Saint-Gérand, Jacques-Philippe
この論文で扱われているのはフランスの文献学の成立における政治性と、その言語と政治の関係性を覆い隠すことによって、言語学の科学性が打ち立てられるようになった19世紀における言語への問いの変遷であり、それをロマンス語の重視と、基層文化としてのケルトの重視という2つの「極端な考え」を、 François RaynouardとFrancisque Michelの活動によって検討するとともに、そうした極端さ、いわば偽りの科学が消えるとともに、中性化された言語学が生まれたことを明らかにする。
まずはロマニスムである。トゥルバドゥールの詩によって代表されるオック語文学は、その草稿が個人によって所蔵され、忘れ去られていたが、18 世紀になると、中世の遺産に注目が集まることになる。しかしそれが文学研究となるためには、コーパスを整備し、一貫性のある原則のもとで研究されなくてはならない。それを最初に手がけた人物として位置づけられるのがFrançois Raynouardである。
アカデミー・フランセーズ辞書第5版の共同執筆者でもあったRaynouard(1761-1836)は、1816年から21年にかけて、Grammaire comparée des langues de L'Europe latine avec la langue des troubadours, Choix des poésies originales des troubadoursを編纂、出版する。そしてこの中でRaynouardは「プロヴァンス語が諸新ラテン語の起源にあった」と主張した。一方今日でも彼の主要な著作とされているのは、死後出版も含む1836-1844年にかけて編纂された6巻本、Lexique roman ou DIctionnaire de la langue des Troubadours comparée avec les autres langues de l'Europe latineである。この書において十分な文献がそろったといえる。ここにおいてロマンス語とは何か、その位置づけが確定することになる。つまりプロヴァンス語が一文化として復活したわけである。
Saint-GérandはRaynouardのトゥルバドゥールの言語に対する考えを次のようにまとめる。
11世紀に新ラテン語諸語の分化が決定的になる前に、ラテン語からロマンス語が生まれており、これが«intermédiaire»、「介在」となっている。ストラスブールの誓約とBoèceの物語を語る南仏の叙事詩がこの言語の書き言葉としての形態を伝えている。1000年頃のシャルルマーニュ帝国の分割後も、この言語は現在の南仏諸地方言語でありつづけた。この考えにしたがえば、ここで推定されるロマンス語とは、ラテン的価値をヨーロッパの別の言語を通して保証していくことになる言語の母であり、かつその長女ということになる。そしてヨーロッパ諸語は、それぞれの民族の発音に対応した変化をこのロマンス語に加えることになったとRaynouardは言う。たとえば、ラテン語のpanemは、南仏、あるいはプロヴァンス語ではpanとなり、これがイタリア語でpane, フランス語でpainとなったとする。このRaynouardの主張が否定されるためには1836年のFriedrich DiezによるGrammatikを待たなくてはならない。これをもってようやくプロヴァンス語も他のラテン語系の言語と等しい位置におかれたのである。
Raynouardの論拠の出発点となったのは、オイル語の音声は、オック語とは異なり、後者が昔からの音声の色合いを保っていたという点である。しかしSaint-Gérandは同時代におけるイデオロギー的なコンテクストを2点指摘する。
まずは比較言語学の影響である。その思想的影響とは、すなわち、印欧諸語を通して、言語と宗教の起源へと遡ることができ、それが人類の文化の原初的状況を明らかにするという点である。この視点から言えば、Raynouardにとってのプロヴァンス語とは、まさに原始語といってよい地位を持っていたのだ。言語の過去を遡ることは、文学テキストという形式のもとで、文化的な財産、共同体の伝統の一部となっていくことを意味する。こうした国民、民族意識は、政治的な意図に先立っているのだ。
2つ目にあげられるのが、詩という表現形式である。スタール夫人が、「ロマン主義の詩がトゥルバドゥールの詩がその起源となっている文学の直接の後継である」だと言う時、このロマン主義の詩とは、フランスという民族、フランスという土地に結びついているものである。この主張は、 Raynouardにとっては、プロヴァンス語とトゥルバドゥールの作品は、民族とその祖先へとつながる伝統を持っていたことを意味する。 ではRaynouardの「誤り」はどこにあったのか?第一の段階においては、Bopp, DiezのようにRaynouardも言語を、言語以外の人間的事象から分離させ、文字、語、語源について歴史的変遷を考察していた。しかし次の段階において、こうした言語形式を、トゥルバドゥールの文学作品に結びつけることによって、言語の中に原初の人間の真実というものをみようとしたのである。この点がSaint-Gérandが指摘する「誤り」である。つまり言語外のものへの言及は、言語の科学性を証し立てるのに役立たないのだ。
次にFrancisque Michelのスコットランド研究が挙げられる。Michelは1830年代から中世のテキストを出版し始めるが、特にイギリスにわたり、様々な第一次資料をまとめあげたことで知られる。つまり国民文学を作り上げるために必要な草稿を収集するのに寄与したわけである。Saint-Gérandが詳細に分析するのはCritical Inquiry into the Scottish Languageである。
Saint-GérandはMichelのテキストを10の要旨にまとめている。1)スコットランド語が古英語の方言であるとすることへの批判、2)英語とスコットランド語は同じ語根を持っているがそれぞれ独立して変化していったということ。3)スカンジナビア諸言語のスコットランド語の単語に対する影響、4)ノルマン民族によるケルト世界の没落と、フランス文化のイギリス圏における影響、5)文学にも適用される氏名の、語源にさかのぼっての作成、6)中世初期におけるフランス語の宮廷における浸透、その一時的衰退と14世紀における復活、7)パリの大学で学んだスコットランドの僧侶たちの言語、文化に対する影響、8)托鉢修道会における説教の言葉への俗なる現地の言葉の使用、9)蔵書における、フランス文学の資料への強い興味、10)スコットランド文学へのフランス文学への影響。つまりMichelの主眼は、フランスという言葉の定義もおろそかに、フランス文学の、スコットランド文化創成期における影響を謳っているのだ。以後、言葉にはひとつの亀裂がはしり、フランス語をモデルとした技術に関連した言語を使う層と、ゲール語の影響を受けた共通語を使う、洗練されていない社会層である。この社会層の中ではフランス語からの借用語は急速に消えていった。
Michelが集めた原典や歴史に関する情報は、同時代においては「信頼に足る入念な仕事」と評され、この時代において知りうることはすべて集約された観があるテキストである。しかしながら、MIchelのテキストにおいては、フランス人がスコットランドに文明をもたらしたという前提がいたるところで見られ、文献学の批評理論にのっとった作業はなされていない。しかしこのような指摘では単に言語学を学問内部に押し込めるだけで、Michelにみられるイデオロギー性、政治的な意味は浮かんでこない、とSaint-Gérandは指摘する。そのためにSaint-Gérandは、Michelにおけるlangueの厳密な定義、そして言語学の論争から生まれてくる様々な考えー国民語、ケルトとロマンスの対立、方言研究の目的と結果ーに着目する。
Michelにとってlangueとはmoyen de communication quotidienne dont la littérature fournit l'image la plus intéressante parce qu'elle en fixe le mouvement et permet l'inscription de norme d'usage「日常のコミュニケーションの方法であり、そのもっとも興味深いイメージは、文学が、その動きを固定し、慣用という規範によって書き記すことによって、もたらしてくれる」という直感的なものでしかなかった。それによってMichelはフランス語は、文明化された社会の表現媒体であり、それがスコットランドにもたらされたという文化論に終始してしまう。またさらに「フランス」語、「フランス」文化、と言った時のフランスそのもののアイデンティティも問われることがない。またスコットランド語の方は、当時の言語学者たちが規定していた「クレオール化」している言語とみなされていた。
第2にSaint-Gérandが挙げるのは、Michelの文献学がロマン主義の時代を出発点としていることである。Saint-Gérandはかつての外交官であったPaul de BourgoingのLes Guerres d'Idiomes et de Nationalitésを取り上げ、言語の特殊性に基づく国民的要求が起こったのが、19世紀半ばであり、これが政治的混乱を作り出しているとするBourgoingの指摘に言及する。この考えに対する返答が4年後のAuguste ScheleicherによるLes Langues de l'Europe moderneである。ここでは民族の歴史が言語の歴史によって強化される。
一方D.Monnierは1823年の時点ですでに、音声現象にもとづく地理的な図を作ることを考える。1844年にはNaberが英語とスコットランド・ゲール語の境界を画定する。1866年、Schuchardtは言語的な境界線が引けるとしてもそれはメタフォリックにしか可能ではないと強調する。1878年にはSébillotがブルターニュの地においてgalloとbritonとを区別する。こうした事実はイデオロギーの反映に他ならない。つまりスコットランド語の語彙の多くがフランス語で構成されているということは、ケルト語の拡張に反対し、ロマンス語に起源を求めることと等しいのであり、征服者のケルト人を文明世界の境界へと、印欧語族の隅へと追いやることに等しいのである。
こうした時代の流れをみてくると、Michelは結局言語を語彙の分類というレベルに限定して、国民的同意によって統一化される共同体の政治表現形式としてのlangueには行き着いていないのだ。Michelの言う、文明の進歩、文献学の方法論といったものの背後には実は、政治性が露見してしまうのだ。 結果として、RaynouardやMichelの考えは、ロマンス語あるいはプロヴァンス語の優越化、フランス文化のスコットランドへの流入という「非学問性」のために、否定されるに終わる。しかしそれにともなって登場した科学とは何か?1866年、言語の起源という言語外的要素に依拠する研究を、パリ言語学協会は拒否する。それはしかし同時に、言語のもつ政治性を覆い隠してしまうことになった。文献学の起源は、起源の問いを無化することから始まり、やがて国語の単一性のために、ロマニスムとケルティスムの対立を消し去ったのだ。つまり学問の科学性は、国家語という政治性と新たに結びつくことで成立したのである。