

それではここで、現代の世界の紛争の状況について概観してみましょう。かつての帝国主義の時代、第一次、第二次世界大戦のように、主要国同士が総力をあげて戦争をすること―いわゆる伝統的な「戦争」―は、現代では想定しにくくなりました。その理由は、授業でも紹介した「3つの圏域論」のうち「新中世圏」(田中明彦『新しい中世』)に属する先進民主主義国同士が戦争しにくい状況になったからです。ここでいう「新中世圏」というのは、一人あたりのGDPが1万ドル以上、自由主義的民主制を導入し、平均寿命が60歳以上の国を指します。OECD諸国などがこれにあたるわけですね。


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これらの国々同士は、1)核兵器や高性能兵器の登場によって、戦争のエスカレーションによる被害が甚大になったこと(リアリズムによる分析)、2)経済的相互依存関係・高度な都市化・少子化が進行し、紛争による損失への意識が高まったこと(リベラリズムによる分析I)、3)民主主義によって政策決定が多元化したことにより戦争が実行しにくくなった(リベラリズムによる分析II ⇒ いわゆる”Democratic Peace”やや根拠は弱い)が挙げられています。多くの学者が現代では「主要国同士の戦争は不可能になった」とも論じています。ただ、現代では中国・ロシア・インド・ブラジル(BRICs)の台頭や、中小国への核拡散の懸念など、現代の「前提」がどれほど長期的な傾向となるのかは、必ずしも明確ではありません。

ところが「近代圏」に属する国々や、ガバナンスが欠如した破綻国家群「混沌圏」においては、未だに武力紛争が生じやすい状況にあります。「近代圏」にある国々は、国家建設・経済建設の過程でナショナリズムが強化され、また国家権力が強固な国々が多いのが特徴です。これらの国々では、場合によっては武力によって紛争を解決する手段をとる場合があります。1980年代のイラン・イラク戦争、2000年代のインド・パキスタン紛争などはその典型です。

また「混沌圏」では、ガバナンス自体が確立していないために、国家が軍事力や国内の武器を管理できず、分散したアクターが武器を所有し、互いに争う「内戦」が頻発しています。実際、スウェーデンのウプサラ大学の「紛争データ」ストックホルム国際平和研究所(SIPRI)年鑑をみると、現代の統計に表れる紛争のほとんどは「内戦」の形態をとっていることがわかります。

現代の内戦は、欧州(バルカン半島・少数民族の独立)、アフリカ(西海岸、太湖地域)、中東、アジア(南西アジア、南アジア、東南アジア)、ラテンアメリカなど、世界的な現象としてみることができますが、とりわけ「破綻国家型」の内戦が多いのは、アフリカ大陸です。ソマリア、ルワンダ、ブルンジ、スーダン、コンゴ、アンゴラ、リベリア、シエラレオーネ、西サハラなどで内戦、抗争などが多発しています。

もうひとつ重要なことは「新中世圏」の国々と「近代圏」「混沌圏」との係り合いです。「近代圏」の争いに対して、「新中世圏」の国々は多くの利害関係をもっているケースが多いからです。朝鮮半島における南北対立も、米韓同盟が関与しています。中台紛争(中国からみれば国内問題という位置づけ)も、米国や日本の関与によって国際紛争に転化する性質をもっています。また、米国を中心とする主要国が戦争を起こすケースもあります。湾岸戦争、コソボ紛争(NATOの空爆)、アフガニスタン戦争、イラク戦争など、さまざまな形態で大国が紛争に関与してきたわけです。

そして最後が、国際テロリズムです。これは「3つの圏域論」ではなかなか分類できない、空間横断的アクターです。これについては、次回(第3回)詳しく扱いましょう。ここでは現代の「紛争」が、「3つの圏域」の中、そして各圏域同士の相互作用の中から、ことなる形で表出されるということを押さえておきましょう。

【紛争はなぜ起きるのか:3つの類型】

世界に頻発する紛争については、さまざまな原因があります。100の紛争には100通りの原因と経緯があり、一概に括ることは困難です。とはいっても、それだけでは紛争研究として捉えることにはならないので、ひとまず大きなカテゴリーで理解することを試みてみましょう。それぞれのカテゴリーには重複する性質も多いため、あくまでも目安としてください。

[1] 生存(survival)と自助(self-help)を求める紛争

1929年の不戦条約、1945年の国連憲章を経て、国際社会において広く戦争は「違法化」されました。しかし、現代の国際法でも戦争に関する2つの例外があります。ひとつは、国連憲章第51条に基づく個別的および集団的自衛権の行使にあたる場合です。国家は犯すことのできない自然権としての自衛権を保有し、これを行使できるという考え方です。国内法における正当防衛や緊急避難にも通じる考え方ですね。もうひとつは国連憲章第7章に基づく集団安全保障による武力の行使です。こちらについては、国連の安全保障を扱う回にじっくり説明します。

国際社会において侵略、武力による攻撃・威嚇の危機に瀕する国は、これに対抗する権利があるということですね。近年のケースとして挙げられるのは、1960~70年代のベトナム戦争(北ベトナム側の視点)、1979年ソ連のアフガニスタン侵攻、1990~91年のイラクのクウェート侵攻、チェチェン紛争などが挙げられます。しかしながら、侵略戦争に対するコストが著しく高くなった現代において、こうした旧来の「生存」型紛争は、比較的生じにくくなっているのは事実です。

しかしながら、近年新たに浮上している[1]型の紛争は、国家の統治能力の低下した「破綻国家」内において、無秩序な殺戮や暴動などが起こっているケースです。国家統治が破綻しているということは、警察や治安組織はもとより、水道・道路・電気といった基礎インフラが整わず、安全や生活基盤が公共的に提供されていない状況に陥ります。こうした秩序の「弛緩」した状態において、生存と自助を維持するためには、民兵のような組織が武装して秩序を担保する必要があります。そしてこうした民兵組織の乱立は、法制度や公的制裁のない荒れた秩序のため、(その3)で述べる「妥協による共存」や「ルールの設定」が著しく難しい状況になります。

[2] アイデンティティ(identity)と(民族)自決(self-determination)をもとめる紛争

現代の紛争において[2]のカテゴリーは、もっとも多くのケースが集まるといっていいでしょう。紛争が「価値」を発火点とする以上、現代のほぼすべての問題は多かれ少なかれ[2]に収斂するといってもいいかもしれません。最近の傾向をみると、1) 冷戦の崩壊によって、それまでの「帝国」型のシステムが解体し、紛争に発展するケース(旧ユーゴスラビア、旧ソ連邦諸国)、2)民族ナショナリズムによって主権国家から分離・独立しようとするケース(チェチェン、ナゴルノ・カラバフ、北アイルランド、バスク、ドニエストル、グルジア、アチェ、イリアンジャヤ)などが挙げれれます。

[3] 領土・領海・資源の帰属をめぐる紛争

国家間紛争でもっとも多いパターンは、領土・領海・資源などの国境をめぐる紛争です。インド・パキスタンは長年カシミール地方の領有をめぐって戦火を交えてきました。また南シナ海にある南沙諸島については、中国・ベトナム・フィリピン・台湾・マレーシア・ブルネイの6つの国・地域が領有権を主張する係争地です。我が日本も、ロシアとの間で北方領土、中国と尖閣諸島、韓国とは竹島という「問題」を抱えています。

[4] 伝統的統治秩序(パトロン・クライアント関係)と市場経済の衝突による紛争

「混沌圏」に近い「近代圏」、つまり政治的近代化を達成していない国では、部族・親族・民族・有力財界の権力者が支配する、伝統的社会の構成がみられます。これをパトロン・クライアント関係といいます。こうした国にも、経済的相互依存やグローバリゼーションは影響し、市場経済の導入をはじめとする、自由主義的な価値観が徐々に浸透するようになります。納家論文は、このパトロネージ・システムの「弛緩」による紛争のパターンとして、1)支配者の利益の独り占めの状況による他集団との対立、2)専制体制の崩壊による集団間の均衡の崩れ、3)国民形成における多数派に入れない少数派の急進化、分離・独立運動、4)急速な都市化と農村・都市人口の流動化に伴う都市型のパトロネージ・ネットワークの再編・・・、という4つの分類を挙げています。とても鋭いと思います。

[5] 利益配分(value distribution)や異議申し立てをめぐる紛争

[2]のアイデンティティをめぐる紛争は交渉による妥協や利益の分割が比較的難しい分野です。しかし紛争の争点が、比較的分割やトレードが可能な分野であれば、利益配分を変化させることにより、紛争に効果的に対応できるかもしれません。交渉の余地がある、ということです。(その3)で学ぶ紛争の管理・解決の枠組で扱う「妥協」や「制度による調整」は[1]や[2]の紛争を[3]の性質に変えていくことを意味しています。損害を賠償というかたちで別の交換単位(財貨など)に変えていくことも、これにあたります。民主制度を導入したての国が、選挙後に組織された政府の代表のされ方に満足いかず、少数派が過激化するケースはよくみられます。

(つづく)

投稿者 kenj : 10:53 | トラックバック

第2回授業レビュー(その1)

【国際紛争の一般概念(フレームワーク)】

国際紛争に関心のある皆さんは、ただちに紛争のケーススタディに入りたい気持ちがあるかもしれません。ただ世界にはさまざまな紛争の形態があり、その全容をつかむことは容易ではありません。たとえば、紛争研究でいまもっとも着目されている International Crisis Group (ICG) のウェブサイト を覗いてみると、2007年4月現在で76ケースの紛争があることが報告されています。Reuter’s News AleartNet のインタラクティブ・マップで、conflict のタグをクリックしてUpdate Mapを押してみてください。すると、紛争はアジア・中東・アフリカ・ラテンアメリカなど世界各地で発生していることがわかります。

世界における紛争がどうなっているのか、気になって仕方がない。。。でも、はやる気持ちを抑えて、まずは紛争に関する一般概念から勉強してみましょう。なぜ国際社会において紛争は起きるのか?紛争にはどのような類型があるのか?現代の紛争の傾向は?紛争の管理・解決にはどのような方法があるの?といった大きな課題を検討し、ケーススタディのさらなる理解につなげていくのが今回の目的です。

【紛争はなぜ起こるのか:「価値の非両立性」について】

人間社会における紛争はどうして起こるのでしょうか。それはヒトが「価値」(value)によって生きているからかもしれません。「価値」とは真善美などをめぐる「よい」「わるい」といわれる性質です。価値には太陽の恵みのように分け隔てなく共有できるものと、有限・排他的で共有できないものとがあります。有限な価値は、獲得したり配分しなければならないわけですが、すべての人々に価値が満足いくように配分されるわけではありません。

そのため、ひとつの価値の適用によって、もうひとつの価値が成り立たないという「非両立性」が生じることがあるわけです。たとえば、ある国の統治制度が一定の民族・宗教・言語・風習の存在が認められず抑圧される。民族・人種・部族・家族など先天的で選択できないものをめぐって、社会的差別が起こる。身分や所得などの社会階層によって配分の格差がおこる。特定の統治者が配分を独占・寡占している。統治者と思想・信条が折り合わない。宗教上の聖地が他者に占有されている。資源や領土の条件が異なることによって発展の機会が失われる。民族として独立した国・統治機構を持ちたいのに、認められない。

このような「価値の非両立性」によって、自らの守りたいと思う価値・所有していた価値が失われる(た・れるであろう)場合、また叶えたい価値が(平和的方法で)実現できない場合、そしてそれが理不尽(道理に合わない)な形で生じる場合、人々は憎悪・恐怖・嫉妬の感情を募らせ、Violenceへと向かうことがあるわけです。

とりわけ他国・他の集団・他人の核心的価値を犠牲にしない限り、自己の価値を実現できないという認識(K・ホルスティ)によって、「価値の非両立性」は「現状変更」への志向へと変わり紛争へと転化するわけです。紛争とは「ヒトの心」の問題なんですね。世界は平和になればいいのに・・・という願いにもかかわらず、このような「価値の非両立性」は世界各地に存在しているわけです。

【認識(perception)と誤解(misperception)について】

それでは「ヒトの心」、とくに認識・認知の問題を少し考えてみましょう。人間は外からの「刺激」を認識する能力が強く発達しています。人間のアイデンティティは他との比較によって生まれるわけですが、それは外部からの刺激を「言葉」によって解釈することによって生まれます。「言葉」こそが人間社会を高度に複雑なメカニズムへと導いてきたわけです。ところが「言葉」はひとりひとりによって、解釈・認識がわかれるわけですね。ここに、紛争を理解するためのもうひとつのキーワードが隠されています。

人の認識・記憶というのは、実に曖昧なものです。たとえば、(ややホラーですが)後ろを振り返ってみてください。いまあなたの背中にあるものは「存在」していることは間違いありません。でも、再び前を向いたとき、後ろにあるものが「存在」していることを、どのように証明するでしょうか。もう一度振り返って確認することですよね。あるいは、鏡をつかってみてもいいし、他の人に確認してもらってもいい。「存在」の認定には、このような隣接する別の存在による認識の連鎖が必要なんです。*

ところが、人間関係、社会同士、国家同士の関係については、このような認識の連鎖がとても難しいのです。授業ではこれを「認知(perception)イメージの連鎖」として紹介しました。「ヒトの心」は、記号で表すことが難しいものです。昔から多くの詩や歌は、この問題に向き合ってきました。Chage&ASKAの「SAY YES」という歌の歌詞に「言葉は心を超えない、とても伝えたがってるけど、心に勝てない」、Extremeというバンドのバラード”More than Words”(You Tube)でも、"You don't have to say that you love me. Cos I’d alrealy know” なんていわれると、そうだよなと思ってしまいます。

でも社会生活において、言葉によって自分と他人を表現することは不可欠です。自己紹介や、自分の好き嫌い、自分の心地よい居場所、熱中したいこと、将来実現したい夢などは、具体的な言葉によって表現されることによって、アイデンティファイされるわけです。ところがこの「言葉」の解釈が、自分と他者ではけっこう異なるわけです。「A1」の自分を、正確に表現できる他人はどのくらいいるでしょうか。また他人の「B1」にどれほど迫ることができるでしょうか。

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「B2」を形成するのは、Bとの直接のコミュニケーション、他人からの伝聞・評価、メディア等媒体の評価などの総合的なものです。ところがBと直接のコミュニケーションが困難な場合(国家間関係など)、一定の理解の枠組みをとおして「B1」を評価しなければなりません。人間は過度の複雑性には耐えられませんから、かなり単純化した「B2」を形成しがちです。とくに政策決定者は、人々の意思決定を凝集するためにも、「B2」をわかりやすく形成することが求められています。

ジョセフ・ナイ『国際紛争』の第1章で取り上げられている、ペロポネソス戦争におけるアテネとスパルタの争いを読んでみてください。アテネ・(A)とスパルタ・(B)とした場合、アテネはスパルタが領土拡張的であって好戦的であるという「B2」を形成し、そのための対抗的な軍備拡張をします。するとスパルタはアテネが将来せめて来る準備を始めたに違いないとする「A2」をつくり、そのためにさらなる軍事拡張をします。するとアテネは「やっぱりそうか」として、みずからの「B2」を実現してしまいます。これを「自己実現的予言」(self-fulfilling prophecy)といいます。紛争の原因には、このような認知連鎖の問題が実に奇妙に絡み合っているのです。そこには「情報の不完全性」という問題が常につきまとっているからです。

相手を理解するには、一定の「観念」や「枠組」を必要としているのです。これらの観念や枠組みは、小説や演劇のように、人生を豊かに彩ることもできれば、政治の世界において政策を実行したり、人々を動員したりする凝集力としても用いられます。

2003年にアメリカ(A)がイラク戦争をはじめた大きな理由は「イラク(B)に大量破壊兵器がある」からという認識に基づくものでした。戦争が終わってみると、実際にはイラクには大量破壊兵器はなかったわけです。なぜ、こんな(愚かな)事態が起こってしまうのでしょうか?アメリカのインテリジェンスによる「B2」が間違っていたことは、すでに明らかとなりました。

しかし、イラクも「大量破壊兵器がない」ことを、なぜもっと早く明確に国際社会に証明しなかったのでしょうか?そこで同時に考えなければならないことは、イラク自身が大量破壊兵器はあるかもしれないという「B3」の自己イメージを、長年対外的に用いてきたことでした。なぜイラクはそのような行動(作為)と欺瞞(不作為を含む)をとったのでしょうか。イラク戦争は「自己実現型預言」の典型例だったのかもしれません。

少し文章を割きすぎた感がありますが、こうした心の作用について理解を深めると、世界の紛争により迫ることができるかもしれません。

(つづく)


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*認識の連鎖による「事実」のとらえ方については、村上春樹『国境の南、太陽の西』に興味深い記述があります


だから僕らは現実を現実としてつなぎとめておくために、それを相対化するもうひとつの現実を―隣接する現実を―必要としている。でもそのべつの隣接する現実もまた、それが現実であることを相対化するための根拠を必要としている。それが現実であることを証明するまたべつの隣接した現実があるわけだ。そのような連鎖が僕らの意識のなかでずっとどこまでも続いて、ある意味ではそれが続くことによって、それらの連鎖を維持することによって、僕という存在が成り立っているといっても過言ではないだろう。でもどこかで、何かの拍子にその連鎖が途切れてしまう。すると途端に僕は途方にくれてしまうことになる。中断の向こう側にあるものが本当の現実なのか、それとも中断のこちら側にあるものが本当の現実なのか

村上春樹『国境の南、太陽の西』(講談社、1992年)275頁

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第1回授業レビュー(その3)

【安全保障の「空間」と「時間」】

第2象限の安全保障の特徴はどのようなものでしょうか?これを理解することにより、現代の国際紛争と安全保障政策の構造の重要な課題に、私たちは迫ることができるかもしれません。これを「空間」軸と「時間」軸という二つの指標をつかって、考えてみることにしましょう。

「空間」という概念を冷戦期・冷戦後・9.11後の三つの時代区分にあてはめた場合、いくつかの特徴が浮かび上がることに気づきます。冷戦期は、米国とソ連を両軸とする西側諸国と東側諸国との熾烈なイデオロギー・軍事・経済的な対立関係に規定されていました。そして、その対立関係がもっとも先鋭化していたのは、欧州大陸でした。欧州はドイツが分断され、ハンガリー、チェコ・スロバキア、ルーマニア、ユーゴスラビアなど、北部から南部バルカン半島にいたるまで、「鉄のカーテン」(チャーチル)と呼ばれる分断線が引かれました。

欧州大陸は陸続きですから、第一次、第二次大戦を戦った大陸型の対立構造が、冷戦期も継続していたのです。そして欧州の対立を背後からメタ構造化していたのが、米ソの核兵器を中心とする戦略的対峙でした。西側は北大西洋条約機構(NATO)を、そして東側はワルシャワ条約機構(WP)を形成し、多国間の集団防衛機構によって対立を深めることとなったのです。これらの欧州を主要舞台とした対立構造を冷戦の「第一戦線」とよびます。

冷戦期の対立構造は、当然ながら欧州以外の地域にも異なる波及をもたらしました。第8回に詳しく扱うアジアの安全保障では、共産主義が必ずしも東欧諸国のように一枚岩ではなく、ロシア・中国・北朝鮮・ベトナムなど、複雑な対立と協調関係がみられました。そのため、西側の一員となった東アジア諸国同士でも、NATOのような集団防衛機構を形成することはできず、日米、米韓、米比、米タイ、米豪ニュージーランド(ANZUS)のような、二国間のネットワーク(ハブ・スポークス関係とも呼びます)によって、同盟関係を形成していました。こうした冷戦期の戦略関係を「第二戦線」と呼んでいました。


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重要なことは、冷戦期の戦略的「空間」は、こうした第一戦線・第二戦線・それ以外の国際関係という構造によって生み出されていたことです。第三次世界大戦が不幸にも生じたとすれば、それは全「空間」における戦争の波及を意味したわけです。

他方で、冷戦期は脅威が比較的特定され(例えばソ連)、それに対する対抗のありかたも特定しやすかったという特徴があります。日本についていえば、極東ソ連軍との関係が重要であり、北東アジアにおけるソ連とのパワーバランスをどのように日米安全保障条約によって維持していくかが重要な政策でした。

【第2象限における「空間」】

ところが、現代の安全保障、とりわけ第2象限の安全保障には同じような「空間」概念があてはまりにくくなっています。例えば、国際テロリズムの脅威を取り上げてみましょう。9.11の実行犯は19名にのぼるわけですが、彼らが2001年9月11日までにどのような準備をしていたのかを振り返ってみると、興味深い現象に気づきます。

当時、国際テロ組織アルカイダはアフガニスタンを本拠地とするヘッドクオーターを中心に、多重型・自立分散型ネットワークとして世界各地に展開していました。そして、企業献金や金融取引などを通じて莫大な資金を獲得し、多くのエージェントやブラックマーケットを通じて、武器や訓練技術などを獲得していました。アルカイダの訓練基地は、ソマリア、アフガニスタン、インドネシアなど多くの国に分散していたこともわかりました。そして、米国国内でも飛行ライセンスのための訓練学校に通うことによって、飛行技術を習得していました。


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こうしたテロ実行までのヒト・モノ・カネの結びつきをみると、このネットワークが全世界的な広がりをもっていることがわかります。ソ連の攻撃を抑止するためには、ソ連と東欧諸国の地理的進出を抑止し、兵器体系のバランスを保つことこそが大事でした。しかし、アルカイダのテロリズムに対抗するためには、単一の地域や能力を対象とするだけでは、とても食い止めることができないということなのです。

さらに、領土をもたないネットワーク組織は、ひとつの組織を破壊したとしても、また別のユニットが再生され、再組織化されます。このようなミュータント的組織構造であるがゆえに、場所を選ばず、偏在することが可能なのです。このためテロリズムの脅威の空間というのは、特定することがきわめて困難なのです。還元すれば、脅威はどこにでも存在することが可能なのです。

グローバリゼーションの深化した現代では、ヒト・モノ・カネの移動が即時的に世界を駆け巡ります。アフリカにおけるテロリストの訓練キャンプが活発に活動していることは、日本にとっても無視できない現象となりました。サウジアラビアの石油関連企業が、マーシャル諸島などを経由して、テロ関連資金として送金している可能性もあるかもしれません。モスクやイスラム教関連組織ではテロ関係者のリクルーティングがあるかもしれないし、もっと身近な学校や宗教組織にもそのような機能があるかもしれません。2005年7月のロンドンにおける同時テロ事件の首謀者は、イギリス生まれのロンドン育ちにもかかわらず、アルカイダと関係することによって、テロを起こすにいたりました。

第2象限の世界における脅威は、世界に展開しているのと同時に、身近なところにも偏在しているのです。これを私は「空間横断の安全保障」と呼んでいます。

【第2象限における「時間」】

「新しい安全保障」を「時間」という概念からとらえた場合に、どのような特徴があらわれるでしょうか。「時間」というのは、空間と同じく哲学的な概念なのですが、ここでは「紛争サイクル」における時間に限定して考えて見ましょう。「紛争サイクル」というのは、平時(緊張がなく平和な状態)⇒危機(緊張が高まる状態)⇒有事(実際の戦闘行為が行われている状態)⇒紛争後(停戦後の状態)という各段階の移行過程ととらえてください。


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かつての時代の「紛争サイクル」は、上記の平時から紛争後にいたる直線的(リニア)モデルによって描くことが一般的でした。ある国家間同士の紛争は、領土や資源の配分などの問題をめぐり対立関係を深め、制度や合意による平和的な解決が見込めない場合「危機」に突入し、最後通告をしても互いの妥協が図れなくなった場合、宣戦布告による「有事」となりました。そして一方の勝利、手詰まり(stalemate)、厭戦(weariness)などによって戦闘の継続ができなくなった場合、停戦が成立し、紛争後のリハビリテーションがはじまるというサイクルです。

ところが第2象限の「紛争サイクル」はこのような伝統的な流れをたどるとは限らなくなりました。とりわけ国際テロリズムは、「危機」の段階と予兆を把握しにくく、宣戦布告もないままに、テロリズムの実行にいたるのが普通です。テロリズム実行への危機の高まりを十分に把握できないまま、気づいたら航空機がビルに突入したり、地下鉄にサリンが撒かれたり、重要施設で爆弾が爆発したり、場合によっては生物兵器や化学兵器が都市で使用されることになるかもしれません。

こうした現象を突き詰めて考えてみると、「平時」「危機」「有事」というのは、その境界が曖昧となってきたことに気づきます。現在は「平時」にみえて「危機」かもしれないし、今日は「平時」でも明日は「有事」かもしれません。つまり、第2象限の世界において、これらの概念はほぼ同時に存在しうるのです。「時間偏在の安全保障」「共時性の安全保障」とでも名づけてみようかと思っています。

(第1回おわり)

【Study Question】
[1] 国防(defense)から安全保障(security)という概念が重要となった背景は何か?
[2] 国家安全保障(national security)・国際安全保障(international security)・経済安全保障(economic security)・人間の安全保障(human security)などの概念とは何か?それぞれの関連性は?
[3] 安全保障の「空間」(space)と「時間」(time)は、20~21世紀の世界にどのように変遷しているだろうか?

<参考文献・資料>
[1] 佐藤誠三郎「『国防』がなぜ『安全保障』になったのか:日本の安全保障の基本問題との関連で」『外交フォーラム』(1999年特別号、1999年11月)
[2] 田中明彦「21世紀に向けての安全保障」及び「現在の世界システムと安全保障」『複雑性の世界:「テロの世紀」と日本』(頸草書房、2003年)
[3] 納家政嗣「人間・国家・国際社会と安全保障概念」」『国際安全保障』(第30巻第1・2合併号、 2002年9月)
[4] 永井陽之助『時間の政治学』(中央公論社、1979年)

*[1] は「安全保障」概念の台頭をめぐるもっとも優れた業績。あとで配布したいと思います。[2]21世紀の安全保障の特質を概観し、[3]は人間・国家・国際社会という3つのレベルにおける安全保障の捉え方を分析している。[4]は「空間」「時間」概念と政治学への接近を図った名著。

投稿者 kenj : 09:46 | トラックバック

第1回授業レビュー(その2)

【新しい安全保障論】

とはいっても、歴史を見据えた巨視的な観点から、現代の安全保障の特質を理解することは、とても重要なことです。その都度変化する方程式を、代入法でばかり解いているわけにもいきません。われわれは、英知によって安全保障の方程式を作る必要があるのです。

私たちのような昭和後期生まれ(平成生まれ?)の世代にとって、皮膚感覚で理解できる国際状況というのは限られた範囲でしかありません。聖戦論の時代、帝国主義の時代や、イデオロギー対立の時代において、どのような戦争と平和の観念が人々を支配していたのか、今ではそこに心を震わせることがとても難しいのです。

1970年代生まれの私の祖父母は、太平洋戦争と徴兵を体験した世代ですが、90年代生まれに入ると、いよいよ家族に戦争の実体験をした人がいなくなる世代に入ります。つい先ごろの戦争の記憶も、次第に物語となって、歴史に吸収されていく道筋をたどっているように思えます。でも、われわれはたしかに2001年9月11日に戦慄をおぼえたはずです。何か新しい種類の破壊行為が、理解することの難しい理由をもって、迫ってくる可能性を感じとったのではないかと思います。「新しい戦争がはじまった」とブッシュ大統領は宣言したわけですが、「新しさ」をとらえるためには「古い」戦争がどのようなものであったのかも、理解する必要があるはずです。

そこで、第1回の授業では「脅威の座標軸」による理解を提案しました、横軸に脅威の「対称性」と「非対称性」をとり、縦軸に脅威の「列度」の大小をおきます。すると、第二次大戦後から冷戦期にかけての国際関係の大部分は、第1象限、すなわち対称的で列度の高い対立関係を前提としていたことがわかります。米国とソ連は、自由主義と共産主義のイデオロギー対立とともに、西側諸国と東側諸国による二極化された国際構造を欧州に形成し、アジア諸国も、また第三世界の国々の多くも、この二極構造から自由とはなりませんでした。


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ところが、9.11が提起したことは、こうした非対称的な脅威が、安全保障上の第1級の脅威として浮上したことにありました。かつて冷戦期におけるテロリズムは、脅威とみなされていたものの、その破壊規模は数百人程度に過ぎませんでした。ところが、9.11ではNYCとワシントンDCにおいて約3000人の人々が犠牲となりました。

仮に戦争の定義を、ひとつの戦闘行為によって1000人以上の死者がでる状態と定義するならば、9.11はいよいよテロリズムが戦争の領域に踏み出したことを意味しています。そしてさらに重要なのは、こうした非対称的脅威が、核兵器・生物兵器・化学兵器などの大量破壊兵器(Weapons of Mass Destruction:WMD)と結びついた場合、この「列度」はさらに破壊的な規模となるということです。

脅威の非対称性はテロリズムだけではなく、イラン・北朝鮮といった、いわゆる「ならず者国家(rogue states)」にも適用されます。これらの国々は、国際法、条約、協定、合意などの国際的約束事を十分に履行せず、現状維持に対する不満を表明しているばかりでなく、「平和的変更」の可能性を狭めていることに特徴があります。さらに、米ソ関係やソ連・欧州関係にみられた合理性が、どこまで適用できるかもわかりません。こうした国家が、近年大量破壊兵器やミサイルの取得に傾注していることも、第2象限の安全保障の重要性を際立たせています。

すなわち、現代の安全保障の特質は「第1象限から第2象限への拡大」ととらえてよいと思います。そして、この「拡大」はかつての安全保障の論理に、革命的といってもよい影響を与えているのです。とりわけ大きな影響を受けるのが、(旧)安全保障論第3回のブログで詳しく説明している、抑止の概念です。冷戦期の米ソ関係において、互いの価値が両立しないのであれば、紛争の生起可能性を減らしていくことこそが、安全保障の考え方の支柱にありました。それが「自国が報復の意思と能力を明示することにより、相手に攻撃を思いとどまらせる」という抑止の考え方でした。この抑止論は、核兵器の登場による破滅的な報復能力の獲得により、きわめて説得的な考え方となったわけです。

ところが、第2象限のアクターにたいして「抑止」が作用するかどうかは、疑わしいといわざるをえません。例えばこちらでものべたように、抑止が成立する条件とは、相手にたいして①報復能力を持つこと、②報復する意思を明示すること、③相互理解をすること、が成り立つことが必要です。

ところが、テロリストに対して、報復をするのは難しいし、報復意思を示したとしても威嚇効果になりにくいし、その意味では相互理解は不可能です。さらに、自爆テロを手段とするテロリストに対しては、報復しようがしまいが、攻撃を決行されてしまいます。結局、自己保存に関する原則が成り立たない相手を、怖いものはないということになります。

また「ならず者」国家にしてみても、仮に金正日体制が崩壊の危機に瀕しているときに、北朝鮮の日本に対する攻撃を抑止できるかどうかは、きわめて難しいかもしれません。かりに「将軍なければ国家なし」という観念を北朝鮮が信じているとすれば、報復自体はさほど問題ではないということになるからです。

このように、第2象限における安全保障の特徴は、相手と「共存」することが難しいということにあります。テロリストとの共存関係のなかで安定を保つ、北朝鮮やイランとの共存関係を保つというのは、実に難しい課題なのです。となると、相手との「非共存」を選ばなければならない。そのときに出てくるのが「先制」といった概念であったわけなのです。これが「ブッシュドクトリン」の論理ということになります。

(つづく)

投稿者 kenj : 09:39 | トラックバック

第1回授業レビュー(その1)

このブログは、授業の理解を促進するためのサブ・教材として、また担当講師と受講者のみなさんとのコミュニケーションツールとして、位置づけたいと思います。授業やブログに関する質問・意見につきましては、SFC-SFCおよび担当者宛メールにて、積極的にお寄せください。

さてSFCは2007年度春学期より「未来創造カリキュラム」という新しいカリキュラムを採用しました。これに伴い、旧「安全保障論」は「安全保障と国際紛争」という科目として生まれ変わることになりました。私は2年間にわたり「安全保障論」を担当しましたが、今学期からは旧来の科目に加えて、「国際紛争」の諸相・原因・紛争処理と解決などについても、力を入れたいと思っています。旧科目のブログは「安全保障論ノススメ」に掲載されていますので、授業の進展に合わせて参照してみてください。

【「酸素」と多元的な安全保障】

「安全保障は酸素のようなものである。失ってみたときに、はじめてその意味がわかる」(Security is like oxygen. You do not notice it until you begin to lose it.)。これは、ハーバード大学ケネディスクール学長のジョセフ・ナイ教授が1995年に残している言葉です。当時、ナイ教授は米国防総省の国防次官補という要職で、東アジア安全保障政策を担当していました。1989~91年の冷戦の崩壊に伴い、もはや日米同盟の役割は終えたのではないか?同盟は解消して、多国間安全保障の形成を目指すべきではないか?という議論を、「空気」の喩えをつかって鋭く戒めたのです。

ナイ教授の言葉は、日々私たちが当たり前だと思っている(take for granted)日本の安全が、実は多くのパワー(power)、制度(institution)、財産(asset)、知恵(knowledge)によって支えられている、ということを示唆しています。

もっとも「安全」というのは、安全でなくなったときに初めて実感できるものです。みなさんが、風邪をひいたときに、日々の健康についての価値を気づくのと同じように。「明日の安全をどうしようと思い悩まない状態が、安全な状態だ」という真理も、空気が汚れ、淀んできたときの知恵をもたらすわけではありません。私たちは安全保障を学ぶものとして、現在の空気に「輪郭を与える」ことから始めなければなりません。そこから、勉強をスタートさせましょう。

安全保障については、これまで世界中の多くの学者がその定義を試みてきました。でも、この授業では定義の蛸壺にはまることが主旨ではないし、100の定義を覚えたとしても「政策学」として役立つかどうかは疑問です(尊敬すべき学術成果ではありますが)。できるだけざっくりと私なりの定義と解説を中心に、議論を深めていきましょう。

安全保障はもっとも広義には「誰が(主体))・何を(価値)・どのように(手段)・誰と(協力者)守るのか」という一般概念です。1648年のウエストファリア体制が成立してからの国際体系において、安全保障に関する概念は「国家が自国を軍事力によって守る」=国防(Defense)という考え方が中心でした。戦時国際法や戦争の違法化という規範もない世界において、自国のパワーを増大させ、自助(self-help)によって国家を守るという考え方が基調だったわけです。

ところが、現代の安全保障論は、「国防」概念よりもはるかに多元的な理解を必要としています。[主体]については、依然として国家が中心的なアクターですが、企業、地方公共団体、非政府組織(NGO)、個人も安全保障を担う主体となっています。[価値]についても、国家を構成する多元要素(国民の生命、財産、企業、文化、アイデンティティ)を守るべき価値とみなすようになりました。[手段]についても、軍事力・経済力といったハード・パワー(hard power)に加えて、最近では社会・文化的な力としてのソフト・パワー(soft power)も注目を集めています。そして[協力者]についても、伝統的な同盟関係に加えて、多国間安全保障、アドホックな協力、国連などの国際機関の役割など、多くの枠組みとの関係性を考える必要があるのですね。

こうした論点から生まれてきたのが、総合安全保障、経済安全保障(ときには食糧安全保障)、人間の安全保障といった安全保障を総合化、あるいは伝統的な分野と区分けしてとらえる考え方です。ときには、これらの概念が「伝統的安全保障よりも重要だ」という意味づけをしたがる人たちもいます。

でも、私のとらえ方は若干異なります。第一に、そもそも安全保障は総合的なものです。時代が変わるにつれ、「守る」という述語をみたすための主語も目的語も変容しているのですから、「安全保障」という言葉そのものがダイナミックに変化する概念です。「守る」ために経済や人間ひとりひとりに着目すべきときには、そうすべきなのです。

第二に、国や立場のおかれた状況(先天的状況)において、安全保障の概念は当然に異なるわけです。たとえば日本の安全保障といえば、北朝鮮の核開発問題や、将来の中国の台頭といった周辺国の動向を注視するのは当然です。しかし、もしアメリカ人だったとすれば国際テロリズムやイラクの動向が気になるし、ボスニア人だったらセルビア・クロアチアとの関係や民族間の融和こそが安全保障のテーマとなります。1997年の金融危機前後のマレーシアの首相だったら、ヘッジファンドの脅威こそが国家の脅威と定義するかもしれません。ソマリアやスーダンに生まれていたら、日々の生活の維持やガバナンスの確立こそが安全保障のテーマであるわけです。

そして重要なことは、グローバリゼーションの深化と拡大によって、日本も他の先進国も、これらの異なる「安全保障」の課題を抱えている国々と、多くのインターフェースによってかかわりあっているということです。だから、以上に述べたすべての安全保障論から、われわれは逃れることができないのです。

安全保障の固定的な定義を捜し求め、そこに安住することは、「政策学」としては有効ではありません。われわれは、守るべき「価値」、守るべき「人」がそこにいるならば、どのように守るのかということを絶えず再構成していかなければなりません。それが、安全保障のダイナミックな政策学なのです。

(つづく)

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2007年04月14日

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